2-1. 隣国へ
「マルティナ、あの方が、お前が世話になる予定のケーリッヒ子爵家のご令息だ」
使節団歓迎の夜会に、父のアードリアン・エーレンベルク侯爵とともにおもむいたマルティナは、侯爵が視線でしめした先の男を確認した。
今日のマルティナは、深い青のドレスに身を包んでいる。黒髪を高く結い上げ、気に入りの真珠の髪飾りを付けていた。
夜会はまだ皇帝夫妻の到着を待っており、全体的にリラックスしたムードだ。
使節団の面々は会場の中央近くに固まっている。宰相を中心として、騎士団や使節のメンバーがばらばらと歓談を楽しんでいる様子が見えた。
侯爵が示したのは、騎士団でも団長のバッジを付けた男だった。
背が高い。銀髪に頭ひとつ高い背と、騎士団の制服に包まれた体躯は、かなりがっしりとしていた。
しかし、顔の上半分を隠すような黒いマスクを付けている。
マスクの影になって目の色はよく見えなかった。
「マスクをされている方ですか。何故仮面舞踏会でもないのに、マスクを」
男を確認したあと、扇を広げ、視線を戻して侯爵に問うと、侯爵は頷いた。
「フレリア王国では山脈の位置の関係で北から魔物が流れて来やすい。
首都まで来ることは稀だが、騎士団は北方に討伐のためにたびたび赴くらしい。
数年前にその討伐で額に傷をおったそうでな。それを隠していらっしゃるとのことだ」
「なるほど」
ケーリッヒ子爵令息は使節団の長である宰相の横に控えるようにじっと立っていた。
「隙がありませんね」
一目見ただけで分かる。
リラックスして立っているように見えるが、どこから打ちかかってもまず躱されるか、なぎ払われるのではないか、という確信のようなものがあった。
殺気はないが、周りに対する警戒は最大限だ。
全く隙がなく、自分が打ち込むのであればどこからならいけそうかを、マルティナは思案した。
「そうだ。ヴィル……ヴィルヘルム様といったかな、ケーリッヒ子爵のご養子として家に入られた次男様だが、剣の腕が素晴らしい。それで私とも交流があった」
侯爵が苦笑する。
「彼が皇国の騎士団に残ってくれれば心強かったんだが」
マルティナは、父が誰かの剣の腕を褒めるのを聞いた事がなかったため、内心とても驚いていた。
扇の内側から、再度そっと視線を送る。
「お父様が褒める腕の方……。是非手合わせ願いたいですわ」
「フレリアに行ったら、滞在中に存分に指南してもらえ。おそらくもう、私より強いぞあの男は」
マルティナが視線を送っていると、ヴィルヘルム・ケーリッヒ子爵令息がマルティナの視線に気づいてこちらを見た。
マスクの奥の、濃い灰色の目は警戒するような色を浮かべていたが、相手が令嬢だと知るとすっと視線を逸らす。
(あら、殺気が気取られましたかしら)
マルティナは扇の下で、くすりと笑った。
その時、皇帝夫妻の訪れを告げるラッパが会場に響いた。
皆の注目が集まる中、皇帝と皇后、次いでハーラルト皇子が入ってきた。横にローザリンデがいるかと思ったが、誰も連れていない。
さすがにマルティナが断ったあとに噂の中心人物をエスコートしてくるのは自重したか、さもなくば誰かに止められたのだろう。
(今夜、ローザリンデはいるのかしらね)
いてくれれば良い。
そして皇子の注意を是非惹きつけて欲しいところだ。そう思って会場を見回したが、ぱっと見たところあの目立つストロベリーブロンドの髪は見当たらなかった。
マルティナに視線が集まっているのを感じる。
今日、エスコートをされる予定だったのを知っている貴族達が、様子をうかがうようにこちらをちらちらと見ているのが分かった。
同情的な視線と興味本位の視線が混じり合っている。
(みなさま、飽きませんわねえ。ローザがここにいればあの子が全部視線をさらっていってくれたでしょうに)
マルティナは気づかないふりで皇帝夫妻に目を向けた。
皇帝夫妻がフレリア王国の宰相や、使節団の訪れに対して長々と歓迎の挨拶を述べている間に、みなに乾杯のための飲み物が配られていく。
マルティナが周りを見渡すと、ベリーの入った飲み物を掲げる侍従がそばに控えていた。
ちょうど近くにいるので手を伸ばすと、その侍従はすっと寄ってきてマルティナが杯をとるのにまかせる。
侯爵は、と見ると、別の侍従から飲み物を取っていた。シンプルな白ワインのようだった。
皇帝夫妻の乾杯の合図とともに皆で飲み物に口をつけたが、マルティナは少し渋みを感じて一口のみで杯を近くのテーブルに置いた。
歓談が始まると、興味で膨れ上がった貴族達に侯爵とともに囲まれてしまった。人垣の向こうにいる使節団に目を向けると、歓談の輪から外れたヴィルヘルムがそっとテラスの方に出ていくのが見えた。
(どちらにいらっしゃるのかしら)
囲む貴族達をかわして大きなテラスに出ると、マルティナはヴィルヘルムの姿を探した。
テラスの端にある、中庭に下りる階段をくだっていくヴィルヘルムの頭を見つけて、やや不審に思いながら追いかける。
中庭に何の用だろうか? もしや、内通……?
マルティナはあとを追って中庭に下りたが、高い植え込みに遮られてヴィルヘルムがどこに行ったか分からなかった。
植え込みの間の綺麗に整備された道を歩いてしばらく探したが、物音ひとつ、話し声ひとつ聞こえない。ただ夏の虫の声が聞こえていた。
「綺麗ね」
誰にともなくそう口にする。返事は虫の声だけだ。
足下を照らすための小さなランプが、道沿いにポツポツと並べられている。ランプの中では蝋燭がゆらと揺れていた。
しばらくゆらめく明かりが並んでいるのを見ていたが、ヴィルヘルムの気配もないし、きっと呼んだとしても出てこないだろう。
マルティナはため息をついた。
中庭に一人でいるのも、またヴィルヘルムが見つかったとして、二人でこんな人気のないところにいるのが誰か他の貴族に見られるのもあまり良くないと思い直す。
特に用事があったわけでもないし、懸念したように誰かと密会をしている様子もなさそうだ。
(わたくしの足音が聞こえていても姿を現さないのならば、あちらも見つかりたくないのでしょうし、会場に戻りましょうか)
そう思って踵を返すと、いつの間にいたのか、近衛の制服を着た騎士が二人、少し離れたところからマルティナの様子をうかがっていた。
(ハーラルト皇子の手配かしら。わたくしの様子を把握する必要がありまして?)
少し不快感を覚えながら歩みを進める。騎士の目の前を通り過ぎようとすると、一人がマルティナに向かって口を開いた。
「マルティナ・エーレンベルグ侯爵令嬢ですね。皇子殿下がお待ちです。一緒においでくださいますでしょうか」
丁寧な言葉遣いだが有無を言わさぬ口調だった。
「嫌です、と申し上げたら?」
マルティナはつんと顎をあげて騎士を見返す。
騎士はマルティナの紫の瞳ににらまれて一瞬ぐっと詰まったが、思い直したようにマルティナの手に腕を伸ばしてきた。
「嫌でも皇子殿下の命です。来ていただきます」
マルティナは騎士の手をぱしん、と持っていた扇で叩いてかわした。騎士は前につんのめる形になる。
一瞬何が起きたか分からない顔をしていた騎士だったが、やや怒ったように「令嬢」と大きな声を上げた。
マルティナは目を細めた。今日、ローザリンデが呼ばれていなかったのはそういうことか。
「あなたの言っていることが嘘ではないと、証明できまして?」
「なっ」
「皇子殿下の命をよそおって、わたくしに危害を与えるどなたかの策かもしれませんでしょう?」
マルティナが扇をひらいて微笑むと、騎士は「いいえ」とかぶりを振った。
「客間にお連れするように承りました。確かに皇子殿下からの命でございます」
「そう」
答えるマルティナは扇をパシリと閉じて、すっと下げた。
(ハーラルトは、わたくしとも既成事実を作れば良い、と思い至ったのですね)
「浅はかですわね」
マルティナはうっすらと笑うと、そのままずっと足を踏み出し、扇を騎士のみぞおちに叩きつけた。
騎士は、二つ折りになって崩れ落ちていく。
もう一人は驚きのあまり立ちすくんでいた。




