歩数計アプリに支配された男
かつては歩数を測りたいのなら、歩数計を購入する必要があったが、今はスマホで簡単に無料ダウンロードできる。
千野万次は46歳の会社員。血圧、血糖値、尿酸値……体のあちこちに黄信号が灯っているのを痛感し、健康のために歩数計アプリをダウンロードした。
「妻と娘のためにも、1日1万歩、頑張るぞ!」
固く心に誓ったのだった。
万次はまず、自宅から駅までの道のりを自転車ではなく、歩くことにした。家から駅まではおおよそ3000歩だということが分かった。会社のある日は往復で6000歩歩くことになる。
さらに、会社にいる時はちょっとしたオフィス内の移動や外回りで、2000歩は歩くことが判明した。
つまり、会社通勤するだけで8000歩は歩くわけだ。意外と歩いてるもんだなぁ、と感心する万次。
あとはプライベートで2000歩歩けば、ノルマクリアとなる。歩くペースにもよるが、2000歩は20分も歩けば達成できる。それほど苦労する数字ではない。
万次は日々スマホを持ち、1日1万歩を達成し続けるのだった。
ある日、家族で食卓を囲んでいると、高校1年生の一人娘、恵がこう言った。
「お父さん、最近スリムになったよね」
「そうかな?」
妻の桃子もおかずのイカフライを箸で取りながら微笑む。
「お父さん、最近歩いてるからね」
「そうなんだ!」
「ああ、歩数計アプリをダウンロードしてな。今のところ、1日1万歩を達成し続けてるぞ」
「やるぅ!」
「絶対三日坊主になると思ってたけど、大したものよね」
妻子に褒められ、まんざらでもない万次。
実際にお世辞ではなく、万次の体重は前より落ちているし、健康診断も去年より明らかに数値がよかった。成果は出ているのだ。
成果が出ればやる気も出るのが人間というものである。万次の歩数計への執着はますます強くなっていった。
***
ある夜のこと、もうすぐ日が変わろうというのに、万次が出かけようとする。
桃子が声をかける。
「あなた、どこに行くの?」
「ちょっと歩いてくる」
「どうして?」
「うっかりしてた。今日はまだ9800歩しか歩いてなかったんだ。あと200歩歩かなくちゃ」
「いいじゃない、200歩ぐらい」
「ダメだ。こういうのは一度達成できないと、ズルズルいっちゃうからな」
この理屈も分からないでもなかった桃子は、それ以上は止めなかった。
残り200歩を稼ぐため、出かける万次。
だが、これはほんの始まりに過ぎなかったのだ。
***
「ただいまー」
万次が会社から帰ってきた。
「お帰りなさい」と桃子が出迎える。
ご飯を食べていた恵も、
「お父さん、なんだか嬉しそうだね」
と声をかける。
「今日はあちこち歩き回ったからな。しかも歩数計を見ないようにしてた。きっと15000……いや20000歩は歩いてるかもしれないぞ」
期待に満ちた笑顔でスマホを見る。プレゼントの入った箱を前にした子供のようだ。ところが、すぐさまその顔は凍り付いた。
「……え!?」
画面にはなぜか5000歩程度しか表示されていなかった。
「……なんで!? どうして!? あんなに歩いたのに!」
狼狽する万次。
事態を察して、恵が笑いながら言った。
「ああ、歩数計アプリってたまにそういうことあるらしいよ。何かの拍子にカウント止まっちゃうの」
「なんだって!?」
悲鳴のような声を上げる。歩数確認を後の楽しみにしていたため、アプリの不具合に気づけなかった。
「まあいいじゃない。お父さんはたっぷり歩いたんだから」
すると――
「よくないっ!!!」
ビクッとする妻と娘。
「くそ、こんなことならこまめにチェックしておくべきだった……」
玄関に向かう万次。
「ちょっと、ご飯を用意してるのにどこに行くのよ」
「決まってるだろ。足りない分の5000歩、歩いてくるんだ」
「どうして? 今日はたっぷり歩いたんでしょ?」
「ダメなんだ。1万歩歩かなきゃダメなんだ」
あくまでカウントされていないとダメらしい。
説得しても聞き耳を持たず、万次は出かけてしまった。
小一時間後、1万歩を達成し、満足そうに戻ってきた万次に、桃子も恵も異様なものを感じていた。
***
それからというもの、万次の行動はますますおかしくなっていった。
ある日、コンビニから帰ってきた万次、
「しまったぁ!」
と叫ぶ。
「なに?」
「どうしたの?」
桃子たちが聞くと、
「今コンビニに行った時、スマホを持って行かなかったんだ。往復で1000歩は歩いたのに……くそっ! 損した! 損した!」
本気で悔しがっている。
気にするなと励まそうにも、今や万次の中には独自ルールが出来ているので、口出しもできなかった。
会社でこんなこともあった。
ある日のこと、課長職の万次は営業会議の資料作りなどで、全く歩けていなかった。
会社での2000歩がないと、後がかなり苦しくなる……とイライラしてくる。
「このままじゃ……達成できない!」
部下の一人が口を挟む。
「え、今月は売上順調だったと思いますけど……」
「そういうことじゃないんだよ!」
立ち上がると万次は、
「すまんが、歩いてくる!」
とどこかに行ってしまった。
取り残された部下たちはポカーンとするしかなかった。
***
アプリをダウンロードして以来、皆勤賞のように1万歩を達成し続けた万次であったが、ついに来るべき時は来た。
風邪でダウンしてしまったのだ。
「うう……歩かないと……」
「ダメよ! 38℃もあるんだから!」
「しかし、今日は全然歩いてない……」
「絶対行かせないからね!」
妻と娘に止められ、なにより自分自身の体が言う事を聞かず、結局2日間寝込んだ。
万次の頭にあったのは、欠勤することへの負い目よりも、自分の体の心配よりも、1万歩を達成できない悔しさだった。
ようやく、起き上がれるぐらいに回復した時、万次の中でやるべきことは決まっていた。
「出かけてくる」
「今日は休みなさいよ。せっかく日曜日なんだし」
「歩きたいんだ」
「そんな体調で1万歩も歩いたら……」
「いいや、3万歩だ」
2日間ほぼ歩いてないのだから、これを帳消しにするには今日中に3万歩歩くしかない。こんな理屈であった。
桃子の制止も聞かず、万次は家を飛び出した。
3万歩はおよそ20km。しかも万次は焦っており、歩くペースはかなり速かった。何度もスマホを確認しながら、目標達成を目指す。
「まだ5000歩か……くそっ!」
歩く、歩く、歩く……。
病み上がりの体でこんなことをすればどうなるか。万次はだんだんとふらふらしてきた。
息が切れる。視界がぼやける。足が思うように動かない。
千鳥足のようになり、ついに前のめりに倒れてしまった。
わずかに意識が残っていた万次の耳に、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
***
万次は病院のベッドにいた。
桃子と恵が見舞いに来ている。
「あなた、具合はどう?」
「もう……心配したんだから!」
人生初の救急車搬送、さらには入院を体験し、万次もすっかり憑き物が落ちたようになっていた。
「すまなかった……。俺、どうかしてたよ。健康のために歩数計を始めたのに、こんなことになっちまって……」
桃子が首を振る。
「誰しも熱中しすぎて……ってことはあるわよ。覚めてくれたのならそれでいいわ」
「そうそう! 私もそういうことしょっちゅうあるし!」
二人の励ましが万次にはありがたかった。歩数計アプリを始めたのはこの二人のためだった、と初心に帰ることができた。
「会社は……」
「しばらくお休みすると伝えたし、大丈夫よ。部長さんもゆっくり静養するように、と言って下さったわ」
家族だけでなく会社にまで迷惑をかけ、恥じ入ってしまう。
「早いとこ回復して……職場に復帰しないとな」
そんな夫の両手に、桃子はそっと自分の両手を乗せた。
「焦らないで。一歩一歩、元気な自分を取り戻していきましょ」
完
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