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現代恋愛

シャーロットにはとっておきのパンプスで

作者: アンリ

海外を舞台にしています。

「」は日本語、『』は英語で会話をしています。

 日本とは違う、からりとした空気。

 真夏の晴天の下でも、空気の中に含まれる湿分の量が違うだけで快適さは随分と違う。


 まだ時差を克服していない体でもその違いは十二分に分かる。

 それでも天から降り注ぐ強い陽光は無防備な目と肌には強烈すぎて、美和は目を細めて天を仰いだ。


 どこまでも高い空、どこまでも澄んだ美しい空――。


 ここはアメリカ。ノースカロライナ州。シャーロット。


 高層ビルが並ぶ通りを、美和は少しの興奮と緊張を感じながら歩いていた。おろしたばかりのパンプスがきれいに舗装された道路の上で小気味いい音を鳴らして気持ちがいい。よく磨かれているのだろう、どのビルの窓にも空に浮かぶ白い雲がくっきりと映り込んでいる。しかも四方の窓ガラスが常に何かしらを反射していて、少し視線をあげるだけで直射日光そのものよりも眩しい光が目に飛び込んでくる。


 アメリカに、シャーロットに来たのだという実感が強まってくる。


「あ、美和! こっちこっち!」


 声のする方に視線をやれば、向こうで手を振っているのは同期の香苗だった。白のパンツスーツがさわやかなショートカットとともによく似合っている。


 美和は同じように手を振って見せながら香苗の元へと足早に近寄った。


「ごめん、待った?」

「ううん全然。私もちょうど今降りて来たとこだから」


 香苗が軽く上空を仰いだ。


「うーん。ほんといい天気。空気はからっとしているけど日差しが強くて困るよね。でもビジネスファッションにサングラスなんて私たちにはちょっと似合わないしねえ」

「ふふ。だよねえ。客先に日傘さして行くのも変だし」

「あ、そうそう。こっちもオフィスの冷房はきついから。長袖ないとほんと辛いから。そのノースリーブのカットソー、いい感じだけど、何か持ってきてるよね?」

「もちろん。忘れたら終わりだよ」


 海外出張でよくある話を続けながら、二人は居並ぶビルの一つへと入っていった。


 中に入るや寒さで両腕を抱えた美和に対して、現地の人々は文字通り涼しい顔をして颯爽と歩いている。女性の幾人かは体のラインが出るノースリーブのワンピースにサンダルという恰好でも平然としている。


「どこに行けばいいんだっけ?」


 鞄から取り出した麻のジャケットを羽織りつつ美和が問うと、香苗が上空に人差し指を立ててみせた。


「二十七階。最上階」

「わ、すごい。最上階ですか」

「そ。明日の本番用の会議室を今日から押さえてるってわけ。それだけこのプロジェクトに力が入っているってことよ。何も私達だけじゃなくて、ね」


 入社して五年、この若い二人は先輩や上司とともにいくつかの国をこれまで訪問してきた。香苗は調達部、美和は技術営業部として。そんな二人が自部署の代表として、しかも同期と初めて仕事をすることになったのが今回のプロジェクトだ。


 ここ一年ほど、美和と香苗は互いに顔を突き合わせながら遠慮のない議論を重ねてきた。そして今日という日を迎えている。明日のプレゼン本番に向けて、二人の気合の入りようはいつも以上だ。


 エレベーターに乗り込み目的の階のボタンを押すと、エレベーターは滑らかな動きで上昇を開始した。一瞬ふわりと体が浮遊し、続けてぐっと下に押される感覚がし、美和はよろめいた。


「大丈夫?」

「ごめん。まだ新しいパンプスに慣れてなくて」

「さっきから気になってたんだけど、それ、美和が前から憧れていたっていうブランドのでしょ?」

「へへ。分かった?」


 ボーナスの一部をはたいたパンプスは、エナメルの艶やかな表面はもとより、そのフォルムが非常に美しい。いつも履くパンプスと比べてヒールが三センチ高いのが難といえば難だが、その歩きにくさを補てんするぐらいに、美和はこのパンプスに以前から憧れていた。いや、執着していた。


 執着といえば聞こえが悪いかもしれない。だがそれが美和にとっての真実だった。ウインドウ越しに見かけるたびにそばに寄り、雑誌に掲載されるたびにうっとりと見つめ、いつか自分のものにしようと虎視眈々と狙っていたのだ。


 この靴に釣り合う自分になるまでは買わない、そう決めてクレジットカードを財布から出したくなるのをぐっと我慢する日々を送ってきたのだ。


 なのに出国前、羽田空港の免税店で衝動買いしてしまったのは――。


「いい靴を履いたら今回の仕事の成功確率があがる気がして。それでえいやっと」

「それ分かる。いいものを身に着けていると、姿勢がしゃんとするっていうか、自信が湧いてくるよね」


 的確に美和の気持ちを理解した香苗は、さすがは一年間苦楽を共にしてきた仲間だ。だがそんな香苗の表情が一転、やけに神妙なものとなった。


「あ、そういえば」

「なあに?」

「あの……それが実は」


 まだ言ってなかったんだけどね、と言い訳がましく香苗が言った次の瞬間、ぐんっと二人の体が再度浮上した。つづけて目的の階に到着することを告げるポップな効果音が鳴った。


 まだ慣れていないパンプスに美和が再びよろめいた。そのまま、中腰となった美和の目の前でドアがゆっくりと開いていく。そちらに視線をやった香苗が「……あちゃー」とつぶやいた。


「なに? どうしたの?」


 つられて見上げた美和の視線の先には三人の男が立っていた。

 現地人らしい高身長の若い男、アジア系の恰幅のいい壮年の男、それに日本人の男。


 日本人の男――。


「……翔平?」


 恐る恐る声を発した美和に対し、呼ばれた方は目を細めて笑ってみせた。


「久しぶり」


 聴き慣れていたはずの声はやや低く、かすれていた。


 この出張、この都市への来訪を美和はずっと待ち望んでいた。だがこの男――翔平にだけは会いたくないと思っていた。なのに、たった二泊三日の滞在なのに、初日にして美和は翔平に再会してしまったのである。



 *



「ほんと、ごめん!」

「もういいって」

「うそ。いいなんて思ってないくせに。表情見れば分かるから」

「いいって言ってるでしょ、もう」


 ミーティングは終わり、すでに夜になっているというのに、美和と香苗はずっとこうして実りのない会話をつづけている。


 ホテルのすぐそばのバー、路地に面した席に二人はいた。


 店内は冷房がきついので屋外を選んだ。というか、上着を脱げばこのくらいの気温の方が適温に感じられる。この国特有の薄いビールを瓶で飲みつつ、あたりを飛び交う現地の国の言葉や車のクラクションの音に負けることなく、二人は気楽な母国語で会話をしている。といっても、それは香苗が美和に謝罪しつづけるだけのものだったが。


 ハニーピーナッツをつまみつつ、美和が正面を走る黄色のタクシーや灯りで輝くビル群を眺めているそば、香苗はずっと誠心誠意の謝罪を繰りかえしている。


「中村さんのお子さんが急病で、そのピンチヒッターに翔平が指名されたのが昨日のことなんでしょ? もう何度も聞いた。耳にタコ」


 そう、本来二人に協力する現地スタッフは中村という人物だったのだ。なのに……。


「もうタコでもイカでもいいから機嫌直してよお」

「機嫌はずっといいよ? 今日の打ち合わせはうまくいったし、明日の顧客前プレゼンも問題なさそうだし」

「ほんと?」

「ほんと、ほんと。だからもう気にしないで。どうしても気になるっていうなら、今晩おごってくれればそれでいいから」

「うん、分かった。おごる」


 即決した香苗の生真面目な表情に、美和の顔がふっとほころんだ。


「よーし。じゃあもう一本追加しちゃおうかな」

「私も。あ、『そこのお兄さん、バドワイザー二本ね!』」


 ブロンドの髪の美青年が白い歯を見せて『了解』と笑った。


「ね、あの人かっこいいね」

「うん、かっこいい。チップはずんじゃおっか」

「いいねえ」


 二人して顔を近づけてこっそり言い合う。別に日本語で何を言おうが周囲の誰にも分かるわけがないのだが、こういったことは習慣に近いのかもしれない。外見を品定めするなんて人として褒められたことではない。でもアフターアワーまでいい子でなんていられないし、こういう会話が同性同士の潤滑剤になるのも事実だった。


「翔平もしばらく見ないうちにかっこよくなったよね」


 突然の香苗の発言、それはちょっと爪を立ててご主人の機嫌を探る子猫のしぐさを彷彿とさせた。適度に疲れて適度に酔い、適度にハイになっている美和は、それを理由にして香苗の会話にのった。


「うん。私もそう思った」


 本当は美和も久しぶりに会った元恋人について誰かと話をしたくて仕方がなかったのだ。


 そう、美和と翔平は同期であり、三年前に別れた恋人でもあった。そのことは香苗も……というか、同期全員が知っていることだった。


「前に比べて随分頼もしくもなってたよね」

「なってたねえ。英語も流暢だし、この国の人たちに違和感なく溶け込んでたし。こっちの水が合ってるのかな」

「なのかなあ。日本にいた頃はどちらかというと英語に苦手意識があったんだけどね」

「じゃ、変わったんだ。でも指輪をしていないってことはまだ結婚はしていないみたいだね」

「そうだね」


 ふふっと諌めるように笑ってみせた美和だったが、その実、翔平と再会してすぐに目がいっていたのは彼の左手の薬指だった。そこに金属物がないことを認めて、そしたら足がかしいでふらついてしまった。


「美和はなんで翔平と別れちゃったの? すごく仲良かったのに」


 軽い感じで尋ねているが、これまた探り合いの一環だ。さっきよりも思いきって爪を立ててみた――そんな感じだった。


「さあ?」


 少し顎をあげ、瓶の底に残っていたビールをくいっと空ける。大したことがないふりをして。……いや、実際はそう思いこもうとしていただけなのかもしれない。自分のことなのによく分からない。だが美和は深く考えないようにした。今は明日のプレゼンのことだけを考えていたかった。



 *



 翌朝、昨日と同じ高層ビルへと向かう美和の足取りは軽かった。おろしたてのパンプスは昨日よりも足になじんでくれているし、時差もだいぶ解消できた。朝からいい天気なのも気分をあげてくれる。カフェで買ったコーヒーもやけにおいしく感じられる。これなら今日のプレゼンも大丈夫だ。


 会議室にはすでに翔平がいた。翔平はコピーした書類を簡単に製本したものを机に並べているところだった。


 ビジネスモードでここまで来た美和だったが、翔平と目が合っただけで落ち着かなくなった。


「おはよう。資料、準備してくれてありがとう」


 若干硬い美和の第一声に、翔平が柔らかな笑みを浮かべた。こうやってほほ笑むと目が見えなくなるほど細くなるのは昔からだ。


 懐かしさにめまいがした。


 美和は書類を確認するふりをして目を伏せた。


「ええと。午前中はプレゼンの最終練習と確認だよね。お客様は何時に来るんだっけ?」

「午後二時」


 少しの沈黙がおり、美和は目線を下げた状態で思ったことを口にしていた。


「翔平、すごく英語がうまくなったね」

「そうかな。でも美和にそう言われるとうれしいよ」


 美和。


 この国の人はファーストネームで気軽に相手を呼ぶ。美和が翔平に名前を呼ばれるのは別れる間際、つまり翔平が日本を離れた三年前以来のことだった。


 昨日も打ち合わせ中に何度も『美和』と呼ばれた。その時は現地の言葉だったせいか事務的に聞こえた。けれど今は日本語のせいか親しみとぬくもりを感じる。


「ここの支社、あんまり日本人がいないから、話せば話すだけ英語が身についていくんだ。やっぱり言語は習うより慣れろだな」

「いいなあ。うらやま……」


 うらやましい。

 そう言いかけて美和はとっさに口をつぐんだ。


 美和が翔平と別れた理由がそこにあったからだ。


 つまり、この支社への赴任を以前から熱望していた美和ではなく、英語が得意でもなく野心も希望もない翔平にその辞令が下ったことが原因だったのだ。


 二人の所属する部署は違うし、今はこうして共に同じプロジェクトに関わっているが担当内容は全然違う。それにこういうことには運も強く作用する。たまたま、だったのだ。今の美和ならそう思える。だが当時はその事実を受け入れて恋人を笑って送り出す寛容さがなかった。それだけだ。


 また二人の間に沈黙が落ちた。

 しかも気まずいものだった。


 別れてからの三年という時の長さの重みをあらためて感じる。


「……あのさ」


 翔平が何か言いかけたところで、現地の若い男が室内に入ってきた。


『おはよう。美和は今日も元気?』

『おはよう、トム。ええ、元気よ』


 笑顔を作って見せながら、美和はほっとすると同時に言いようのない感情を覚えていた。だがすぐに気持ちを切り替える。今考えるべきことは何よりも仕事だから。



 *



 午後、プレゼン本番、美和は時折つっかえながらも顧客への説明を終えた。


 だがここまでは暗記さえしていればどうにでもなる。だてに五年もこの会社で働いていない。問題は質疑応答だ。


 日本人にとっての外国語のプレゼンにおける一番の難関はこの質疑応答の時間で、相手方の言い分をきちんと聞き取って正しく返答しなくてはいけない。もちろん今日に備えて問答集は用意してある。昨日も内容を全員で確認し合った。最悪、出席者の誰かがフォローすることにもなっている。


 最初の質問は予想していた問いの一つで、美和はそれに暗記済の回答例を返した。だが次の質問は予想外だった。


 前半はなんとか聞き取ることができた。しかしすぐに意味が分からなくなった。相手は問うことに夢中になりすぎて、非ネイティブに対してありえないほど早口になっている。それでもなんとか単語を拾っていたが、分かったことはただ一つ、明らかに専門外のことについて尋ねられているということだった。


 と、いうか。この場にそれについて答えられる者はいない。帰国子女の香苗やネイティブの、英語に堪能な自社の人間の表情が一様にこわばっている。


 ブリザードのようなエアコンの冷気が吹き付ける部屋にいるというのに、美和の背中を汗が伝っていった。


 体がぐらぐらと揺れているような錯覚が起こった。まだ二日しか履いていないパンプスのヒールが急に心細く思えてきた。普段よりもたった三センチ高くなっただけなのに。


(……やっぱりスペシャリストの人にもここに来てもらえばよかった)


 予算の兼ね合いで美和と香苗の二人で来訪することになったのだが、せめて設計部の関係者にTeamsで参加してもらっていればと今更ながら後悔の念が募っていく。プレゼンの時間、日本は深夜だからと依頼するのを遠慮してしまったのだ。


(……ここは『後日文書にてご回答します』と言って切り抜けるしかない)


 そう判断し美和が口を開きかけたところで、奥の方で議事録をとっていた翔平が手を挙げた。


『ジョーンズさん。その件については私の方からお答えさせていただきます』


 そして翔平は硬直している美和に向かって言った。


『デスクトップの右上にあるPDFを開いてください』


 言われるがまま自分の説明していたパワーポイントファイルを閉じると、発表用の共有パソコンのデスクトップの右上に確かにそのファイルがあった。……この瞬間までまったく気づいていなかった。


 震える手でダブルクリックし全画面表示にすると、翔平は美和にうなずいてみせ、それから顧客に対して向かい合った。


『これはわが社で独自に検証したデータなのですが』


 そこからの翔平は最初から最後まで一定の速度で話していった。だから美和にも何を言っているのか理解できた。客が真剣に聞いている様子からも、先ほどの質問がこの商談において非常に重要であることは明らかだった。


 重箱の隅をつつくような鋭い問いだ、そう内心言い訳をしつつ、だが美和はそんな自分がゆるせなくてぎゅっと唇を噛んだ。本当は自分が用意すべき資料だった。確かに自分はエンジニアでもスペシャリストでもない。けれど自分が国内で担当者に相談して用意しておくべきデータだった……。


 翔平の説明は五分に及んだ。その間翔平は一枚のスライドだけで何のカンペもなく話し続けた。身振り手振りを加えつつの丁寧な回答に、やがて客が晴れ晴れとした表情になった。


『なるほど。非常によく考えておられるようですね。この方面への見識も深いようだ』


 これが決め手になり商談は成立した。



 *



「ほらあ。いい加減機嫌直しなって」


 昨夜と同じホテルのすぐそばのバー、路地に面する同じ席で、美和は香苗の静止もきかずにがんがん飲んでいる。誰が見ても分かる、これは祝杯ではなくヤケ酒だ。


『お兄さん、もう一本ちょうだい!』


 手を挙げて注文する美和の様子もだいぶできあがっている。隣の椅子に雑に置いたジャケット、その上にこれまた雑に載せた鞄の中ではスマホが先ほどから何度も震えているが、まったく気がついていない。


「これが飲まずにいられる? 一年間、ずっと頑張ってきたんだよ? なのにぽっと出てきた翔平に手柄をとられちゃったんだよ? ああいうデータを用意してたんなら、どうして昨日のうちに私達に教えてくれなかったわけ? もうわけ分かんない!」

「美和……。でもあれは翔平が別のプロジェクトでたまたま作ったものだって……」


 今朝、ふと気になって発表用のパソコンに入れておいたとプレゼン後に翔平は言っていた。それはプレゼン当日に美和が英語で説明できるような内容でもなかったし、日本語でも容易に理解できない内容だった。念のため、という気持ちで入れておいたそうだ。


「……ううん、翔平が悪いんじゃないの。一番悔しいのはあの質問に答えられなかった自分。なんで私、あの質問をされる可能性に気づかなかったんだろう」


 はあ、と深いため息をついて机に伏したところで、『おまちどう!』と追加のビールが届いた。


「その気持ちは私も分かる。私も気づくべきだったから。でも次は頑張ろうよ。ね?」

「……うん、そうだね」


 なかなか簡単に気持ちは切り替えられないがそうする他ない。そうやって前に進み続けなければ、誰もが働き続けることなどできはしないのだから。失敗して、後悔して。立ち止まりたくなって。……でも立ち止まり続けていることはできないことも分かっていて。


「じゃ、今日だけは思いっきり飲みますか」

「よーし! じゃんじゃん飲むぞー!」


 美和が瓶ビールを高々と掲げたところで、香苗のスマートフォンが鳴った。


「あ、ごめん。ちょっといい?」


 光り輝いた画面を見て相手を確認した瞬間、香苗がさっとスマートフォンを持って立ち上がった。そしてその場を離れつつ何やら相手と会話を始めた。流暢な英語、しかも小声で周囲がうるさいせいで、美和には香苗が何を話しているのかまったく理解できなかった。こういうとき帰国子女の香苗に少しの羨望を抱く。


「やっぱり言語は習うより慣れろ……か」


 自らの運命と環境に嘆息しつつビールをあおったところで、香苗が会話を終えてそそくさと戻ってきた。


「ごめん。実は行かなくちゃいけないところができて……このまま帰っていいかな?」

「ええー!」


 素っ頓狂な声をあげた美和に、香苗が手を顔の前に立てて謝罪のポーズをとった。


「ほんとごめん。急用なの」

「なんでこの国で急用なんてあるのよ。おかしくない?」

「だってしょうがないじゃない。ほんとなんだから」

「……一人で飲むのもなあ。日本だったらまだいいけどここだとちょっとさみしい」

「もうけっこう飲んだんだしさ、それ飲んだらホテルに直帰しなね」

「はいはい。言われなくてもそうしますよお」

「じゃ、明日は朝五時にロビー集合だから」


 そう、もう明日は帰国の途につかなくてはならないのだ。


「はいはい。分かってますよお」


 それから何度も謝りつつも、香苗は早足で店を去っていった。本当に急ぎの用事があるらしい。


 一人きりとなり、美和は腕時計を見た。まだ夜の八時だ。だがこの国、この土地での夜の八時は少し違う。香苗のこと一人で行かせて大丈夫だったかな、と美和は少し心配になった。ああでも、香苗はこの国の言葉にも習慣にも慣れているからきっと大丈夫だろうと思いなおす。


 まだ注文したばかりのビールは瓶の中にあと半分ほど残っている。それをちびちびと飲みつつ、美和は手づかずのポテトに手を伸ばした。


 さっきあらかた香苗に愚痴ったせいでだいぶすっきりしたし気持ちもほぐれてきた。けれどこのままホテルに帰ってもやることはない。それに正直に言えばまだ飲み足りなかった。たったの二泊三日でここシャーロットとも、長い年月をかけて準備してきた仕事ともおさらばだと思うと……。


 ふと、今日のプレゼンでの翔平の姿が思い出された。


 真剣に、丁寧に説明しながらも適度に肩の力を抜いて顧客に接する姿は日本にいた頃の翔平そのものだった。話す言語が違っていようが、場所が違っていようが……美和であろうが、誰であろうが。髪がやや長くなろうが、服装があかぬけようが。翔平とはそういう人だった。


 気負わず、無理せず――そんな自分とは対極に位置する翔平のそばにいることが心地よくなったのはいつからだろう。そしていつから苛立つようになったのだろう。


 翔平は何も変わっていないのに。


 美和自身も何も変わっていないのに――。


『ビールもう一本ください!』


 迷いを振り切るように美和が手をあげた。まだ眠くもないし、帰国のための荷づくりも朝のうちにある程度はしてあるから時間はたっぷりある。このままホテルに戻るよりここで飲もう。


『はい、おまちどう』


 昨夜の見目麗しい青年がすぐにビールを運んできてくれた。生温かい夜風が流れる中、結露した滴が瓶を伝い落ちる様子は目にも涼し気だ。


『今日はよく飲むね』

『え。私のこと覚えててくれたの?』

『もちろん! 君のようなきれいな女性を忘れるわけないだろう?』


 きざなウインクも青年がするとサマになる。


『ふふ、ありがとう。そう、私、昨日よりもたくさん飲んでるの』


 気負わないせいか、仕事の時よりも流暢に英語が口から出てきた。それに気分がよくなり、美和はポケットに手を入れると青年に多めにチップを手渡した。


『はい。褒めてくれたお礼』

『サンクス』


 にこっと笑った青年の表情は気持ちいいものだった。だから美和も笑みを深めた。つい二人じっと見つめ合う。この国では目を合わせることは交流の秘訣だから、と思いながら。


『そのパンプス、君にすごく似合ってるね』


 お世辞に決まっているが、こんな風に率直にほめてもらう機会は数少ないから頬がにやける。


『ね、もう少ししたら仕事あがれるんだけど。僕と一緒に飲みに行かない?』

『え?』


 聞き間違いかときょとんとしていると、青年がブルーの瞳を近づけてきた。


『君、ビール好きでしょ?』

『うん、大好き』


 素直にうなずくと青年が目を細めて笑った。


『ここよりももっとおいしいビールのある、美しい君にふさわしい店があるんだ。連れてってあげるよ』


 とっておきの秘密のように耳元でささやかれた――その時。


『……おい! 俺の女に手を出すなっ!』


 路地の方から声がした。


 突然のことだったがその内容の物騒さと奇妙さに美和が顔を向けると――そこには肩で息をする翔平がいた。


「翔平? なんで?」

『あー残念。恋人がいるんだ。じゃ、またね』


 青年は口ほどには惜しいと思っていないようで、明るい表情を崩すことなく店内へと戻っていった。


 翔平は少しの間その青年の背中を鋭い視線で追っていたが、やがてため息をつきながら美和の向かいの席に断わりなく座った。そして不機嫌そうな顔で美和をじっと睨んだ。


「……なによ。ていうかなんで翔平がここにいるわけ?」

「俺がいたら邪魔だった?」

「邪魔? ……あ! あれはそういうんじゃなくて!」

「だったらなんで誘われてたんだよ」

「聞こえてたの?」

「ああ」

「あんな小さい声、よく聞こえたね」


 思わず感心した美和に翔平は少し目を見開き、やがてははっと笑った。


「そういうところは相変わらずだ」

「……私のこと馬鹿にしてる?」

「いいや? 褒めてる」


 柔らかな瞳で見つめられ、美和の鼓動が朝のように速くなった。とっさに届いたばかりのビールをあおり、「そういえば」と誤魔化すように言う。


「さっきの台詞、もう一回聞かせてほしいな。俺の女に……の続きはなんだっけ?」


 美和の一言に翔平がみるみる顔を赤くさせた。腕で顔を覆ったが、隠しきれていない耳も赤い。


「翔平ってああいうときにああいうことを言える人になったんだ。それも赴任の成果だったりして?」


 からかいながら美和が瓶ビールを傾けている間、翔平はむっと唇をとがらせていた。


「……あれはお前だから言ったんだ」

「……え?」


 意味が分からず翔平を見ると、翔平もまた美和を見返していた。顔色は元に戻り、照れていた表情も真剣なものに変わっている。


「今日のプレゼンが終わったら美和と話をしようってずっと決めてたんだ。だけどお前、すぐ帰っちゃうし。電話も出ないしメッセージも見ないし。だから田村に連絡をとってホテルの場所を聞いて」


 突然のことに何も言えずにいた美和だったが、しばらくして一つのことに思い当たった。さきほど香苗が電話で話してた相手は翔平だったのか、と。


「だけどまさかホテルにいなくて、しかもこんなところで男にナンパされているとは思ってもいなかった」

「ええと。あれはナンパじゃないから」

「ああもう。それはもうどうでもいい。今は俺の話を聞いてくれ」


 ずいっと、翔平が身を乗り出した。


「う、うん」


 急に真面目な表情になった翔平に、美和も瓶から手を離した。こんな風に強引な翔平は知らない、と思いながら。


「美和にとっての仕事と俺にとっての仕事の意味が違うのはさ、付き合ってた時から分かってたんだ」


 翔平が話し出したことは予想だにしないことだった。


「三年前のこと、なんだけど」


 その一言に美和ははっとした。


「俺に内々に海外赴任の話が来たことが俺たちの関係を決定的にひずませただろう? 俺さ、それがすごく悲しくてくやしかった」


 いったん口ごもった翔平だったが、喉をぐっと鳴らし美和をあらためて見つめた。


「別れたいっていう美和の言葉に、俺、うなずくことしかできなかった。好きなだけじゃだめなんだってことが急に実感できたから。俺といて不愉快になるくらいなら別れてやるべきだと……そう思った」


 聞きながら、美和は三年前の別れの瞬間を思い出していた。


 翔平といることでどうしてもコンプレックスを刺激されてしまっていた自分。そんな自分に腫れ物のように接するしかなかった翔平。それがさらに美和の鬱憤を膨張させていき、ある日突然――ぱちんとはじけた。


「美和」


 名を呼ばれ、美和の意識が今に戻った。


「俺、この三年頑張ったよ。それは美和に恥じない仕事をしたいって思ってたからだ。いつか美和とこの国で一緒に仕事をする時、この国にいる俺がフォローしてやるべきだって思ってた。分かってると思うけどさ、俺にとって、仕事なんてどんなものでもいいんだ。今の部署、今の会社でなくてもいい、そう本心から思ってる」


 そう言う翔平の表情は嘘偽りのないものだった。


 だがあらためて言葉に出さなくても、翔平の言うとおり、翔平の気持ちは以前から美和には理解できていた。


 だから腹が立ったのだ。

 なぜそんな人に私は負けたのか、と。


 好きなのに――悔しかった。


「そこそこ稼げる仕事で、仕事を通して何かに貢献できている実感があれば、俺はそれで満足なんだ」

「……うん、分かってる」


 まるで古傷をつつかれているようだ。そういう翔平に苛立った昔の自分の器の小ささを突きつけられているようでもある。


 だが今の美和はそんな翔平を否定するほど幼くもなかった。


 仕事の内容が千差万別なように、仕事に対する動機づけも多種多様なのだと、今の美和はよく理解していた。それは同じプロジェクトを通して様々な部署の人間と関わることで得た知見だった。悟りといってもいい。美和が最上のものを望み続けてきたのに対し、翔平は手の届く範囲にあるものから選んできただけのことだ。


 仕事だって、パンプスだって。

 美和が追い求めてやまないものが、翔平にとってはそれほどのものではないというだけで――。


「……翔平は間違っていない。私が駄目だったんだよね」


 美和のつぶやきに、「そうじゃない」と翔平が声を大きくした。


「俺が正しくて美和が間違っているとかそういうことじゃないんだ」

「……翔平?」

「俺が言いたいのはこれだけ。よく聞けよ」

「う、うん」


 翔平が居住まいを正した。


「俺が一番助けたいと思うのは昔も今も美和だってこと」

「……え?」

「だから」


 呑み込みの悪い美和を翔平がぐっと睨んだ。


「今でも美和のことが好きだってことだよ」

「それって……つまり」


 気を落ち着かせようとビールを飲み、それから頭を整理しつつ美和は訊ねた。


「翔平は今も私のことが好きなの? 三年間? ずっと?」

「ああ」

「本当に? 本当にそんなに長い間好きだったの?」

「どれだけ疑うの?」


 すっとんきょうな声をあげた翔平に美和は言い募った。


「そんなのすぐに信じろって言われても無理だよ。この三年間、社内メールだってあるのに一切連絡してこなかったじゃない」

「それは遠慮して……」

「それに翔平って何かに固執するタイプじゃないでしょ? 私と付き合ったのも私が告白したからだし、でも正直、どちらかが転勤になったら終わる関係だと思ってたもの」

「なんだよそれ」

「実際、私が別れたいって言ったらすぐに了承したじゃない」

「……ああもう!」


 翔平が突然立ち上がった。


 そして美和のむき出しの腕をつかんで立たせるや、一瞬美和のことを見つめ――。


 キスをした。


「……これで分かった?」


 茫然としていた美和だったが、翔平と目が合うや思わずといった感じでつぶやいていた。


「ううん、分からない。全然分からない」

「は?」

「何がどうなってこうなったのか全然分からな……」


 しかしそれ以上の言葉を発することはできなかった。再度キスをされたからだ。先ほどはちょっと唇に触れただけの軽いものだったが今度は違う。両手で頬を包み、長い時間唇を合わせてきた。


「……これなら分かった?」


 はあっと、甘い吐息まじりに言う翔平に、美和は小さく首を振った。こんなことをするような人ではなかったのに、と。仕事もプライベートも積極的ではなく、恋愛面でもどちらかというと草食系だったのに、と。


 だが美和の表情は甘く溶けていた。二人の間にあった三年という時もわだかまりも、すべてが消えてしまうほどのキスだったのだ。目も少し潤んでいる。なのに認めようとしないのは……。


 翔平が苦笑いを浮かべた。


「だったら分かるまでキスしようか?」


 鼻が触れ合うほどの距離に、美和はとっさに翔平の胸に手を当てて阻止した。いくら海外とはいえ、大衆の面前でこれ以上は恥ずかしい。


「分かった! 正直に言うから……!」


 ふっと翔平が笑った。


 こつん、と、美和と翔平の額がぶつかった。見つめ合う瞳は穏やかなものになっている。


「……翔平にずっと謝りたいって思ってた」


 なかなか言葉は出てこなかったが、一度出れば、もう止まらなかった。


「赴任先でも頑張ってねって言ってあげたかった。それと……ずっと会いたかった。翔平にずっと会いたかったの」


 しんどいなと思った時に、気づけばそばにいてくれたのが翔平という人だった。


 美和が翔平に好意を抱いたきっかけも、残業で一人オフィスに居残っていた時に甘いミルクティーを差し入れてくれたからだった。新人ゆえにストレスと苛立ちがたまっていた頃で、でもプライドゆえに上司や先輩に助けを求めることもできず……正直追いつめられていた。


 そんな時、ミルクティーの甘さと翔平の柔らかな笑みに癒されて。

 同期のイベントで会うたびに意識するようになって、気づけば好きになっていて。


 たまらず自分から告白して――恋人になることができて最高に幸せだった。


「別れたいって言ったけど、あれは嘘。本当は翔平と別れたくなかったの……」


 海外に赴任することが決まった翔平。そんな翔平に嫌な態度しかとれない自分。そんな自分がすごく嫌で……。このまま一緒にいたら嫌われるのは分かっていた。それでもなかなか自分を変えられなかった。それくらい翔平の赴任がショックだったのだ。


 だから自分から別れを切り出した。嫌われるくらいなら別れた方がよっぽど楽だと思ったから。


「でも!」


 翔平に訴える美和は涙目になっている。


「私も翔平のことがずっと好きだったの……!」


 言い終わるよりも早く、翔平の手が美和の首の裏に回った。美和もほぼ同じタイミングで翔平の首に両手を回していた。


 ためらいなく触れ合う――唇。


 こうなってみるとあらためて分かる。どれほど翔平のことが好きだったか、と。


 もう周囲のことなんて気にならない。気にしている暇があったらもっと触れたい。こんなに狂暴な想いを抱えてよく今まで平気でいられたものだと自分で自分にあきれる。仕事に性格、現実に未来、さまざまな理由を重ねて納得してきたつもりだったけど、全然納得してなかったことにも気づく。


 一番ほしかったものが、一度手放してしまったものが――やっと戻ってきた。


「ね……お願い。もっとキスして」


 息継ぎの合間にかすれた声で美和がねだると、翔平は焼けるような瞳で美和を見つめ、すぐに望みをかなえた。


 深い深い、キスだった。


 それはお互いを好きでないと絶対にできないキスで、今、ここでしかできないキスだった。


 右に左に、角度を変えて。まるでもうこれなしでは生きてはいけないかのように、もっともっと、と求めてしまう。


「ね、今日はずっとこうしていて……?」

「ああ……」


 熱っぽい吐息を交えてささやいた翔平がふと真顔になった。

 その視線がやや背伸びをしている美和の足元へと向けられる。


「……なんかいいね。距離が近くて」


 あれほど熱烈な告白とキスをしておいて、何を照れくさそうに言い出すのかと思ったら。


「それ、前から欲しがっていたパンプスだろ? 昨日、エレベーターですぐに気づいた。……気づいた瞬間からずっとこうしたくてたまらなかった」


 熱のこもった瞳で見つめられ、美和は心の中でつぶやいた。

 私も同じことを思っていたの――と。


 このパンプスをなぜ衝動買いしたのか、本当の理由に我が事ながら今更気づく。


 でもそれは口に出したくないから、美和は黙って再び唇を寄せた。


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[良い点] 企画よりお邪魔します♪ すっごく上質の映画を観たあとのような読後感……! シャーロットの異国の空気感がすごくて、お仕事する女性も素敵で、パンプスの使い方がとびきりお洒落で、最高でした(*…
[良い点] 企画から参りました。 海外でのお仕事小説としても、おしゃれな大人の恋愛小説としても、とても素敵なお話でした。 ノースカロライナ州シャーロットをよく知らないのですが、それでも雰囲気やそこでの…
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