9 猫宮の目がだんだん虚ろになってきている。
アパートにたどり着いた博士と猫宮は、錆だらけの階段を上り、二階の部屋に入った。
「狭いけど、どうぞ」
博士はちゃぶ台の上に、レジ袋と鳥カゴを置く。窓を開けて扇風機をかけた。ムンムンとした熱い空気がぐるぐる回る。
「クーラー直るまで暑いと思うけど、ごめんね」
「いえ、お構いなく」
博士は鳥カゴに入れてあった、溶けて柔らかくなった保冷剤を取り出すと、冷凍庫を開けて新しい保冷剤と交換し、ティッシュにくるんで、鳥カゴの四隅に置いた。
「シロ、しばらくこれで我慢してくれよ」
私はチチッと鳴いて返事をする。
もう一つ保冷剤を取り出した博士は、同じようにティッシュに包んで猫宮に渡した。猫宮は不思議そうに保冷剤を見ている。
「これ、首元とかおでことかに。少しは涼しいから」
なるほどという表情をして、猫宮は保冷剤をおでこに当てて目を細めた。
「ほんとだ。ひんやり。気持ちいい」
猫宮の声が少しエロい。誘っているのだろうか。だが博士には効果がなかったようだ。
「でしょ。寝苦しい夜とか、結構いいんだって、これ」
「今度試してみます」
猫宮がにっこりと笑う。博士がレジ袋を見た。
「食材、冷蔵庫に入れておいたほうがいいかもしれないね」
「じゃあ生ものだけ」
博士は猫宮から肉のパックを受け取って冷蔵庫に入れた。水道水を出してコップに注ぐと猫宮に渡す。小洒落たコーヒーや紅茶を用意しろとは言わないが、せめてこういう時は麦茶ぐらい用意するものではないのだろうか。
だがもともと冷蔵庫には何も入っていなかったようだし、貧乏学生のおもてなしに期待してもしょうがないのかもしれない。
「ありがとうございます」
受け取る仕草すら、いちいち可愛らしい。なかなか徹底している。いくらただの水道水を出されても、嫌な顔一つしない点については、立派だといえるかもしれない。
猫宮は水道水を少しずつ飲みながら、目だけを動かして部屋の中をちらり、ちらりと見ている。
仕草は可愛らしいが、鵜の目鷹の目という感じで、他の女の痕跡がないか、執拗に探っているかのような、眼光の鋭さがあった。
だがそんな心配をする必要もないぐらいに、博士の部屋は、一人暮らしの男子学生にしてはあまりに物が少ない。ベッドはあるが、大きめな家電は冷蔵庫と電子レンジ、テレビぐらいしかない。
小さな頃から使っていそうな傷だらけの勉強机の上にはノートパソコンが、壁には文字と数字だけのシンプルなカレンダーだけ。
備え付けのクローゼットがある場所以外は、ほとんどが本棚になっていた。私には理解できそうもない難しそうな本が大量に並んでいる。
いかにも真面目そうな博士らしい部屋という感じである。アイドル系の肌色成分多めなポスターや写真集で溢れかえっていた、雑多で汚い斉藤の部屋とは大違いだ。
本棚に目を止めた猫宮は質問した。
「先生は大学でどんな研究をされてるんですか」
「人工知能です。AIってわかる?」
「将棋や囲碁で人間に勝ったみたいな、ニュースで言ってたやつですか」
博士は申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「僕がやってるのはもうちょっと地味というか、主に人の記憶を最適化するための研究をしてるんだけど」
猫宮が眉間にしわを寄せる。ピンときていないようだ。
「なんて説明したらいいんだろう」
博士はスマートフォンを取り出して何かを検索しているようだ。
「そうだな。じゃあ、これから言う言葉を覚えて繰り返してもらえるかな」
「はい?」
「Supercalifragilisticexpialidocious」
「スーパーカリフ……エクス……ドーシャス……すみません」
猫宮はきちんと言えなかったのか恥ずかしそうにしている。
「大丈夫。僕も覚えてないから。スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。これはメリーポピンズという映画に出てくる長い英単語なんだけど、普通の人は一度聞いただけでは覚えられないよね」
猫宮は何度も頷く。
「絶対に無理です。練習したら言えるかもしれないけど」
「何回か聴くうちに覚えられるということは、耳には音としてきちんと聞こえているはず。でも脳が単語として認識できるまでは、正確に覚えられない。つまり脳が間違えていることになる」
博士は頭を指差して、トントンと叩く。
「猫宮さん、人がなんで間違えるかわかるかい」
「人間は完璧じゃないから、ですかね」
「完璧じゃないから、人が間違えるのは当然。僕達はそう思い込んでる。でもこれって変なんだよ。普通に考えたらミスを犯すことは、自分にとっては一銭の得にもならないように思える。人間というのは、無意識のうちに自分の利益になるようなことを、追求してしまう生物のはず。なのに間違えるのっておかしいだろ。どうしてだと思う」
「どうしてでしょう」
猫宮が首をかしげる。あざとい。自分が可愛く見える角度というのを知り尽くしているようだ。だが説明に夢中な博士には効果がないようだ。
「ある言語学の研究でデタラメな言語を作って、それを人に覚えさせる実験をやったんだ」
「今やったみたいなことですか」
「そう。自分が覚えた言語を、他人に教えるという伝言ゲームを続けたら、最初に作ったデタラメな言語より、間違って伝わった言語のほうが、次の人に伝わりやすいという結果が出たんだ。どういうことだかわかるかい」
「わかりません」
「これはね、人は間違えることで、デタラメな言語をより覚えやすい言葉に作り変えたんだ。脳が最適化していったってことなんだよ」
「脳が最適化……ですか」
「間違えるって、ネガティブなことに考えがちだけど、間違えることでデタラメな言語は、より人にとって伝わりやすい言語に進化したってことだ」
博士がなんだか興奮気味に話している。それとは裏腹に、猫宮の表情が徐々に固くなる。博士の話についていけていないのだろう。
「つまり人間の脳は、無意識のうちに物事を進化させようと、常に切磋琢磨しているということなんだ。すごいだろ、人間の脳って」
「そう、ですね」
たぶん猫宮はよくわかっていないだろう。顔を見ればわかる。目が泳いでいる。正直なんの話なのか、私にもさっぱりだ。
もう頭が沸騰しそうだったから、私はブランコに乗ることにした。
ゆらゆら揺れる。たーのしーなー。こんなことで満足出来るのだから、鳥頭、最高である。文鳥の生活も、案外悪くないのではなかろうか。
私の現実逃避などお構いなく、博士は熱心に話を続けている。
「今、研究室で受験勉強用のアプリを試作していて、β版を配信したところなんだけど、これ、結構評判良いんだよ。受験生がどういうところで間違いやすいのかを、人工知能に解析させて、より覚えやすくて間違いにくい学習方法を模索してるんだ」
博士がキラキラとした、少年のような目をしながら、スマートフォンのアプリを起動して猫宮に見せた。猫宮の目がだんだん虚ろになってきている。
まさか食材を持ち込んで、恋の攻略をしようとしていた相手の家で、人工知能のレクチャーとやらが始まるなんて、予想だにしなかっただろう。
そろそろ勘弁してやったほうが良いのではないだろうか。いくら恋する相手でも限度というものがあるはずだ。
「人の記憶が間違うことで、どうやって進化に近づいていくのか。そのメカニズムがもっと解明されたら、より人間が進化するためのヒントがわかるかもしれない。今はただの量産型博士の卵でしかないけど、いつかは世界を変える研究になるかもしれないんだ」
アプリを操作している猫宮が言った。
「ちょっと寂しいですね」
「寂しいって、なにが?」
「AIのアプリばっかりになったら、先生みたいな家庭教師に教えてもらえなくなっちゃいます」
博士は笑った。
「そうだな。未来の大学生は、ほかのバイトを探さないといけなくなるかもしれないね」
「そういうことじゃなくて」
「え?」
「なんでもないです」
博士はわかっていないようだ。きっと猫宮が言いたいのは、バイト代に困るかもしれない未来の苦学生の心配ではない。女子高生が素敵な大学生に勉強を教わって、恋に落ちるというロマンスが廃れるという意味だろう。
そういえば斉藤が部屋で流していたエロビデオでも見たことがある。いたいけな男子高生が、色気たっぷりな女子大生に勉強だけでなく、別のこともあれやこれやと手ほどきを受けるなんていう例のアレだ。
家庭教師に恋をするなんてシチュエーションが、いずれは過去の遺産になる時が来るのかもしれない。
そうなったら斉藤は泣くだろうか。あんな残念な男は、勝手に泣けばいい。