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文鳥は斉藤を殴りたい。  作者: 入口トロ
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8 この女子高生に罪はない。きっと悪いのはすべて斉藤だ。

「先生、偶然ですね」


 可愛らしい真っ白なワンピースを着た女は、スーパーのレジ袋を手に持っていた。食材がたっぷり入っている袋を手に立っている場所としては、大学前というのは少々不自然である。


 偶然というのは無理があるだろう。わざわざ待ち伏せしていたとしか思えない。


「えーっと、もしかして猫宮さんかな。どうしたの、こんなところまで」


 博士に猫宮と呼ばれたということは、どうやら例の家庭教師をしていたという女子高生のようだ。


 博士は目の前にいる人間の名前をわざわざ確認した。男からしたら、女は髪型や服装で随分変わるらしいので、猫宮の様子が普段と違いすぎて一瞬わからなかったということなのだろうか。


 実際に大学をうろうろしている学生に比べると、その美しさは際立っていた。掃き溜めに鶴というのだろうか。


 きっと何十人、何百人と集まっている場所にいても、人目を引きそうなほどに、まるでアイドルみたいなオーラを放っていた。


 女子高生の猫宮は、博士の隣に立っている黒服女を気にしているようだ。頭から足先まで舐めるように見ている。


 値踏みをしているのだろう。恋をしている女ならではの、ねっとりとした独特な目つきだ。その視線に気がついていないわけはないだろうが、黒服女は無表情のまま言った。


「それじゃ、私はここで」

「先輩、文鳥の情報ありがとうございました。またお世話になるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」

「わかる範囲ならいくらでも。マニアじゃないから、そんなには知らないよ」


 黒服女は、女子高生にちらりと視線を飛ばす。


「いろいろと……頑張りなさいよ、博士」

「先輩まで教授みたいに、変なこと言わないでくださいよ」


 博士が困ったような顔をしていると、黒服女は小さく手を振ってから立ち去った。


 少し離れたところに止まっている、黒塗りの車に乗り込んだようだ。もしかして黒服女は、お金持ちのお嬢様か何かなのだろうか。


 博士と黒服女のやり取りを、じっと見ていた猫宮は、博士のシャツをそっと摘む。あざとい。恋する女は実にあざとい。


 だがその程度のあざとさでは、あのアホな斉藤程度のザコなら瞬殺できるだろうが、きっと博士の防御壁は突破できないだろう。そんな予感がする。


「ごめん、猫宮さん。で、えーっと、なんだっけ」


 博士の視線がようやく猫宮に向けられる。


 背の高い博士が、背の小さな猫宮を見下ろす形になる。だいたいの男は、下から見上げる女の潤んだ目に弱いらしい。


 斉藤が部屋に貼っていたアイドルのグラビア写真も、か弱い女を装いつつ、実は野性的に誘っているアングルのものが多い。まさしく人間の女の策略というやつである。


 猫宮もグラビアアイドルに負けないぐらいの美少女だ。栗色のボブカットに、黒目がちな大きな瞳、色白で手足が細く、スタイルも良い。


 白猫をモチーフにしたネックレスが、胸元で揺れていた。胸もデカい。清楚な雰囲気なのにどこかエロい。


 なかなかこれは危険な女だ。いくら鈍感な博士といえ、これはやばいのではないだろうか。


「あの、先生」


 声まで可愛い。しかも斉藤が今熱を上げているアイドルグループの、結衣ちゃんという推しメンに似ている気がする。それだけでなんだかイライラしてきた。いやイライライラぐらいはしている。


 研究室で話を聞いていたときは、不憫な女子高生を応援したいとすら思っていたはずだが、急にその気が失せた。こんないかにもな女に、エールを送る気にはなれない。


 名前に鳥の天敵である、猫という文字が入っていることですら、気にくわないと思えてくるから不思議なものだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというやつである。


 別に博士が人間の女に取られそうだから、嫉妬をしているとかではない。これはただの八つ当たりである。たまたま私がイラつく条件を、この女が満たしていただけの話だ。


 この女子高生に罪はない。きっと悪いのはすべて斉藤だ。

 猫宮は恥じらいがちに言った。


「先生、今日はお時間ありますか」


 博士は即座に申し訳なさそうな顔をする。


「ごめん。これからクーラーの修理に立ち会わないといけなくて」

「そう……ですか」


 猫宮の目から、瞬時にキラキラした輝きが失われた。まるでついばんだ餌のすべてが、殻ばかりだったときの私のように。


 雑な飼い主を持つと苦労する。つついてもつついても殻の山ばかり。あれほど空しいことはない。今思い出しただけでもイラついてきた。やっぱり悪いのは、斉藤で間違いない。


「でもどうして、わざわざこんなところまで。もしかして最後に渡した問題集で、わからないところがあったとか」

「いえ、そういうのでは」


 相変わらず博士は鈍い。


 スーパーのレジ袋を持った女が、勉強を教わりに来るわけがあるまい。きっと博士の家に行って料理でも作ろうとしていたのではないだろうか。少し考えたらわかるだろうに。


 だが運が悪いというか、タイミングが悪いというのは、どうしようもない。運も才能のうちである。小さな運が人生を左右することもたくさんある。きっとこの女子高生は、博士とあまり縁がないタイプなのかもしれない。


「先生の家までついて行ってもいいですか。クーラーの修理が終わるまで待ちますから。どうしてもご相談したいことがありまして」


 思いの外、猫宮は食い下がってくる。ガッツはあるようだ。すでに食材まで準備しているぐらいだから、後には引けないのだろう。


「結構時間がかかるかもしれないよ」

「いくらでも待ちます」


「部屋は暑いし」

「大丈夫です」


「猫宮さんの部屋に比べたら、かなり狭いよ」

「むしろそのほうが……じゃなくて、問題ないです」


 猫宮は食い気味に、すべてを肯定し続ける。


「わかった。猫宮さんがそれでいいのなら」


 とうとう博士は折れたようである。やはりこの男は押しに弱い。人が良すぎるのだ。


 博士が歩き出すと、猫宮も少し遅れて後を付いてくる。奥ゆかしい女性というアピールだろうか。


「重たいでしょ。荷物持つよ」

「大丈夫です」

「遠慮しなくていいから」


 博士はレジ袋を受け取った。相変わらずこの男は優しいようである。きっと今頃、猫宮の頭の中で、博士に対する好感度がうなぎ昇りになっていることだろう。


 博士の右手には私が入った鳥カゴ、左手にはスーパーのレジ袋、どちらも他人のものである。教授が言っていたように、人が良すぎて面倒を引き寄せる体質のようだ。


 博士のカバンに付けられた朱色のお守りを、猫宮がちらりと見た。


「先生、お守りつけてくれたんですね」

「自分でお守りとか買ったことないからよくわからないんだけど、普通にカバンにつけて大丈夫なのかな」


「大丈夫だと思いますよ」

「そっか。ありがとう。大事にするから」

「喜んでもらえてよかったです」


 猫宮がはにかんで頬を染めた。なかなか初々しいやりとりである。


 ふと背後から禍々しい気配というか、殺気のようなものを感じた。私は羽ばたいて振り返ると、後ろをゆっくりとついてくる車が見えた。


 あの黒服女が乗りこんだ、黒塗りの車によく似ている。車の中から覗いている人影が見えた。やたらと黒い。さきほど正門で別れたはずの黒服女にしか見えない。


 おかしい。明らかに博士のあとをつけてきているようにも見えるが、たまたま進行方向が同じなだけかもしれない。


 だが別れた時は、別方向に車は発車したはずだから、それは変だ。ということはわざわざ戻ってきて、尾行をしているということなのだろうか。


 あの冷静沈着そうな能面女がそんなことをするだろうか。あれではまるで、張込みをしている刑事ではないか。


 たぶん気のせいだろう。そう思い込むことにした。そうでもしないと、この先、発生するかもしれない未来の修羅場のようなものの予感に、私は耐えきれそうになかった。


 猫宮が小さな歩幅でトコトコと駆け寄り、博士の横に並ぶときに勢い余ってぶつかった。


「あ、先生ごめんなさい」

「大丈夫だよ」


 実にあざとい。猫宮あざといぞ。だが博士にはあまり効果はなさそうだ。残念だったな猫宮よ。


 だが黒服女には効果はあったようだ。車の座席から乗り出してこちらを見ている。ダメージを受けているのだろうか。ものすごい顔でこちらを睨んでいるように見える。漂っている殺気がすごい。


「先生って、カレーは辛いのと甘いの、どっちが好きですか」


 猫宮があからさまな探りを入れてきた。だがその質問は材料を買う前に聞くべきではないだろうか。今問うことに何の意味があるのかわからない。どう答えられても対応できる用意があるという決意表明なのか。


「どちらかと言うと中辛かな」

「中辛ですか」


「猫宮さんは?」

「私はあま……中辛です」


 好きな男の好みに合わせるタイプのようだ。よく言えば柔軟、悪く言えば自分がない。まるで斉藤のようである。


 どうせ文鳥も猫も、どっちもそんなに好きじゃないくせに、会ったこともないアイドルのためだけに、ペットを飼えるのだから、ここまでくると自分のなさも立派なものである。


 別に斉藤を褒めているわけではない。ただ呆れているだけだ。


 博士たちが大通りから路地裏に入ると、さすがに黒塗りの車は尾行できなくなったのか、ついてきていないようである。


 変形できる未来の車でもなければ、これ以上の尾行は不可能だろう。なんとか修羅場は回避されたようだ。




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