7 なかなかこの黒服女は鋭い。侮れないかもしれない。
博士と黒服女は研究室を出ると、正門への道を一緒に歩いていく。
ポツリと独り言のように、博士が口にする。
「学祭の打ち上げって……何かあったかな」
「博士、何か言ったか」
「いえ、なんでもないです」
背の高い二人が肩を並べていると、なかなかお似合いに見える。だが今の所は二人の間に、甘い雰囲気のようなものは見られない。教授が言っていたフラグというのは、ただのわかりにくいジョークだったのだろうか。
博士が黒服女に聞いた。
「実家で猫を飼ってたことはあるんですけど、鳥は初めてなんで。気をつけておいたほうがいいことってありますか」
「餌は毎日変えてあげること。ちゃんと残ってると思っても、実は食べカスばっかりってことがあるから。あと水も毎日変えて、カゴの掃除も忘れずに」
その情報は、できることなら早めに斉藤にも教えておいて欲しかった。もう今となっては遅いが。
「わかりました」
博士はスマホを取り出すと片手で器用にメモを取りだした。
「放鳥したことは」
「ほうちょう?」
「カゴから出して、外で遊ばせたことはあるの」
「いえ、まだです。慣れない部屋で、いきなり外に出したらびっくりするかもと思って」
昨日は餌と水を変えてくれたが、ずっとカゴの中だった。指を入れて遊んでくれたが、少し物足りなかったのは事実だ。
もしカゴの外に出たら、博士の手に乗ってみたいと思っていた。指が長くてしっかりしていて、とても止まりやすそうな枝に似ていたからだ。
できることなら、博士の手の中で眠ってみたい。大きな手は寝心地がよさそうだ。さぞかし良く眠れるだろう。
「できれば少しの時間でも、外に出してやったほうが喜ぶよ。人によってはずっと、放鳥しっぱなしの場合もあるぐらいだし」
「大丈夫なんですか。逃げたりとか」
「うっかり窓を開けっ放しで、逃げちゃうこともあるよ。うちもそれで戻ってきてない子がいるし。でも懐いていれば問題ないって家もあるし、ケースバイケースかな」
「ケースバイケースですか」
「もちろん飼い主が気をつけないといけないことはいっぱいあるけど。まとわりつくように足元をうろついて、うっかり踏まれそうになったり、コップの飲み物で行水しちゃったり、いろんな子がいるからね。ずっと部屋にいるのが普通になると、思いもしないところに出現して、びっくりっていう事故はよくあるかも」
「なるほど。気をつけます」
博士は心配そうな顔で私を見た。大丈夫だ。私はそんなバカなことはしない。
鳥頭がおバカなのはどうしようもないが、博士を困らせるようなことは、なるだけしないように気をつけるつもりだ。チチッと鳴いてそう伝えようとするが、もちろん伝わっていない。
「もし掃除をする時とか放鳥する場合は、できるだけ同じ時間帯にしといたほうがいいよ」
「バラバラだとまずいですか」
「飼い主が自分勝手だと、文鳥は裏切られたと思って、信頼してくれなくなることもあるから」
その言葉は、ぜひ斉藤に聞かせてほしい。
あの残念な男は、私のことをカゴから出してくれたりくれなかったり、いつも気まぐれだった。おかげで一度外に出られたら、私は羽を伸ばしまくった。次にいつ出られるかわからないからだ。意地でも帰ってやるかと、部屋中を逃げ回ることもよくあった。
そんな時は斉藤が、カゴの前にリモコンを置く。罠だとわかっていても、私はそのぽにょっとしたボタンの魔力に吸い寄せられてしまう。その隙を狙って無理やり捕まえられ、カゴにいれられた後に、またやられたと気付くわけである。
われながら情けない。鳥頭なのだからしょうがないとはいえ、毎回騙される自分にも腹が立つ。
だが、同じ手口で騙してくる斉藤にはもっと腹が立つ。とにかく悪いのは斉藤だ。
「信頼してもらえないのは辛いですね。気をつけます」
「でもたぶん博士は、この子に気に入られてるっぽいから大丈夫かも。きっと放鳥しても、すぐに手乗りして、カゴにも素直に入るんじゃないかな」
私が博士のことを気に入っていることを、この短時間で見抜くとは。なかなかこの黒服女は鋭い。侮れないかもしれない。
「気に入られてますかね。まだ交流ってほどのことは、してないんですが」
「嫌われてたらすぐにわかるよ。触ろうとしたら警戒されて逃げたり暴れたり。文鳥って結構、人の好き嫌いが激しいから。そういうところがまた可愛いんだけど」
「確かに可愛いのは同意します。ずっと見ていて飽きないし、ついつい触りたくなってしまいますね」
博士が私を見た。優しい目をしている。何回も可愛いとか言うな。照れるじゃないか。
博士の口から出てくる『可愛い』は、斉藤が言う大安売りの嘘っぽい『可愛い』とは違う気がする。
言葉に値段が表示されているとしたら、斉藤の『可愛い』は限りなくゼロに近い五円ぐらいで、きっと博士が口にする『可愛い』は、ゼロが何桁も多くて、それなりな札束ぐらいのお値段になっているはずだ。
黒服女も鳥カゴの中を覗き込む。
「その子、オス、メスどっちかわからないんだっけ」
「そうなんです。聞いてなくて」
黒服女は顎に手をやり、うーんと唸る。
「しばらく預かるだけなら、問題ないとは思うけど、本格的に飼うつもりなら、ちゃんと斉藤に聞いといたほうがいいよ。夏が終わる頃には繁殖期に入るし、産卵のことを考えたら、オスとメスじゃ接し方が変わってくるから。触りすぎて想像妊娠とかもあるし」
「なるほど。とりあえず一週間って約束だから、大丈夫だとは思いますけど。もし長引きそうなら、また斉藤に聞いときます」
博士は文鳥の飼育について、いろいろ質問を続けた。教授の言うような手取り足取り熱烈に、というわけにはいかないが、それなりにきちんとレクチャーはされているようだ。斉藤に比べれば、よっぽど頼もしい経験者である。
黒服女は博士の上半身をじっと見た。
「博士、少し汗をかきすぎのようだが、大丈夫か」
「そうですね。想定以上に気温が上がったので。次の検診の時に、また調整をお願いするかもしれません」
「わかった。準備しておこう」
検診で調整とはなんのことだろう。よくはわからないが、一度ボルダリング中に落ちたことがあると斉藤が話していたし、何か体の調子が良くなかったりするのだろうか。
私の飼い主がいきなり倒れて、また路頭に迷うという事態だけは、回避せねばなるまい。できることなら博士には、これからもずっと元気でいてもらいたいものだ。
ようやく大学の正門まで来たとき、博士が横から声をかけられて足を止めた。