6 教授め、至福タイムを邪魔しやがって。
入ってきたのは博士だった。
外はまだまだ暑いのか、博士は汗だくである。不思議そうな顔をして、教授と黒服女を見比べている。
「どうしたんですか」
「なんでもない。いつものわかりにくいアレだ。気にしなくていい」
そう言った黒服女は、私に見せていたスマートフォンの画面を消した。猫と一緒に写っている斉藤のアホ面を、博士に見せるつもりはないようだ。黒服女なりの気遣いというやつだろうか。
「いつものアレ……ですか」
シャツの袖で汗をぬぐいながら、博士は苦笑いをする。私がチチッと鳴いたら、博士がこちらに気づいたようだ。
「シロ、遅くなってごめん。もう帰るから」
博士が鳥カゴを覗き込んで、私に話しかけた。返事をするように、私はもう一度、チチッと鳴く。博士が人差し指を入れて、私の頭を撫でてくれる。
いい指だ。もっと撫でて欲しい。
「なんだ。ワシの指からは逃げたのに、博士の指は好きなようだな」
教授は博士に声をかけた。黒服女とのよくわからない押し問答を続けることを諦めたのか、次の新しい遊び相手として、博士が選ばれてしまったようだ。
「バイトご苦労だったな、博士。女子高生とイチャイチャするのは楽しかったかね」
博士は苦笑いをする。
「僕は普通に、家庭教師をしてただけですよ」
「では、それは何かな」
教授が指差した博士のカバンには、小さな手作りのお守りがぶら下げられている。
刺繍で『N・Y』というイニシャルが縫いこまれていた。博士の苗字は知らないが、少なくとも博士の名前ではなさそうだ。さすがにニューヨークという意味ではないだろうし、送り主の名前ということだろうか。
「ボルダリングの合宿が近いと言ったらくれたんです。結構大きめの山で練習をするって説明したら、安全祈願にって」
「なんだ。やはり女子高生と、イチャイチャしとるではないか」
「してませんから」
博士は困ったなという表情で、頭を掻いている。
教授がいらないことを言ったせいで、博士が私を撫でるのをやめてしまったじゃないか。教授め、至福タイムを邪魔しやがって。
まさか教授は、自分が撫でさせてもらえなかったからって、嫉妬をしているのだろうか。私の嫌いなタバコの臭いを、プンプンさせている人間の分際で、実に許しがたい。
「成績がアップするまで、という親御さんとの約束でしたので、家庭教師のバイトは今回で終わりですし、猫宮さんとは教授が言っているような関係じゃありませんよ。合宿する那須塩原まで応援しに行きたいと言われましたけど、さすがにそこまでしてもらうのは、交通費もかかりますし、申し訳ないので断りました」
教授がやれやれと言うように、首を振り肩をすくめる。
「本当に博士はわかっておらんな」
「なにがですか」
どうやら博士は気づいていないようだ。
いくら鳥頭の私でもわかる。この猫宮という女子高生は、きっと博士に気があったのだろう。家庭教師のバイトが終わってしまって、これから会えなくなる博士に、今後もなんとか会いたいと思って、わざわざ合宿の応援に行くと申し出たに違いない。
せっかく勇気を出して手作りのお守りを作って、応援の申し出もしたのだろうに。会ったこともない女子高生のことではあるが、なんだか不憫になってきた。
だがわからなくもない。博士は確かに人間としてはかなり良い部類の男だ。たった一日しかそばにいない私ですらそう思うのだから、家庭教師と生徒のような補正のかかる関係性に置かれていたら、博士のことを好きになってしまうのも、無理はないのかもしれない。
くじけるな乙女よ。だが今度はもうちょっとわかりやすい相手に恋をしたほうがいいぞ。私は会ったことのない女子高生に、エールを送るつもりでチチッと鳴いた。
私を見た教授が目を細めた。
「文鳥くんですら、理解しているというのに。これだから天然のフラグ破壊王は違うな」
「だから、なんの話をしているんですか」
博士は相変わらず、首を傾げている。
教授が、黒服女の方をちらりと見た。黒服女は興味がないから聞いていなかったという振りをしているが、急にスマートフォンをいじり出したのが、よけいに怪しい。
どうやらこの黒服女も、フラグとやらを立てたことがあるのだろうか。
「まだわからんのか。かといって説明しても、今の博士には理解できんだろうしな。困ったものだ」
教授はやれやれという表情をしている。何もわかってなさそうな博士は、解せないという顔でさらに首をかしげていた。
コーヒーを飲み干した教授が、ちらりと私を見て言った。
「この子はオスなのか、メスなのか」
教授の問いかけに、博士は少し考えているのか、視線を遠くに飛ばす。
「知らないです。そういえば聞いてなかった。斉藤に確認しましょうか」
「いや、そこまで気になっているわけではない」
「そうですか。じゃあクーラーの修理に立ち会わないといけないんで。今日は失礼します」
鳥カゴを持って出て行こうとする博士を呼び止めるように、教授が再び話しかけた。
「博士の家は、ペットは大丈夫なのか」
「いや、それが」
「どうする気だ。大家に見つかったら文鳥くんだけでなく博士も路頭に迷うことになるぞ」
「そうなんですよね……」
博士は頭を掻いた。困った顔も可愛く見えてくるのは気のせいだろうか。
「またなんかあったら、いつでもここに連れてきなさい」
教授はちらりと私のことを見た。少し目を細めた気がする。
孫娘に頼まれたとは言っていたが、こっそり写真を撮っていたぐらいだから、案外気に入ってくれているのかもしれない。
もし今度会うときがあったら、もう少し近寄ってやろう。そのぐらいは譲歩してやってもいいかもしれない。
「本当ですか。助かります」
嬉しそうに博士は笑う。実に良い笑顔だ。
なんだかドキドキしてきた。いかん、いかんぞ。私は鳥である。しかもメスだ。
人間の男なんかにときめいている場合ではないのだ。
もう文鳥になってしまったのは、代え難い事実なのだから、いずれ素敵なオスと出会って、可愛い子供を産んで、幸せな家族を作るのが、私の鳥生としての目標のはずなのに。
博士のことがこんなにも気になるのは、きっと環境の変化で疲れているせいかもしれない。そうに違いない。
「とはいえ、もし本当に困ったときは、黒幕に頼むしかないな」
「黒幕って、先輩のことですか」
教授の眉が少しだけ動いた。黒服女をちらりと見る。
「やはり黒幕で通じるではないか」
黒服女が博士をにらんだ。博士は必死に首を横に振り、自分は賛同していないというアピールをしている。
「いや、そう言っているのは、教授だけですよ、もちろん」
「ちなみに彼女がなぜいつも、黒い服を着ているか、知っておるかね」
「いいえ。教授はご存知なのですか」
「いや、知らん」
博士が一瞬だけ、魂が抜けそうになったような表情をした。なにか心にダメージを受けたようだ。
「教授、なぜ知らないのに、知ってる風の雰囲気を出したんですか」
「知っているとは一言も言っておらん。博士が勝手に勘違いしただけだろう」
教授は真面目な顔をしている。本気なのか冗談なのか、果てしなくわかりにくい。
「博士がそんなに気になるなら、本人に聞いてみればいいのではないか。どうかね。なにか理由があるのだろう」
教授に促されて、黒服女は困ったような顔をした。
「わざわざ説明するような理由は……別にありませんから」
「なんだ。それは残念だな。ワシはてっきり一年前に、はか……」
目の前を何かが高速で横切り、教授が何かを言いかけてやめた。教授の背後にあるコルクボードにはボールペンが刺さっている。
「教授、どうかしましたか」
黒服女は涼しい顔をしている。だがどう考えてもボールペンを投げたのは、その女だ。
「いや、なんでもないよ。忘れてくれたまえ。ワシにはまだ粛清される勇気が足らなかったようだ」
教授は苦笑いを浮かべた。
「だが、命を落とす前に、博士に話しておかなければならないことがある。実はここだけの重要機密だったのだが……」
黒服女が新しいボールペンを手に取った。眼光が鋭い。余計なことを話すと、どうなるかわかっているなと言いたげな目で睨んでいる。
なぜに教授はここまでして無謀な挑戦をするのだろうか。マゾなのだろうか。理解に苦しむ。こんな場所で血を見たくないので、できれば運良く命がある方向で収まってくれれば良いのだけれど。
「実は彼女は、文鳥マニアなんだよ」
「はい?」
すごいんだかすごくないんだか、よくわからない情報が開示された。
博士は疑うような目で、教授を見てから黒服女を見た。黒服女は眉をひそめている。
「なぜなら、彼女の使っているメモ帳は……桜文鳥だからだよ」
黒服女の机にあるメモ帳を手にした教授は、犯人の証拠物を見つけた探偵ばりに掲げている。確かに桜文鳥のイラストが描かれたメモ帳だ。パソコンのモニターにも、いくつかメモが貼り付けられているのが見える。
「間違いなく、絶対に、ゆるぐことなく、彼女は桜文鳥マニアだ」
教授は勝ち誇った表情をしている。それだけの根拠でそれを言い切ったのかという、脱力感にも似た空気が部屋に充満している。きっと悪い人ではないのだろう。だがこの教授の話を聞いていると、なんだか疲れるのは事実だ。
黒服女は呆れたような表情を見せた。
「私は文鳥マニアではありませんから、教授の情報は正しくありません。ですが父が昔から離れの温室で、文鳥やヨウムを飼っていたので、少なくとも博士よりは、鳥に詳しいと思いますが」
「なんだ。マニアではないのか。ワシの観察眼も衰えたものだな。実に残念だ。だが博士より知識があるのならば、この機会に手取り足取り熱烈に、あれやこれやと伝授し……」
教授がまだ話している途中だったが、これ以上相手をしていたら、精神が持たないと考えたのかはわからないが、黒服女が遮った。
「今日は顔出しに来ただけで、この後も用事があるので。では失礼します」
黒服女は真っ黒な腕時計を、ちらりと確認してから、部屋を出て行った。
博士も目上の人間に対する礼儀として、当たり障りのない会釈をしてから、後を追うように出て行こうとした。
「博士に、一つだけヒントをやろう」
声をかけられて、博士は足を止める。
「ヒントって、何のですか」
「彼女が、黒い服を着ている理由についてだよ」
「クイズじゃないんですから」
「学祭の打ち上げだ」
「どういうことですか」
教授は口の端を少しだけ上げた。
「あとは自分で考えたまえ。彼女を変えた責任は、君が取るべきだ。それが礼儀というものだよ」
博士は首を傾げている。私にも意味がよくわからない。
「……失礼します」
博士は部屋を出て行った。
教授はまだ何か喋りたいことがあったようだが、知ったこっちゃない。私の鳥生は短い。教授のわかりにくいジョークや、禅問答に付き合っている時間はないのだ。