22 どうやら斉藤の中で何かが終わったらしい。
博士と先輩がオンボロアパートに戻ったら、待ち構えていたのは、部屋の前で三角座りをしている斉藤だった。
博士が怪訝そうな表情で、斉藤を見下ろしている。
「何してんの、そんなところで。中に入って待ってればよかったのに」
「いや、だ、だって。入れるわけねぇだろっ」
「まさか、非常用に渡しておいた合鍵、無くしたんじゃないだろうな」
「無くしてねぇよっ。そうじゃなくて。無理なんだってば」
斉藤はあたふたと慌てた様子で答える。よっぽど博士の部屋が大変なことになっているのだろうか。
かすかにではあるが、なんだか刺激的な匂いがしている。鳥になってからは、一度も食べたことはないのでよくわからないが、カレーの匂いのはずだ。
そういえばあの女子高生の猫宮は、まだ部屋にいるのだろうか。カレーを作ろうと材料を持ってきていたようだし、まさか大失敗でもして、部屋が大惨事にでもなっているのではなかろうか。
「カレーが、なんでだよ。おかしいだろっ」
斉藤の言葉は要領を得ない。手にはスマートフォンを握りしめている。なぜ斉藤がこんなところで、錯乱しているのか。さっぱり意味がわからない。
お前は焼肉を食べに行ったのではなかったのか。公園で別れてから、一体何があったのだろう。きっと斉藤のことだから、ろくでもないことでもしたのかもしれない。
それとも博士がいない間に、なにか事件でも発生していたのだろうか。
「まさかカレーを、ありえねぇよ。なぁ、博士、絶対、嘘だって言ってくれっ」
斉藤は泣きそうな顔で、博士を見上げている。
「だから、さっきからカレー、カレーって、何をそんなに」
困ったような顔をした博士は、恐る恐るという感じで鍵を開けて、そーっと扉を開いた。部屋の中の空気が、一気にカレーの匂いごと外に溢れてくる。
「先生っ、帰ってきてくれたんですね」
あの日と同じ白いワンピース姿の猫宮が、キラキラした目で、飛び跳ねるみたいにして立ち上がった。どうやらあれからずっと、この部屋に残っていたようだ。
だが博士の背後に先輩の姿を見つけて、猫宮は顔を強張らせた。きっと猫宮にとっては一番会いたくない場所で、一番会いたくない相手に遭遇したという、ある意味、最悪の事態だろう。
よりによって宿敵が、自分と同じ勝負服の白いワンピースを着ているのだ。鴨が葱を背負って来るどころの話ではない。
最悪なライバルと、おまけに残念な男である斉藤までついてきたのだ。そんなお鍋は私だって食べたくない。
そうなってほしくないことほど、そうなるように世の中はできている。人生も鳥生もままならないものなのだ。
「猫宮さん、まだいたんですね。ちゃんとご両親には連絡した?」
博士の問いに、猫宮は何も答えない。別の女と一緒にやってきた博士には、何が何でも答えたくないということだろうか。
玄関の扉の向こうから、斉藤がこっそりと中を覗いている。普通に入ってくればいいのに。
「結衣ちゃんだ……本物の結衣ちゃんだ」
そう呟いた斉藤は崩れおちて、通路にへたり込んでいる。まさか斉藤が追っかけをしているアイドルの結衣ちゃんが、この猫宮だったというのか。
言われてみれば、博士がもらったお守りには、『N・Y』というイニシャルが書かれていたはずだ。猫宮結衣を意味する名前を、刻み込んでからプレゼントしていたということのようだ。恋する女、恐るべし。
「終わりだ。……もう終わりだ」
どうやら斉藤の中で何かが終わったらしい。
確かに自分の好きなアイドルが、知り合いの部屋でカレーを作っていたら、それはもういろんな意味で終わるだろう。
まさしく、鳶に油揚げを攫われるという状態だったようだ。波打ち際の砂山が、ビッグウェーブにさらわれ、一瞬で崩れ去るように、いろんなものが心の中で崩壊しているに違いない。
「なんで、なんでだよっ。なんで結衣ちゃんが、ここにいるんだよ。博士っ、ちゃんと説明しろよっ!」
斉藤は顔をぐちゃぐちゃにしながら、泣き叫ぶように博士に呼びかけた。みっともないにもほどがある。
「説明しろって、何を」
博士は何もわかっていないようだ。不思議そうに斉藤と猫宮を見比べている。
「猫宮さんって、下の名前、結衣って言うのか。知らなかったよ」
「そこじゃねぇだろっ」
食い気味に、斉藤が博士にツッコミをいれた。
気持ちはわかる。確かに論点はそこではない。
「結衣ちゃんが裏垢にアップした写真が、すんげー見覚えのある部屋が映ってて」
斉藤はハイハイをするように部屋に入ってきて、博士の足元にすがりつく。
「ほら、これ。『初めて彼氏の部屋でカレーを作ってみた』って書いてるから、まさかなって思いながら、博士の部屋の前に来たら、本当にカレーの匂いがして」
斉藤はスマートフォンを操作して、画像を見せつけてアピールを続けている。
よく巷では、アイドルや芸能人が、SNSで匂わせ投稿とやらをして、ファンにバレて炎上したりするものだが、猫宮もそれと同じような感覚で、博士にマーキングをしようとしていたのかもしれない。
まるで博士は自分のものだと主張するために。
「なぁ博士。嘘だと言ってくれよ。この画像は合成だよな。そうだよなっ」
現実を見ようともせず、みっともなさを倍掛けしてくるとは。さすが残念な男、斉藤である。
博士は画像をじっと見てから顔を上げた。猫宮に向かって穏やかな声で言う。
「どういうことですか。猫宮さん。僕はいつから君の彼氏になったのですか」
なかなかの直球である。聞きたいことをまっすぐに質問しているだけだ。だがその言葉は、猫宮にとっては、切れ味の良いナイフと、同等の攻撃力を持っていたに違いない。
猫宮は顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな表情で、必死にこらえていた。だが急にダムが決壊するみたいに、ポロポロと涙が溢れ落ちた。
「ごめん……なさい」
猫宮は博士の横をすり抜けて、出て行こうとした。
だがその手を掴んだのは先輩だった。
「このまま逃げ出してしまったら、あなたは二度と、博士と顔をあわせることができなくなるよ。それでいいの。せめて真実と異なるなら、写真は今すぐ消すべきでは」
先輩の有無を言わせぬ、強い瞳にたじろいだのか、猫宮はスマートフォンを出して、言われた通りに画像を消したようだ。
「え、じゃあ、違うの。博士が彼氏じゃないのか。なーんだ。やっぱりな。そうだよな。そんなわけないよな」
斉藤は目の前に、一億円でも降ってきたみたいに、幸せそうに笑っている。
猫宮の彼氏が、博士でないということは、証明されたかもしれないが、だからと言って、すぐさま猫宮の相手が、斉藤になるわけではない。
そんな簡単なこともわからないぐらいに、浮かれているようである。おめでたいやつだ。残念な男だからしょうがない。
先輩は猫宮の手を離して言う。
「何か言いたいことがあるなら、はっきり言った方がいいよ。人生短いんだし。私もそれで失敗しかけたから。未来がある人には、これからの人生を無駄にしてほしくないかな。あなただって、後悔したくないでしょ」
猫宮は目を伏せて、しばらくしてから口を開いた。
「……勝手に嘘ついてごめんなさい。あの、その……よかったら冷蔵庫のカレー、食べてください。ちゃんと中辛にしてあります」
ようやく決心しての言葉が、それでいいのかと思ったが、本人が納得しているのなら問題ないのかもしれない。
博士は冷蔵庫を開けた。鍋以外は何も入っていない。カレー鍋の蓋を開けて、中身を確認したようだ。
「ありがとう。美味しそうだね。あとでいただくよ」
博士は優しい嘘をついた。博士の機械の体では、カレーなんて食べられるわけがない。
「先生……いつかコンサート見に来てくださいね」
「うん、頑張ってバイトしなきゃな」
「大丈夫ですよ。チケット送りますから」
猫宮は涙を拭いながら、精一杯の笑顔を見せた。腐っても鯛ということだろうか。どれだけ泣きまくったあとでも、やはりアイドルのスマイルは最高級のようだ。
「あの……握手してもらってもいいですか」
「いいよ」
猫宮が差し出した手を、博士は優しく握り返した。手が離れたあと、猫宮は握手をした右手を、大事そうにぎゅっと握りしめた。
「じゃあ、また」
「またね」
きっともう会うこともなさそうな時も、人間というのは、再会を約束するような言葉を口にしてしまうようだ。いずれ思い知ることになる別れを、ずっと先延ばしにするための呪文か何かなのかもしれない。
立ち去る猫宮の後ろ姿を、ずっと眺めていた斉藤だったが、ふいに声をあげた。
「ふぁ、ファンですっ。俺も握手してもらっていいですかっ」
猫宮は振り返って、少し考えてから、博士と握手したのとは違う方の左手を出した。
恐る恐るという感じで、斉藤はその手を両手でがっつり握った。
にやけ顏がとんでもないことになっている。あまりに腑抜けた顔で、もしかしたらよだれが垂れている可能性すらある。
「あ、ありがとうございますっ」
「……あの、もういいですか」
猫宮はにっこりとはしているが、若干眉間にシワが寄っていそうな、営業スマイルを返す。慌てて斉藤は、その手を離した。
「す、みませんっ。一生洗いませんっ」
斉藤という男は、どうしてこんな、すぐにバレる嘘をつくのだろうか。
「それじゃ」
猫宮はお辞儀をして、ちらりと博士に、目をやってから出て行った。
玄関の扉が閉まった途端に、斉藤は大きな息を吐いた。もしかしたら憧れの人を前に、緊張で息を止めていたのだろうか。
少し息を整えてから、カァーだの、キェーだの変な奇声をあげている。あげくに握手した手をくんかくんかと匂っている。かなり気持ち悪い。ダメだこいつ。
「やっぱ生結衣ちゃん、半端ねぇ。こんな近くで初めて見た。握手もしちゃった。どうしよう。俺死んじゃうかも」
だったら死ねばいいのに。
「っていうか、博士と結衣ちゃんは、どういう知り合いなの。なんでこの部屋にいたの。ねぇなんで」
斉藤がぐいぐい博士に、質問を浴びせている。なんかうざい。
「猫宮さんは、ついこの間まで、僕が家庭教師をしていた相手だよ」
「あー、教授が前に言ってた、噂の女子高生か。ってことは、もう家庭教師は終わったんだよな」
「終わった」
「よし、なら問題ない」
なにが問題ないのかはわからないが、斉藤はホッとしたような表情を見せた。
「つーか、先に言えよ。結衣ちゃんを教えてるって」
「別に、聞かれなかったし」
「俺の推しメンが、結衣ちゃんだって知ってただろ」
「だから、下の名前は知らなかったんだって」
「わかれよ。察しろよ」
「無茶言うなよ。お前だって推しメンの本名が、猫宮だって言わなかったじゃないか」
「俺だって今知ったんだから、言えるわけないだろっ」
逆ギレとは情けない。裏垢を探し出す執念はあるくせに、大事なところで詰めが甘いのだ、この男は。残念な斉藤だからしょうがない。
「だいたい斉藤にバイト先の相手のことを、いちいち説明する義務は、ないと思うのだが」
まったくである。博士の反論を受けて、これ以上問い詰めても、分が悪いと思ったのか、斉藤は話題を変えることにしたようだ。
「なぁ、さっきチケット送るとか言ってたけど、今度、俺の分もチケットもらってくれよ。焼肉と寿司の代わりに、そっちでいいから」
図々しいにもほどがある。たいしたこともしてないくせに、次々と権利を手に入れようとするとは、わらしべ長者も真っ青である。
「わかった、わかった。お願いしてみるから」
「やったー」
せっかく奇跡的に推しメンと、お近づきになれるチャンスを手に入れたかもしれないというのに、わざわざ友人にたかる、残念な男であるとアピールするとは、この男、本当にバカなのだろうか。
「よし、なら結衣ちゃん特製のカレー、俺が代わりに食ってやるから。どうせお前食えないんだろ」
斉藤は勝手に冷蔵庫を開けて、鍋を取り出し、さっそく火にかけている。図々しいにもほどがある。さすがは斉藤だ。
「斉藤だけでは、食べきれないだろう。私も手伝おうか」
先輩の申し出を、斉藤は即座に否定した。
「大丈夫っす。俺一人で、全部食います」
憧れの結衣ちゃんが作ったカレーを、他人に食わせてなるものか、という強い意志を感じる。
猫宮もまさか、博士のために愛情を込めて作ったカレーが、こんな残念な男にすべて食べられてしまうことになるなんて、予想だにしなかっただろう。可哀想に。斉藤が博士の友達だったということを、恨んでもらうしかない。
「うめー、やっぱ結衣ちゃん最高だー。絶対にいいお嫁さんになるなこれは」
誰の、とは聞いてやらないのが礼儀というものなのだろうか。博士も先輩も、生暖かい目で見守っているようだ。
「あんまり食い過ぎんなよ」
「大丈夫だって」
博士のアドバイスも聞かずに、斉藤は何杯もお代わりをして、カレーを平らげていく。
「俺だって、博士に感謝してるんだからな」
「感謝?」
「昔さ、父さんに隠し子がいたって発覚して、うちの母さんと大喧嘩してさ」
まさかのあの母親に調教されて、立派な女子力高い系おじさんになった父親が、昔はとんだはっちゃけた男だったようだ。
ギャップが残念なほうに酷いというのは、やっぱり蛙の子は蛙ということだろうか。現実では鳶が鷹を生むなんてことはないらしい。
「実家に帰るって揉めてた時、荷物をまとめて出て行こうとした母さんが、外でばったりお前に会ったらしいんだ」
「そんなこと、あったっけ。よく覚えてないけど」
博士の記憶力は、昔から怪しいようだ。
「その時、博士に言われたんだってさ。『おばちゃん、あいつのこと捨てちゃうの?』って。きっとお前は、自分の母親が出て行った時を、思い出してたんだろうな。泣きそうな顔をした博士を見て、うちの母さんは思いとどまって、家出はやめたんだってさ」
斉藤はコップの水を、全部飲み干した。
「博士はうちの家族を救ったんだよ。だからさ、お前はもっと幸せになってもいいと思うんだ」
そう言って笑った斉藤は、いつもよりは二割増しでイケメンに見えた。たまには良いことも言うようである。
食べ過ぎた斉藤が、その日の夜は、ずっとトイレとお友達状態だったというのは、後で聞いた話である。やはりどこまでも残念な男のようだ。
斉藤がどうなろうと知ったこっちゃないが、とりあえず無事に、博士の家に戻ることができたのは何よりである。
たった数日のことだというのに、まるで何度も鳥生を繰り返したかのように、どっと疲れている。きっと今日はよく眠れることだろう。
私と博士の今後の生活がどうなるかについては、先輩とのラブラブ展開があるかもしれないので、まだ予断は許さない。
だが斉藤と過ごした不毛な生活よりは、幾分マシなものになるはずである。
信じるものは救われる。そう信じることにした。




