2 今すぐにでも人間になれるのなら、斉藤を殴りたい。
斉藤が訪れたのは、いかにも貧乏学生が住んでいそうな、二階建てのアパートだった。
モルタルの壁が所々はげ落ち、階段も錆びていて今にも壊れそうだ。どう考えても金持ちは住んでいそうにない。やっぱり嫌な予感しかしない。
斉藤が安っぽい扉をノックする。返事はない。斉藤はくじけずに何度も拳を叩きつけた。近所迷惑だと怒られても、しょうがないぐらいに大騒音である。
この家への訪問で通算十五回目のアタックなのだ。斉藤が周りに悪いと思うような、繊細な神経をしていたら、こんなに続けられるわけがない。
図々しいことには定評のある男なのだから、相手がなかなか出てこないぐらいで諦めるわけがない。どうせこの家の住人にも断られるはず。それでもしばらくの間、茶番に付き合うしかない。
もし私が人間になれたなら、一番最初にしたいことは斉藤を殴ることである。
もちろん鳥が人間になれるなんて奇跡が、絶対に起こらないのはわかっている。ただのしがない文鳥が思い描くささやかな夢である。
だが人間だった私が、鳥に転生したぐらいなのだから、その逆だって、いつの日かありうる可能性だってなくはないのではないか。できればあってほしい。祈るぐらいは許されるはずだ。
「なんだ、いねぇのかよ」
いくら扉をノックしても出てこないところを見ると、やはりこの家の住人はいないようだ。斉藤はスマートフォンを出して電話をする。だったら最初から、先に連絡をしてから訪問すればいいのに。バカじゃなかろうか。
「今、暇? あぁ、練習中だったのか。じゃあそっち行くから。ちょっと頼みたいことがあるんだ」
電話を切った斉藤は、再び私を連れて歩き出した。どうやら電話の相手がいる場所まで行くようである。
いったいこの茶番は、いつまで続くのだろうか。私は抗議するつもりでチチッと鳴いた。
連れて行かれたのは、こじんまりとしたジムだった。
人間が壁を必死に登っている。ボルダリングというスポーツらしい。何度かテレビでやっているのを見たことがある。人工的に作った壁を登っていくスポーツだ。
筋肉質な人々は、腕を伸ばして壁の突起物を掴んではよじ登り、引っ掛けた脚の力で体を引き上げたりしている。
少し離れた場所へ体を揺らした反動で飛び移ったり、黙々と体全体を使って壁を登っていく。一番上に到達できた人は、みんな笑顔だ。何がそんなに楽しいのだろうか。よくわからない。
私のように鳥になってしまった身からしたら、わざわざ体を酷使してまで、どうして高い場所へ登りたいのだろうと不思議に思ったりもする。鳥ならば空を飛べば、あのぐらいの高さは一瞬だ。
だがいくら空を飛べたとしても、これまでずっと鳥カゴや、部屋の中でしか飛んだことのない私には、偉そうなことは言えない。
本当の意味で空を飛んだことはないからだ。きっと壁を登っている人間が見たであろう景色のほうが、空に近いだろう。少しだけ羨ましい気がした。
壁登りを中断して降りてきた男に、斉藤が声をかけた。
「博士、怖くないのか。一度落ちて頭打ったくせに」
博士と呼ばれたのは、メガネをかけている背の高い男だった。たぶん斉藤と同じ大学に通う学生だろう。なぜ博士と呼ばれているのかはわからないが、確かに頭の良さそうな顔をしている。
だが服装はあまりよろしくない。襟首が伸びきったTシャツと、子供時代のものでも使い続けているのか、寸足らずなジャージのズボン。頭は寝起きかなというぐらいにボサボサで、鳥の巣みたいな髪の毛をしていた。
どうやら博士という男は、身だしなみには、あまり気を使わないタイプのようだ。せっかくスタイルは良さそうなのに台無しである。
汗だくで息が上がっている状態で博士は言った。
「ちょうど落ちた前後の記憶がないからなぁ。別に怖くはないよ。体の調子をチェックするには、このぐらいの運動も適度にしといたほうがいいみたいだし」
「ならいいけど。ほどほどにしとけよ」
小さく頷いた博士が、シャツで汗をぬぐいながら言った。
「で、僕に何か用事があったんじゃないのか」
斉藤は博士の目の前に、私が入っている鳥カゴを出した。
「博士、お前にしか頼めない。お願いがあるんだ。マジで頼むよ」
「頼むって、なにを」
「しばらく預かってもらえないか。これ、文鳥。可愛いだろ。シロって言うんだ」
鳥カゴを押し付けられた博士は、五秒ぐらい固まっていた。状況を理解するまで多少時間がかかったようだ。
わかる。その気持ちは痛いほどよくわかるぞ。
これまで斉藤がお願いしたすべての人間が、同じような反応をしていた。私だって見ず知らずのスズメやインコを突然連れてこられて、「今から鳥カゴの中で同居しろ」なんて言われたら、同じような反応をしただろう。
「ちょ、ちょっと待てよ。うちのアパート、ペット禁止なんだぞ」
さっそく雲行きが怪しくなってきたようだ。ついさっき見た、オンボロなアパートの見た目からして、そんな予感がしていたが、仕方がないことかもしれない。
あんな壁の薄そうなアパートで、ペットなんて飼ってしまった日には、隣人同士のバトルが夜な夜な勃発してしまう。実に懸命な判断である。
「だいじょーぶ。たぶん犬とか猫ほど鳴き声しないから」
「そういう問題じゃないだろ」
「田舎の母さんが倒れたんだ」
また始まった。これから斉藤の口から出てくる言葉はすべて、真っ赤な嘘である。
「倒れた?」
「だから実家に帰らないと行けなくなってさ。でもこいつ置いていけないし。やっと高速バスのチケットが取れたから、夜にはこっちを出る予定なんだ」
斉藤の母親はピンピンしている。むしろアイドルの追っかけをするために、全国を飛び回ってるぐらいに元気だ。
昨夜も電話があって、「コンサートで上京するので、時間があったら会わないか」という話をしていた。母親自ら上京して来るのだから、斉藤が実家に帰る必要なんてものは、どこにもない。
斉藤は、さっき訪問した家でも、同じ嘘をついていた。懲りずにまた嘘を重ねるつもりのようだ。
「命に別状はないらしいんだけど、しばらく安静にしてろってことらしくて。うちの親父、家事とかなんにもできねーから。代わりに俺が面倒見ないと」
これも嘘だ。ここ最近の父親は、いつも一人でほっておかれていることに慣れているので、むしろ料理も家事も一人でできる、女子力高い系おじさんだったはずである。
前に斉藤の家に様子を見に来た母親が、あれやこれやとタッパーに入った料理を押し付けながら、ドヤ顔で息子に自慢していたぐらいだ。
斉藤母が好き勝手に、アイドルの追っかけをするために身につけた口癖は、「大人なんだから、自分の世話ぐらい自分でしろ」だそうだ。
夫の調教に成功したのだ、という勝利宣言かなにかだろう。よっぽど斉藤父は、尻に敷かれているらしい。きっと今頃はぺっちゃんこになっているに違いない。
というわけで残念ながら、私の飼い主は狼少年なのだ。
もちろん、生物学的には人間である。ただ、いつもその場限りの嘘をついて生きてきた男という意味で、狼少年だと私が勝手に分類しているだけだ。
とはいえ大学生を少年というのは微妙かもしれないので、狼青年とでも呼べばいいのだろうか。
「実家に。それは、大変……だね」
博士は心配そうに斉藤を見ている。
おい騙されるな。この男が言っていることは、全部嘘なんだぞ。
私はチチッと鳴いて教えようとするが、伝わらないようである。
斉藤が私を捨てようとしている理由は単純だ。新しく好きになったアイドルの推しメンが、スコティッシュフォールドという猫が好きだった。だから、新しく猫を飼おうとしている、ただそれだけである。
猫の写真をSNSでチラつかせて、少しでもアイドルと接点を持とうとするがためだけに、この斉藤という男は、猫を飼うつもりなのだ。
猫が部屋に来るとなると、当然のことながら、鳥である私は邪魔になる。だからこの私を誰かに押し付けるつもりで、必死に嘘をつきまくっているのである。
こいつは自分の都合だけでペットを捨てようとしている、とんでもない野郎なのだ。
今すぐにでも人間になれるのなら、斉藤を殴りたい。