18 生きていてよかった。死んだらこんな美味しいものは食べられない。
「なんだ。つまらんな。せっかく車を貸してやろうと思って、わざわざここまで来てやったというのに」
声をかけてきたのは教授だった。手には車のキーが握られていたが、すぐにポケットにしまわれてしまった。
可愛らしい猫のぬいぐるみのモフモフなキーホルダーが付いていて、なんだかつつきやすそうな感じだったのに、とても残念である。
「これから駆け落ちでもするんじゃないのかと思っていたのに、それで終わりか」
博士は不思議そうに首をかしげる。
「駆け落ちって、誰がですか」
やはりそういう男のようだ。博士の鈍感力は果てしない。
「博士、義体だけでなく本体の頭脳も、少し検査してもらったほうが良いのではないかね」
「さっき検査してもらって、問題ないと言われましたが」
「そういう意味ではないのだが」
教授は頭が痛いのか、こめかみに手を当てている。このような教え子を持つと、上に立つものは、気苦労が絶えなさそうである。
「で、博士、ワシの情報提供は、少しは役に立ったかな」
「おかげさまで。まぁ教授の言葉を聞いた直後に、久しぶりに、また死にかける羽目になりましたけど」
「死にかけでもしないと、本質を見誤る者がいるからな。身の危険を感じれば、胆も座って大胆な行動が取れるというものだよ」
教授はニヤリと笑った。どうやらこの男も策士のようである。
「しかし、こんなところでもたついているということは、何か問題でもあったのかね」
「問題と言えば、問題ですが……」
博士は少し首をかしげる。思わず私はバランスを崩しそうになり、少し飛んで場所を移動した。
「まさかこの期に及んで、実は家庭教師をしていた女子高生と、付き合っていましたなどと、言い出すんじゃないだろうな」
「猫宮さんのことでしたら、付き合ってませんから」
博士は必死に首を横に振っている。振り落とされそうになって、私はしばらく飛び上がってやり過ごした。あんまり頭を動かさないでいただきたい。
「ならば年上は嫌いだとか」
「ち、違います。そんなことは一言も、言ってません」
博士はさらに首と手を振り、必死に否定をする。
「なんだ。なら何も問題ないではないか」
「そういうことを言っているのではなくてですね」
教授は髭を撫でながら、視線を遠くに飛ばした。
「実はワシは、若い頃は年上がタイプだったのだよ。だがさすがに、この歳になってくると、いろいろと生物学的に問題が出てくることが多くてね」
「はぁ、まぁ……でしょうね」
「どうせ君たちも、あと何十年もしたら、年上だの年下だの、どうでもよくなってくるものだ。どっちが先に死にそうかのチキンレースの方が、大変になってくるからね」
着物女が怪訝そうな表情で、教授を睨んでいる。
「そんな無表情で、さらっとヘビーなこと言わないでください」
「そうですよ、教授。お年を召した方が、そういう捨て身のギャグを言うのは卑怯です」
博士も困ったような苦笑いをする。
「なんだ。ワシは本当のことを言っているだけだぞ」
相変わらず教授は無表情すぎて、冗談なのか本気なのかがよくわからない。
「おじいちゃん、文鳥、どこ」
教授の背後にずっと隠れていた、可愛らしい少女がひょっこり顔を出した。研究室にいたときに、私の写真を孫娘にせがまれたと教授が言っていたが、その相手がこの子なのだろうか。
「ほら見てごらん。あの天然のフラグ破壊王の、頭上にいるのが見えるだろう」
「ふらぐはかいおうってなに」
「朴念仁のことだ」
「ぼくねんじんってなに」
「……文鳥と遊びたかったのではないのかね」
どうやら子供の質問に答えるのが面倒くさくなったようだ。あまり子守をするには、向いていない性格らしい。
「博士、君たちがイチャイチャしている間、文鳥の面倒は見ていてやるから、その文鳥をよこしなさい」
私を物みたいに言うな。抗議をするつもりでチチッと鳴いたが、まったく効果はない。教授のしわがれた手が、博士の頭の上に近づいてくる。
少し遠ざかろうとしたが、この前のようなタバコ臭さは感じられない。
「シロちゃん。大丈夫だよ。おじいちゃんね、タバコやめたんだよ」
孫娘がぴょんぴょん跳ねながら、嬉しそうに報告してくる。私のためにわざわざやめてくれたのだろうか。
「どうだね文鳥くん。この通り、良い餌を用意した。最高級のお米に、カナリーシード、それとも新鮮な青菜が良いかね」
教授はポケットから、ビニールの小袋をいくつか取り出した。
「しばらく我が孫と、遊んではくれないだろうか」
教授が見せびらかした餌は、どれもこれも美味しそうなものばかりだった。ずっと飛び続けた後だ。お腹は空いている。思わず私は誘惑に負けて、教授の指に飛び乗った。
「交渉は成功したようだ」
教授が小さく笑った気がする。だが一瞬でいつもの無表情に戻ってしまった。
「さぁ、遊びたまえ」
孫娘の目線になるように教授はしゃがんで、指の上に乗せた私を、孫娘に差し出した。
「うわー真っ白。大福みたい」
また食べ物に例えられた。うっかり食べられたらどうしよう。さすがに一飲みできるほど大きな口は持っていないようだが、小さな子供は何をするかわからない。用心するに越したことはないだろう。
恐る恐るという感じで、教授の指から孫娘の指上に飛び移った。しわしわの枝のような指に比べると、小さい手は柔らかい。乗り心地は悪くない。
教授は、いくつかの餌を手のひらに出して、見せびらかしてくる。私は差し出された餌を順番についばんでいく。
どれもこれも美味だ。買収された甲斐がある。お腹がいっぱいになるまで、たっぷりと餌を口にしていると実感する。
あぁ、生きていてよかった。死んだらこんな美味しいものは食べられない。
あの桜文鳥に案内してもらわなかったら、今頃、私も街のどこかで、野垂れ死にをしていたかもしれないのだ。心の中でそっと、桜文鳥に感謝をしておいた。
「いい子、いい子。可愛いね」
孫娘は私を掌の中に包み込む。ふわふわの手の中で、うっかり眠りそうになった。危ない、危ない。すべての餌を食べきるまで、眠るわけにはいかない。
孫娘が博士と着物女をじっと見ている。
「おじいちゃん、なんであの二人、何もしゃべらないの。ケンカしてるの?」
「こら、あまりジロジロ見るんじゃない。こういうのはさりげなく観察するのが、礼儀というものだ」
「れいぎって何」
「マナーとか作法というやつだな」
「まなーって何。さほうって何」
答えるごとに謎が増えるとは、恐るべし孫の質問。
「……とにかく、自分がされたら嫌なことはしないほうが良いという、仲間内での約束事のようなものだと思えばよい」
伝わっているのかは謎だが、孫娘はふーんと首を傾げている。
教授の考える礼儀作法というものが、若干普通の人と乖離しているようにしか思えないので、あまり本気にしないほうが良いのではないだろうか。
ずっと考え込んでいた様子の博士が、ようやく口を開いた。
「そうだ、先輩。一緒に引っ越しませんか」
「は?」
「ペット可の物件を一緒に探して、シェアしましょう。シロと先輩も一緒に住める部屋を」
教授がこめかみに手をやる。頭痛でもしているのだろう。
私だってこの鈍感っぷりに頭が痛い。
「ほんと博士はわかっておらんな」
「わかっておらんってなーに」
孫娘の質問に答える気力は、教授には残されていないようだ。
着物女は、ムッとしたような表情で答えた。
「嫌だ」
「なんでですか」
「順序が逆だ。一緒に住みたいなら、先にすべきことがあるだろう。私に皆まで言わせるな。バカ」
不思議そうに孫娘は教授を見上げている。
「おじいちゃん、じゅんじょがぎゃくって、なーに?」
「シーッ。今大事なところだから」
だがその気遣いをぶち壊すように、大声を出しながら近づいてくる人物がいた。




