17 私だってびっくりした。思わず博士の頭を連続で突いてしまうぐらいには。
大学病院の裏には、ちょうど散歩するにはうってつけの場所があった。私が初めてこの大学の研究室に来る時に、通り過ぎたあの場所だ。
ゲリラ豪雨に見舞われたとは思えないほど、空は晴れ渡っている。照りつける日差しで、地面のほとんどが乾いていた。
吹き抜ける風が緑の木々を撫でると、地面の影が小さく揺れる。いつまでもそこにいたいと思うような、爽やかで優しい空間だった。思わず気持ち良くなって、私は飛び上がっていた。
「あんまり遠くに行ったらだめだよ」
着物女に注意されて、私は少し小枝の間を飛び移っていたが、すぐに博士の頭の上に戻ってきた。着物女が私を見て、クスッと笑う。
「よっぽどそこが気に入ったのかな」
「天パのウイッグだから、もじゃもじゃ具合が、鳥の巣っぽいのかも」
「なるほど。そういうことか」
確かにツルツルの黒髪ロン毛な、着物女の頭よりは、止まりやすいかもしれない。
「そういえば、初号機の時から髪型はそのままだったな。いくらでも変更することはできるが、どうする。モヒカンやパンチパーマだってできるぞ」
「いや、このままでいいです」
二人がベンチに座ると、つないでいた手をようやく離した。お互いを見ようとはせず、風に揺れる木々を眺めているようだ。
しばらく続いた沈黙を壊すように、着物女が博士に向かって言った。
「博士、さっきはいつになく、よくしゃべったな」
「……着物姿の先輩が、想像以上に綺麗だったので、少し喋りすぎてしまいました」
着物女は動揺したのか、急に咳き込んでいる。
「接続が切れた時に倒れて、どこか頭でも打ったんじゃないのか。普段とキャラが違っているぞ」
「やっぱり変ですかね。実は接続が切れたのも、先輩の結納が今日で、いずれ大学を辞めるという話を教授から電話で聞いて、思った以上に動揺してしまった時だったので」
「そう……だったのか」
着物女は少し頬を染めている。これはひょっとして、ひょっとするのかもしれない。
「僕は義体が制御できなくなってからずっと、動かない体の中で、ぐるぐると考え続けていたら、やっと義体が復帰して。こんなに義体に戻れないのは久しぶりで。もしかしたら、もう二度と、この世界には戻ってこられないのかもしれないと、そう思って絶望の淵を覗いてきたので、ちょっと普段と違う感じになっているのは、そのせいかもしれません」
「……とにかく、無事で良かったよ」
「というか、今頃になって怖くなってきました。とんでもないことを、しでかしてしまったような気が」
「もう遅いよ」
着物女は小さく笑った。
「さっき教授に電話で聞いたんだが。大学の研究室とは別に、知らない間に企業を立ち上げて、ほかにもいくつか開発したアプリの売り上げを、プールしていたそうじゃないか。黒幕がどうのと言ってたのは、これのことだったんだな」
「詳しくは聞かされていなかったんです。ただ教授が、いずれお金が必要になるかもしれないから、準備をしておきなさいとだけ」
着物女は笑い出した。
「まったく君という人間は。私を翻弄させたら世界一だな」
「お誉めにあずかって光栄です」
「褒めてない。私は怒ってるんだ」
「どうしてですか」
「勝手なことばかりして……一つ質問してもいいか」
「なんでしょうか」
「あんなことを言った、君の真意はなんだ」
「質問の意味がわからないです」
博士は首を傾げている。
「なんであんなことをした」
「なんでと言われても。いやその、別に、先輩が困っていると思ったのでつい。迷惑だったでしょうか」
着物女は呆れたような顔をしている。
「それだけなのか」
「なにかおかしいですか」
「私はてっきり、君がプロポーズでもするつもりなのかと」
「ぷ、プロポーズ?」
博士は真っ赤になって、首を振っている。
「どう考えても、結納の席から女を奪い返すということは、普通はそういう流れになることを期待すると思うが」
「そ、そういうことは、まったく考えてなかったというか。とにかく自分を犠牲にしようとしている先輩を助けなくてはと、そればっかりで頭がいっぱいだったので」
「まぁいい。ありがとう。助かったよ。悔しいけれど、格好良かったよ、博士。これはお礼だ」
着物女は、博士の頬にキスをした。博士は驚いたように目を見開いている。
私だってびっくりした。
思わず博士の頭を連続で突いてしまうぐらいには。
「いででで」
それを見て噴き出した着物女は、自分がやったことに今頃になって恥ずかしくなったのか、少し頬を染めた気がした。
そんなに照れなくてもいいのに。ここで見ているのは私だけだ。あったとしても吹き抜ける風の視線ぐらいだろう。
「いや、こ、これはだな、欧米式のただの挨拶のようなものだ。深い意味はない」
着物女は慌てている心をごまかすように、コホンと小さく咳をした。
「なんなら実験の一環ということで、人生初のラブホテルにでも行って、そのまま続きでもするか? そういうことができるような機能もつけてあるぞ。もちろん、この着物は一度脱いだら、自力で着付けは無理だがな」
「とととんでもないっ」
「遠慮するなよ。前もって普通の服を買ってから行けば問題ない」
「遠慮とかではなくてですね」
「ならなんだ」
「そういうことは……本物の体でやりたいです」
「……なるほど。それも一理ある。良い実験になるかと思ったがしょうがない」
この女はどうしようもないほどに、研究バカのようだ。先が思いやられる。
「じゃあどうするんだ。結納を阻止されたのはいいが、あれだけ啖呵を切って、私は帰る場所がないぞ。しばらく博士の家にでも泊めてくれるのか」
「そ、それは、若干スペース的に問題があるといいますか」
「冗談だよ。ほとぼりが冷めるまで、研究室で寝泊まりするさ。そのあとは人生初の一人暮らし用の部屋でも借りるかな。実は、不動産屋さんは行ったことがないんだが」
「ずっと実家住まいの人は、そうかもしれませんね」
「やはり釣り広告というのは多いものなのか。内見というのは、わざと悪い条件のものから見せて、あとから普通のものを、さも良い部屋のように見せるという荒技を使われるものなのか」
「それはまた、おいおい説明します。なんなら実際に探すときは、ご一緒しましょうか」
「そのほうが安全かもしれんな」
この程度の知識で、本当に一人暮らしなどできるのだろうか。心配しかない。きっと博士がなんとかしてくれることを期待するしかない。
急に騒がしくなったなと思ったら、近くの大木から飛んできた小さな鳥が、博士の背後にあるベンチの背もたれに止まったようだ。
メジロというやつだろうか。抹茶みたいな体の色と、目の周りが白いのが特徴的なやつだ。
最初の一羽に続くように、次々とメジロが飛んでくる。二羽、四羽、六羽と集まってきて、それぞれつがいなのか、まったりとくつろいでいる。
こら、ここはお前たちの休憩所じゃないんだぞ。気安く博士に近づくな。
そう思いながらチチッと抗議をしたが、このメジロたちは愛を囁くことに必死なのか、チィー、チチチチッと鳴いてばかりで、こちらには見向きもしてくれない。どうもヨウムと違って、こいつらには話は通じないようである。
博士が微笑ましそうに柔らかな目線を飛ばす。
「目白押しというやつですね」
博士の周りに群がるメジロを見て、着物女が感心した様子で言う。
「メジロは警戒心が強いから、普通はここまで近づいてこないものなのだが」
「僕が人間じゃないと見抜かれてるのかもしれませんね」
博士は苦笑する。この私が見抜けなかったことを、あんな色ボケをしたメジロに見抜けるなんてありえない。そう抗議したかったが、私には無理だった。
「野生の勘というやつか。かもしれないな。でもそうやって鳥がそばにやってくるというのは……まるで『Close To You』みたいだな」
博士はスマートフォンを取り出して検索したようだ。
「カーペンターズ……ですか。先輩、結構古い曲を知ってるんですね」
「亡くなった父が好きな曲だったんだ。もちろん母も好きみたいだよ。でも私が一番好きなのは、『Top Of The World』かな」
そう言って微笑んだ着物女は幸せそうで、それでいて少しだけ寂しそうな表情を見せた。
「どちらも素敵な曲ですね」
博士はスマートフォンから、流れる曲に耳を澄ましている。
「両親が初めて出会った時に、今の君みたいに、父もベンチに座っていたらしいんだ。居眠りをしているうちに、いつの間にか、父の周りには鳥がいっぱい集まってきていて、それがまるで『Close To You』みたいだって、母は言ったんだそうだ。でも、金髪碧眼の天使みたいな姿をしている父が、こってこての関西弁でしゃべり出したから、幻滅したって、母にキレられたんだってさ」
「それはまた理不尽な」
「でも父も悪いんだよ。第一声が『何を見とんじゃ、われ』だったらしいから」
「確かにそれは、感じが悪いかもしれない」
博士は困ったように笑う。どこかで聞いたような話だなと思ったが。まさか……あの温室にいたヨウムって。
でも、いやいやいや、きっと気のせいだ。そうに違いない。
だが、『わいが愛してるんは、嫁はんだけやからな』って言っていたし、もしかしたら、死んでからもなお、愛しの嫁と娘を、そっと見守っていたのだろうか。
「おかげで、母にとって、父との出会いは、最高で最悪だったらしい。運命の出会いには程遠いよね」
着物女は噴き出すように笑う。
「それでも結婚しちゃうんだから、不思議だよな、人間って」
「そうですね。僕みたいなのが、まだこうして生活できているんですから。なんでもありですよ」
「まったくだ」
着物女は空を見上げる。
「父は、教授の教え子だったそうだ。私を授かった母のために、責任を取る形で、父は婿養子になった。母の言うように、父の決断は間違っていなかったのかもしれない。けれど私には、父が大学での研究を諦めたことを、心のどこかで後悔しているように思えてしょうがない。やはりそれは、私が研究者の立場だからだろうか」
「そうですね。でもどちらかが、正しいわけではなく、どちらの気持ちも、本当だったのだと思いますよ」
博士は優しい声で続ける。
「人は一つの人生しか歩めません。選べなかった未来を知ることは叶わない。けれど、少なくとも、自分で決めた道であるならば、その未来に責任を取ることができるのは、本人だけですから」
「そうだな」
何かを決心したような着物女の瞳は、力強く澄んでいた。
「だからこそ、私は決めたんだ。もう諦めない。博士が目覚める、その時まで」
風が強く吹いた。
メジロたちは、十分にイチャついて満足したのだろうか。木々を揺らした風に乗るように飛び立った。その行方を目で追っていると、公園の中を人影が近づいてくるのが見えた。




