16 この男、なかなかの策士である。
「なんて君は……酷いことを言うんだ」
着物女は、困惑と悲しみと入り混じった表情を見せる。
「先輩をこれ以上、縛りたくないんです。でも、もし僕が死んでも、研究データは教授に引き継いでもらって、研究は続けてください。未来の誰かのために」
「いい加減にしろっ。勝手に死ぬなんて許さない。君が死んでしまったら、研究なんて続けるわけがないだろう。君のためだからこそ、こんな面倒なことをしているんだからな」
着物女が博士の腕にしがみついた。なんとか電源ケーブルと博士の手から取り上げようと、必死に指を広げようとするが、機械の力にはかなわないようだ。
「私のことを思ってというのなら、生きろ。生きてくれ。お願いだから、ずっとそばにいて欲しいんだ。私を置いていかないでくれ」
「……やっと本心を言いましたね」
博士は小さな笑みを浮かべた。
「え?」
「だったら、僕のために研究を続けてください。僕が目覚める、その時まで」
「まさか君は……私を騙したのか」
顔を真っ赤にした着物女は、博士を突き飛ばした。私は慌てて飛び上がって、安全な場所に飛び移る。あぶなかった。巻き込まれるところだったじゃないか。
「そんなに乱暴にしたら、また壊れますよ」
床に尻餅をついた博士は笑っている。この男、なかなかの策士である。
騒動を見守っていた母親は、怪訝そうな顔をしている。
「あなたたち、一体これは、どういうことですか」
「僕だけではなく、先輩もまた、自分の人生を諦めていないということです」
「だからなんの話を」
「人生は短いんです。明日突然事故にあって死ぬかもしれない。今の時代、誰がいつ死ぬか、わからない状態になってしまった。だからこそ、誰かの研究が止まってしまったら、そこから派生する研究も、すべて消えてしまう危機にさらされています」
博士は母親の目を、まっすぐと見据えている。
「人類にとっては、ささやかな研究だったとしても、ほかの誰かの研究を支える基盤になるかもしれない。役に立つかどうかなんて、未来にならないとわからない。だからといって誰でもいい研究、やらなくてもいい研究なんて、この世にはないはずなんです」
母親の唇は震えているように見えた。本人にも何か葛藤があるのかもしれない。
「この子がお嫁にいかなければ、条件が変わってしまいます。合併ではなく、買収されてしまうのですよ。それどころか買収すら破断になれば、私たちの会社は倒産してしまうんですから」
「だったら倒産すればいいと思います」
「あなた何様のつもりですか」
博士に向かっていこうとした母親を、そばにいた運転手がなだめるように止める。
「誰かの人生を踏みにじって、生贄にしないと存続できないような会社は、滅ぶべきではないでしょうか。そもそも、そのような事態になるまで、あなたがた大人は何をしていたのですか」
「それは……」
「努力すべきだったのはあなたたちであって、それができなくて困ったからといって、その尻拭いを、自分の娘に押し付けるのは、明らかに間違っています」
何も言い返せないのか、母親は博士を睨みつけている。
「あなたがやっていることは、大昔に災害や祟りが怖いからと、何の罪もない子供や娘を生贄として殺していた、野蛮で愚かな人たちとなんら変わりませんよ」
「おい、博士、野蛮で愚かなって、ちょっと口がすぎるぞ。もうちょっとオブラートにつつんでだな……」
心配そうに見守っていた、着物女の言葉を聞かずに、博士は続ける。
「今の時代に、そんなことが許されると思っているんですか。いつの時代に生きているんですか。あなたはずっと、自分の会社が傾いたら切り札に使うために、政略結婚のための道具を育てていたのですか。違うでしょう。先輩は人間です」
博士は怒っているような、悲しそうな不思議な表情を見せた。
「買収されなくてはならないほど、大幅に傾いている会社であれば、死に物狂いで立て直すように頑張るべきでは。それすらできないというのであれば、無能を認め、責任を取って、おとなしく買収されるなり、倒産するなりするべきです。それが自然の摂理ではありませんか」
かろうじて母親は、押し殺したような声で答える。
「口で言うことは簡単ですが、そんなことができていれば……今こんなことにはなってないんですよ」
「会社を傾けた責任を、娘の人生を台無しにして乗り切ろうとする人に、親と名乗る資格なんてないと思います」
部屋がノックされ、運転手が外に様子を伺いに行った。
「……奥様」
戻ってきた運転手に、耳打ちをされた母親は、目を見開いた。何か非常事態のようだ。運転手がスマートフォンの映像を見せている。
音声を大きくすると、とある会社の脱税が明らかになって、大騒ぎになっているようだ。合併予定だった会社は、別の会社から資金調達をしたために、同社との合併は立ち消えになったというニュースが流れている。
着物女も隣から覗き込み、目を輝かせて、画面を見入っている。
「お母様、これで結納の必要はなくなったようですね」
どうやら騒ぎになっているのは、結納をするはずだった相手のいる会社のようだ。
母親はわざわざ聞こえるように、大きなため息をついた。
「そのようですね。ですが、何がどうなっているのやら」
「私……決めました。家を出ることにします」
「は? あなた、なにを」
うろたえる母親とは対照的に、着物女は凛と背を伸ばし、前を向いた。その佇まいは美しく優雅だった。
「私は自分の人生を、自分で選ぶことにしました。これからはお母様のお世話にはなりません。だから私に、好きなように生きる権利をいただけませんか」
「一人で暮らしたこともないのに、何をあなたは」
母親の言葉に、着物女はじっと目をまっすぐに見据えて答えた。
「したことがないのなら、これからすればいいだけでは。お母様だって、この家を出たことすらなかったのでしょう。誰にだって初めてはあります」
母親は少したじろいだように、顎を引いた。
「お父様が死ぬ前に言っていました。『ほんまにやりたいことをやらんと、お前の人生は、他の誰かがやってくれるわけやないんやで』と。その本当の意味が、ようやく今わかった気がします」
「なら、勝手になさい。あとで泣きついてきても、知りませんから」
しょうがないという表情をした母親は、部屋を出て行こうとした。その背中に着物女が声をかける。
「これからは、お父様の温室の水やり、お願いできますか」
「……あれは私が、あの人のために作ったものです。言われなくても世話をしますよ」
その言葉に着物女は、ホッとしたように微笑んだ。少しだけ下を向いて、しばらく逡巡してから、母親に質問する。
「あの……お父様のことを、生贄だなんて言ってしまって、ごめんなさい」
母親は静かに首を横に振った。
「あの人の未来を奪ったのは、ある意味、本当のことですからね。でも一つだけ言い訳させてちょうだい」
「言い訳……ですか」
「あなたが私のお腹に宿ったのを知った時、あの人は本当に嬉しそうだったの。全ての夢を捨ててもいいと、そう決意するほどに、あの人はあなたが生まれてくるのを待ち望んで、私たちと生きる新たな道を選んだのだと思いますよ」
そう言い残して、母親は部屋を出て行った。ちらりと見えた母親の横顔は、穏やかで優しいものだった。後に続いた運転手が深々とお辞儀をする。
「困ったことがあれば、いつでもお申し付けください。もちろん、お嬢様を不幸にするようなことがあれば、私は許しませんので」
博士をちらり見てから、運転手は出て行った。
病室に残されたのは、博士と着物女と私だけになった。
博士は、着物女に目をやった。
「せっかくおめかししたのに、無駄になっちゃいましたね。もったいないから、少し散歩でもしませんか」
博士は着物女に向かって、手を差し出した。着物女は小さく笑う。
「エスコートをするつもりなら、せめて服を着てから誘うべきだったな」
「あっ」
この男がスマートなエスコートをするというのは、無理な話だったようだ。だがそれがまた、博士らしくて良いのかもしれない。
博士は慌ててシャツを着た。その間、私は飛び上がり、博士の頭の上に避難した。もさもさとした髪の毛の中は、ワラで出来た巣のようで、なかなか居心地が良い。
「私は、教授に連絡をしてくるよ。出先でこちらに向かっているそうだが、きっと君のことを心配しているだろうから。エスコートしてもらうのは、その後でも構わないか」
博士が優しく微笑んで、「待ってます」と答えると、着物女もまた、穏やかに微笑んでから病室を出て行った。
待っている間に、着替えを終えた博士は、本当の体をじっと見下ろした。機械の体の博士は、ベッドに横たわる自分の頭を、そっと撫でる。
「これからも頑張るから。そっちの体も頑張ってくれよ」
私もエールを送るつもりで、チチッと鳴いておいた。
しばらくして着物女が戻って来たようだ。
「では、近所を散歩するぐらいしかできませんが、エスコートさせていただいてもよろしいでしょうか、お嬢様」
「お嬢様は余計だ」
博士が手を差し出すと、着物女は優しく笑みを浮かべてから、その手を取った。




