12 もう二度と博士と会えないんじゃないか。
日も陰ってきて、昼間に比べれは、少しは涼しくなったとはいえ、まだまだ暑い。またうろうろと動き回る羽目になるとしたら、私の体は持つのだろうか。
だが心なしか、博士の運び方も上手になってきて、揺れも少なくなっている。自分が空を飛んでいないのに、風景が勝手に移り変わるというのも、慣れると良いものである。
博士が路地裏を抜けて、大通りに出た。あれから黒服女が乗っていた黒塗りの車も見当たらないようだが、さすがに諦めて帰ったのだろうか。
「さてどうしたものか。やっぱり先輩に頼むしかないか」
博士はスマートフォンを出して電話をかける。だが、なぜか呼び出し音が背後から聞こえた。博士が振り返ると、その音が切れたようだ。
「や、やあ。奇遇だな、博士」
黒服女がぎこちなく笑った。顔が引きつっている。どうやら黒塗りの車で尾行を失敗したあとも、車を降りてずっとコソコソとつけ回していたようだ。きっと博士が部屋から出てくるまで待っていたのかもしれない。
猫宮といい黒服女といい、博士の周りにいる女は、奇遇ではない状況で、奇遇だというのが好きなのだろうか。
「先輩、ちょうど良いところに」
どうやら博士は、なぜこんなところに黒服女がいるのか、あまり疑問を感じていないらしい。むしろ渡りに船とでも思っているようだ。さすが鈍感な男である。
「シロを預かってもらえませんか。合宿が終わるまで」
博士は私が入った鳥カゴを、先輩の前に差し出す。私は一体あと何回、あちこちに引き渡されたらいいんだろう。
もちろん斉藤のように、嘘をついて相手を騙すようなやり方を、博士がすることはないだろうから、昨日ほど自分の身の上を心配してはいないが。
黒服女は困惑した表情で、博士を見た。
「それは別に構わないが。その……なんで博士は、こんなところにいるんだ」
「なんでと言われましても、合宿に行く予定ですが」
「一緒に帰った子は、どうした」
「猫宮さんですか。部屋にいますよ」
要領を得ない返事ばかりに、黒服女はもどかしそうに質問する。
「だから、その子が部屋にいるのに、どうして博士がここにいる」
「今日は泊めて欲しいと言われたので」
「と、とと泊めて欲しい?」
博士の答えを聞くと、黒服女は口をパクパクさせている。何かを言おうとして失敗して、空気でも飲み込んでいるのだろうか。やっとのことで質問する。
「まさか……承諾したのか」
「はい」
黒服女はびっくりしすぎて咳き込みだした。
「先輩。大丈夫ですか。落ち着いてください」
さすがにそんなことを聞いて、落ち着いていられるわけがないだろう。
「博士はシロを私に預けて、二人きりになるつもりか」
「二人きり? なんの話をしてるんですか。僕はそのまま合宿に行きますよ」
黒服女は眉間にしわを寄せる。
「彼女はどうするんだ」
「部屋を貸しただけです。食材まで用意して、泊めて欲しいなんていうから、変だなとは思ったんですけど、たぶん家出でもしたのではないでしょうか」
「家出?」
「夏というのは開放的な気持ちになりますし、衝動的に家出しちゃっても、なんとかなりそうな感じがありますから。若気の至りというやつですかね。僕にも経験がありますし」
黒服女はようやく理解したようだ。弾けるように笑い出した。
「何がおかしいんですか」
「やっぱり、博士は博士だなと思っただけだよ」
黒服女は笑いすぎて、目尻に漏れていた涙をふき取ると、博士から鳥カゴを受け取った。私を見て少し笑った気がする。
「シロのことはまかせてくれ。博士が戻って来るまで、ちゃんと預かっておくよ。なんなら温室で羽根を伸ばしてもらうから、安心してくれていいよ」
女子高生のことの誤解が解けて、ほっとしたのだろうか。いつもより柔らかい表情をしていた。この女がいい表情をするのは、博士の前だけなのかもしれない。
「で、博士は朝までどうするつもりだ」
「サークルのみんなが集まるまで、大学のベンチで寝ようかなと」
黒服女はキッと睨みつけるように、博士を見据える。
「また博士はそうやって無茶なことを。精神的に疲弊した状態で、ボルダリングなんかしたら危険だろ」
「先輩、大丈夫ですよ。寝袋もありますから。どうせ合宿先でも野宿ですし」
黒服女が博士の腕を掴んで歩き出す。
「ダメだ。うちに来い。離れが空いている。そこで休んでから行けばいい」
「でも、これ以上迷惑をかけるわけには」
博士は抵抗する。
「迷惑なんかじゃない」
「先輩は心配しすぎなんですよ」
黒服女は足を止めた。博士を見つめる黒服女は、とても悲しそうな表情をした。
「心配ぐらいさせろ。そのぐらいしか、私にはできないんだ」
博士が黒服女を、安心させようとしたのか、優しく微笑んだ。
「本当に大丈夫ですから」
「君はあの日も、そう言ったんだ」
「あの日?」
博士は怪訝そうな表情で女を見る。黒服女は掴んでいた博士の腕を離した。
「もういい。勝手にしろ」
背を向けて一人で歩き出す。
黒服女の前に黒塗りの車が止まった。扉が開くと白い手袋をした運転手が言った。
「お嬢様、お約束の時間は、とうにすぎております」
「わかってる。キャンセルの連絡はしてあるよ」
そう答えた黒服女は、後部座席のシートに鳥カゴを先に乗せた。
「先輩、あの」
「心配するな。シロはちゃんと預かる。合宿が終わったら引き取りにこい。住所はメールしておくから」
「わかりました」
「最後に忠告しておく。どんなに大事なものでも、自分の命よりも大切なものはない。登っている最中に、余計なことは考えるな。絶対に危ないことはしないように」
「……はい。ではシロをよろしくお願いします。じゃ、またあとでな、シロ」
博士は少しだけ心配そうな表情で、私に向かって小さく手を振った。
黒服女は黒塗りの車に乗り込む。博士の前から車が遠ざかっていく。運転手が尋ねた。
「よろしかったのですか、お嬢様」
「いいんだ、もう」
もう二度と博士と会えないんじゃないか。なぜだかわからないけれど、そんな胸騒ぎがして、私はチチッと鳴いた。




