10 恋する女の思考回路は恐ろしい。
「猫宮さんは文鳥は好きだったりする?」
博士の口から『好き』という言葉が出て、猫宮は目を見開いた。
主語が人間ではなく文鳥であるとはいえ、好きという単語にドキドキしていることだろう。私だって『文鳥は好き』という単語にドキリとした。
「か、かわいいとは思いますけど、私はどちらかというと、小さい頃から猫を飼ってたので猫のほうが好きかな」
「へぇー、奇遇だね。僕も実家で猫を飼ってたんだ」
「そうなんですかっ」
猫宮の目がキラリと輝く。
「もう死んじゃったけど」
「そう……なんですか」
猫宮が頬に手をやって、悲しいですぅというアピールをしている。いちいち動きがアイドル臭い。見た目もそうだが、斉藤が好きな推しメンに動きまでそっくりとは。実に忌々しい。
「結構長生きしたから、大往生だったと思うよ。最後は眠るように亡くなったし」
「そうなんですか」
同じ単語の『そうなんですか』を声色だけで、いろんな感情を表現できるとは、猫宮もなかなか大したものである。なんなら女優でも目指せば良いのではないだろうか。
「去年、兄さんが結婚したんだけどさ、拾った猫を飼いだしたみたいでね。これがまた独創的な顔をした猫でさ」
博士はスマートフォンを操作して、微妙にブサイクな顔をした猫の写真を見せた。もうちょっと良い写真はなかったのかと言いたくなるぐらい、口が半開きだったり白目をむいていたり変な写真ばかりである。
これを撮影した人間は、絶望的なまでにカメラマンとしてのセンスがなさそうだ。
そういう意味で言えば、斉藤は写真を撮ることだけは上手だった。あまり褒めたくはないが、やはりアイドルに気に入ってもらうためなら、好きこそ物の上手なれということで、技術も向上するのだろうか。
「ブサ……か、可愛い子ですね」
猫宮なりに、言ってはいけないワードを神回避したようだ。
「私も飼い猫が死んでから、しばらく飼ってなかったんですけど、やっぱり寂しくて。最近また猫を飼い始めたんです」
「へぇ、そうなんだ」
猫宮は、白猫のチャームがついたネックレスを指差した。
「これ、その子にちょっと似てたから。可愛いでしょ。お気に入りなんです」
博士は猫宮のネックレスをじっと見つめた。たぶん本人は白猫のネックレスだけを観察しているつもりなのだろう。
だが猫宮からしてみたら、胸を凝視されているように思えるのかもしれない。意識しすぎて顔を真っ赤にしている。自分から誘うようなことをしておいて、うぶなのか積極的なのかはっきりしろ。
「なるほど。デフォルメの仕方が素晴らしいね。リアルすぎず崩しすぎず、プロの仕事という感じがする」
まるで日本古来な匠の技を解説しているかのような、堅苦しい感想はなんなのだろうか。ネックレスの向こう側の、柔らかい肌色は見えていなかったようだ。猫宮が赤面していた意味が、まったくないようで幸いである。
「今度アプリの正式リリースをするときに、解説キャラクターを動物に変更しようかなって考えてたんだけど。やっぱり猫のほうがいいのかな」
博士が腕組みをして悩んでいるようだ。
さっきから私が黙って聞いていたら、やたらめったらと鳥にとって、天敵である猫の話で盛り上がられるのは、なんだか不愉快である。
もうそろそろ終わりにしていただきたい。私はブランコから宿り木に向かって、スタッと飛び立ち、博士の方を見ながら、チチッと鳴いて不服を申し立てる。
博士が気づいてくれたようだ。カゴの隙間に指を入れてきた。私はここぞとばかりに、博士の指のそばに寄って、頭を擦り付ける。
「シロ、もしかして猫じゃなくて、自分をモデルにしろっていうアピールなのか?」
博士が笑っている。なかなか良い笑顔である。
猫宮が思いついたという表情をして、ポンと手を叩いて言う。
「いろんなキャラクターを選べるようにしたら、いいんじゃないですか。猫だけじゃなくて、文鳥や犬も、人間のちびキャラみたいなのでもいいと思いますし」
「なるほど。先輩にも相談してみます」
猫宮の表情が硬くなった。
「先輩って、さっき正門で一緒だった方ですか」
「そう。このアプリの基礎を作ったのは先輩なんだ。実は結構すごい人でね。幼稚園の頃からプログラムを組み始めて、中学の時にはすでに……」
猫宮は途中で遮った。
「先生って、大学では博士って呼ばれてるんですね」
博士が黒服女を褒めようとしていたのを、聞きたくなかったのだろうか。
「……うん。本当は『ひろし』って言うんだけど、昔からのあだ名なんだ。斉藤っていう幼馴染みがいてね、僕のこと最初に『はかせ』って間違えて呼んだのがきっかけかな」
どうやら斉藤のミスから始まったあだ名らしい。昔から残念な男である。
「でも『はかせ』って呼ばれると、どうしても物知り博士みたいに思われて、困ることも結構あったけど」
「でも先生、頭いいじゃないですか」
博士は照れくさそうに頭を掻いている。
「そうでもないよ。僕は固有名詞があまり覚えられない体質なんだ。映像で記憶するタイプのせいなのか、言葉の暗記がメインな教科は、あんまり得意じゃなくてね。猫宮さんに教えてたのも数学とか、覚えるものが少ないものがメインだったでしょ」
「確かに。言われてみればそうでした」
「ぼんやりとしたイメージでも、なんとかなるマークシート方式なら大丈夫だけど、書き取りが必要な科目は壊滅的だったり。ちゃんと覚えようと思ったら、人の何倍も何十倍も時間がかかってしまうというか。ちょっと人より、記憶力が気まぐれなんだと思う。小さい頃はずっと、なんでもかんでもメモしまくってたぐらいだし。マークシート方式がない時代だったら、大学にも入れなかったかもしれない」
「意外です。そんな風に見えないのに」
猫宮は信じられないというように、口元に手を当てて博士を見た。
「小学生の頃から、外部記憶装置を脳に直接繋げるシステムが、早く実現されないかなって願ってたぐらいだしね」
「SFの世界みたいですけど、さすがにそれはちょっと怖いかも」
猫宮は肩をすくめてみせた。
「でも今のスマートフォンは、直接脳に繋がってないだけで、意味合い的には、かなり外部記憶装置なんだけどね。そのおかげで、さらに人類は記憶力を、なくしていってる気がしなくもないけど」
「確かに漢字とか書けないのが増えました」
「そう。そういうやつ。でも僕の場合は、元からひどいからあんまり変わらないかも。一年前にボルダリングをしてるときに、手を滑らせて頭を打って、その後遺症で記憶が抜けてる時期もあるぐらいだし」
「ボルダリングって、そんなに危険なんですか」
「いや、僕がうっかりしてただけだよ。つけてたミサンガが切れて、無理やり取りにいって、マットのないところに落ちたらしいんだけど。記憶にないから覚えてないっていう」
「大丈夫なんですか」
「検査とかしたけど、体は……まぁ、大丈夫だったよ。覚えてないのは、事故の前日ぐらいだけだし」
猫宮がホッとしたような表情をした。だがふと何かに気づいたようだ。机の上に切れた赤いミサンガが置いてある。
黒服女が腕にしていたミサンガと似ている気がするが、なにか関係があるのだろうか。
「そのミサンガって、もしかして大事な人からもらったものですか」
「それがちょうど記憶をなくしてるあいだにもらった物らしくて、よくわからないままなんだ。誰からもらったか確認しようにも、ミサンガを取ろうとして落ちたから、他の人にはちょっと聞きづらくて」
博士は苦笑いをした。
「それは……辛いですね」
猫宮が言ったのは、博士が辛いという意味なのか。それともあげた人が忘れられているということと、プレゼントしたミサンガのせいで、博士が事故を起こして記憶を失ったということが辛いという意味なのか。きっとどちらもなのだろう。
少し暗い雰囲気になったことを気にしたのか、博士はおどけるように言った。
「実は記憶力が残念なせいで、似てる商品を間違えて買っちゃうことはしょっちゅうなんだよ。歯磨き粉とかシャンプーとか、商品がリニューアルされて、パッケージがガラッと変わったら、それだけでわからなくなるしね。使ってから、なんかこれ違うなってなるとか。商品名をきちんと覚えてない、僕が悪いんだけど」
「結構先生って、ドジっ子なんですね」
猫宮にとっては、惚れた相手なら残念な報告をしても、萌えポイントになってしまうようだ。恋する女の思考回路は恐ろしい。
博士は頭をかきながら言った。
「いろいろやらかしてる歴史を考えると、ドジっ子っていう可愛いレベルじゃないんだけど。とはいえ、小さい頃から記憶力が乏しいおかげで、いかに少ない記憶容量で最大の成果をあげるかっていう、試行錯誤をする癖は培われてきたかな。そういう意味では、研究者としては良かったのかもしれない」
スマートフォンをじっと見ながら博士が言った。
「将来的には僕みたいに、記憶力が弱い人を支援するシステムが、作れたらいいなとは思ってる。その実験がうまくいけば、いつかは一般の人も、脳にチップを埋めたりして、普通に拡張記憶を使う時代になるかもしれないね」
「それって、ロボットとかアンドロイドみたいに、みんなが機械人間になっちゃうってことですか?」
「機械人間……か」
博士は少しだけ困ったような顔をした。
「さすがに全員がってことはないと思うけど、徐々にそういう時代がくる可能性もあるかもねって感じかな」
「脳にチップとかなんか怖そうだし……私はちょっと、やらないでもいいかなとか」
「テスト勉強しなくて、よくなるかもしれないよ」
「それは……ちょっと……うーん」
猫宮はいろんなものを天秤にかけて、悩んでいるようだ。
「昔はありえないと言われてたようなことが、科学が発展して、どんどん機械に置き換わってることは、すでにたくさんあるわけで」
「それはそうですけど」
「工業製品だけじゃなく、加工食品とか、物を作るという作業のほとんどは、今はもう機械がなければ立ち行かないところまできているわけで」
「確かに、世界中から工場がなくなったら、すごい困るとは思いますが」
「昔は人間にしか無理だと思われていたような、弁護士や医者の仕事ですら、部分的にはAIのほうが、優秀だとする研究も出てきているわけだしね」
「だから人間も、いずれ機械に置き換わっちゃうってことですか」
「きっと人間だって、その流れから逃れることはできないと思うよ」
寒気でもしたのか、猫宮は自分の腕をぎゅっと抱きしめている。
「でも人間というのは、何かを失った時のほうが、強かったりするからね」
「失った時のほうが強くなる?」
博士が小さく頷いた。
「誰だって、手にしているものが多すぎると、新しく何かを手に入れようと思わないだろう」
荷物が大きすぎると、動けなくなるということだろうか。
「でも人間だけができると傲慢に考えていたことを、どんどん機械にまかせることで、本当の意味で、人間だけができる新しいことが増えるかもしれない。その未来のために、研究者というのはいると思うんだ」
博士の目はまっすぐに、ここではないどこか遠い未来を見つめてるみたいに、輝いている気がした。
「今すぐに誰かを救ったり、大それた発見なんてのはできないかもしれないけど。いつか誰かが、新たな発見をするための、小さな道筋の一つを作るぐらいなら、できるかなと信じてるんだ。だから先輩にもいろいろ協力してもらってるんだけど……」
博士がまた黒服女のことを口にすると、猫宮の目の色が変わった。
「先生は……その先輩のこと、どう思ってるんですか」




