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恋愛  作者: 月沢あきら
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第5回

 朝、克樹は携帯の目覚ましで目を開けた。考えてみればこの電子音を聞くのも久しぶりだ。病院ではアラームをかける必要がなかったのだ。

 見慣れた天井。見慣れた部屋。克樹は布団をめくるとそろそろと足を下ろした。左腕の固定は小さなものに変わっていて、痛みもほとんどない。だが足はまだ痛む。部屋を見回した。一昨日は違和感のあった部屋だが、一日過ごしただけで自分がずっとここで暮らしてきた事を実感できた。

 二日前徳島から帰ってきたばかりなのに、東京での生活が馴染むと徳島での出来事は急激に薄れていった。

 思い出せていなかった会社や美沙の事が霧が晴れるように鮮明になってくるごとに、病院でのことが実感の伴わない夢のように感じられた。

 だが…

 理恵子のことだけは別だった。最後の夜の理恵子の言葉。そして、彼女の唇。

 彼女は今どうしているだろう。

 克樹は頭を降ると、ベッドの脇に置いていた松葉杖を手に立ち上がった。会社は後三日休暇をもらえているが、今日は警察の現場検証に立ち合わなければならない。不自由な身体を窮屈に動かし、時間をかけて着替えると部屋を出た。

 リビングに降りると、静子がテレビを見ながら待っていた。朝食を済ませ、静子とともに家を出る。

 克樹の携帯電話が見つかった空き地とその向かいの駐車場は、家から五分ほどの距離にある。最寄り駅との中間に位置している。

 克樹達が角を曲がると、そこにはライトをつけていない状態のパトカーが止まっていた。いつもは人通りも少なくひっそりした通りが今日はものものしさを発している。

 二人に気づいた三十過ぎくらいのスーツ姿の男が頭を下げてきた。浅黒い肌の長身の男性で、いかにも武道も得意という身のこなしに、意外なほど端正な顔立ちをしている。彼の隣にいる、もう少し若くてさらにがっしりした男も会釈してきた。

「おはようございます。北山克樹さんでしょうか?」

「はいそうです」

「h城内署の上田です。今日はよろしくお願いします」「白川です」

克樹も硬い顔で頭を下げた。上田は安心させるように笑いかけると「よろしく」と頭を下げた。克樹と静子を交互に見る。

「徳島から帰る前に採取させていただいたご両親の指紋ですが、眼鏡についていたものとは一致しませんでした。犯人のものである可能性が高いと思われます。前科者と照合してみましたが、該当するものはありませんでした」

「そうですか」

横でメモを出して聞いていた白川が

「徳島県警から事情は聴いています。事故当時の記憶がないそうですね。その後記憶はどうですか?何か思い出せましたか?」

「ええ。いくらかは。今日、この場所を見て、また目に蘇ってきたことがあります」

 上田はひとなつっこそうな笑顔を見せた。精悍な顔立ちには少々不似合いな人好きのする笑顔だった。

「それは良かった。ではこちらへ」

「あの。今日は鑑識の方はこられないんですか?」

「事故から時間が経っているので、鑑識がきても証拠になるものは見つけられないだろうと。あ、でも安心して下さい。Nシステムなども当たっていますので。犯人は必ず逮捕しますよ」

 克樹は静子に一人で大丈夫だと告げると上田の後についていった。静子は幾分残念そうに振り返りながら帰っていった。

 上田は狭い範囲を歩き回り、克樹の携帯が落ちていた位置やタイヤのブレーキ痕などを説明した。

「ただブレーキ痕と言っても僅かなもので事故があったと認められるほどのものではありませんでした。私達が来た時には消えていましたので、高木美沙さんの撮った写真で確認させてもらったのですが。ですから、この現場から犯行が行われた車などを特定する物証は出ていません。届けがあった時点では事件性は薄いという判断だったのです。初動捜査のミスです。申し訳ありません」

上田は深々と頭を下げた。横にいた白川もそれに倣った。克樹は慌てて手を振った。

「そんな!上田さん達のせいじゃありませんんから。頭を上げて下さい」

上田が顔を上げると

「それで僕は何をすればいいんですか?」

「当日の状況を、思い出せる限り詳しく話していただけますか?」

克樹は唇に手を当て、しばらく考え込んだ。

「僕は家を出て駅に向かっていました。彼女に…高木美沙さんに会いに行こうとしてたんです」

駅の方角を指差した。上田は首を傾げた。

「その日、会っていたと聞きましたが」

克樹は照れて笑った。

「そうです。翌日、出張で早朝に家を出なければいけなかったので、早く帰ってきたんですが、次の日から何日か会えないと思ったら、また顔を見たくなって」

上田は微笑ましそうに聞いていた。

「彼女の家は駅三つなので、ポケットの小銭で足りると思って携帯だけ持って家を出ました。それでこの辺りまで来て、美沙に電話しようと携帯を出したんです」

上田は克樹の言葉を手を挙げて制した。

「詳しくお願いします。実際携帯を出したのはどの辺りですか?」

「ええと」克樹は辺りを見回した。「この辺だと思います」

白川が写真を撮った。「それで」

「それで発信履歴の美沙の番号を出して。そしたら右側に光が」

「駐車場からですね」

「ええ。でも僕も携帯を見ていたんで、車がどっちに行くか見てなくて。とりあえず端に寄ったつもりだったんですけど」

「どんな車だったか思い出せますか?」

克樹はまた少し考えた。

「大型のトラックだったと思います。でも車種とかはわからないです」

「ここの駐車場にはよくトラックが止まっているんですか?今日は止まっていないですが」

「どうだったかな。あまり意識して見たことがないのでわからないです」

「トラックの色とか書かれている文字とか、何か覚えていることはありますか?」

克樹は目を閉じて考えると

「全体的に白っぽい感じで、銀色もあったかな。荷台部分に字は書いてあったと思いますが覚えていません」

二人はメモを取りながら聴いていた。

「それでトラックが来て、あなたはどうしたんですか?」

「慌てて飛び退きました。こっちからこう」

指で示しながら「文字通り、ジャンプして後ろに下がったんです」後ろに飛びすざる真似をした。

「でも、よけた方向に突っ込んできたんです。で、結局フロント部分に当たって。たぶんちょうど飛び退いた時に衝突したんですかね?飛んできたボールを打ち返すみたいに、あまり抵抗なく飛んだ感じがします」

反対側の空き地の金網を指差した。

「それで金網にぶつかったと思います。ん?金網ってぶつかったって言うのかな?まあいいや。金網がたわんだ感触が残っています」

上田は頷いた。目測で距離を見て「じゃあ飛んだといっても2メートルくらい?」

「たぶん。トラックもスピードは出ていなかったんです。でもぶつかると思った瞬間にスピードが上がった気もしますが、気のせいかもしれません」

「ブレーキとアクセル踏み間違えたんですかね?」白川が言った。

「そうかもしれないな」

「携帯電話が落ちていたのもこの辺りだったと拾得者が証言していますし、整合性はありますね」

「ああ」上田は短く応えると克樹に先を促した。だが克樹は首を振った。

「ここまでです。徳島県警の方にも話しましたけど、次の記憶は脇と足を抱えられて投げられる感触で」

「そうですか」

「すみません」

「北山さんが謝られることじゃないですよ。色々情報ありがとうございました。これでかなり絞り込めます。犯人逮捕も時間の問題でしょう」

「こんな話で役に立ちましたか?」

上田は安心させるように笑った。

「もちろん。まだ怪我も治っていない時に無理をお願いしてすみませんでした。またお話を聴かせて頂くことがあると思いますので、よろしくお願いします。何か思い出したりしたことがあればご連絡下さい」

胸ポケットから名刺を出した。克樹はそれを受け取るとポケットにしまった。

「今日はありがとうございました。お送りしましょう。どうぞ」

上田はパトカーを指したが克樹は辞退した。

「すぐそこですから」

上田は克樹の足と松葉杖を見た。「しかし。会社もまだ休んでらっしゃるとか」

「大丈夫です。来週には出社しますし。慣らしておかないと」

「そうですか。ではこれで」

男達はパトカーに乗り込み去っていった。遠ざかる後ろ姿を見送ってから克樹は歩き出した。



 その日の夜、克樹は駅前の喫茶店で待ち合わせをしていた。チェーン店のコーヒーショップではなく、昔ながらの喫茶店である。普段こういう店には入ることはないが、松葉杖で、いつも行く通路の狭い席の間隔の近い店に行くのは気が引けたのだ。入口からすぐの四人掛けのテーブル席に座り、コーヒー専門店らしく意味もわからずキリマンジャロを注文する。それから携帯を出してキリマンジャロを検索した。ざっと目を通すと携帯ポケットに入れ、鞄から文庫本を出して読み始めた。『月は無慈悲な夜の女王』ハインラインを読むのは二冊目だ。最初に読んだ『夏への扉』が面白かったので読んでみようと思ったのだ。待ち合わせの時間まではまだ少しある。克樹は一行目から物語の世界に引き込まれていった。一段落読んだところで顔を上げ、店内を見回す。店には克樹の他に二人しか客がいない。カウンター席の中年の男性は一心不乱にカレーを口に運んでいる。奥の隅に座っているもう一人の男性は煙草をふかしながら携帯を操作し続けている。昨日克樹がここに来たのも同じような時間帯だったが、同じようにひっそりしていた。駅前なのにこんな状態で商売は成り立つのだろうか?と昨日と同じことをまた考えた。

 一昨日、東京に帰ってきた日。

 夜、かなり遅い時間になってから美沙は克樹の家を訪れた。月末の業務で残業があったのだと遅い訪問を北山夫妻に詫びた。そして改めて克樹が無事帰ってきたことを喜んだ。慌ただしく美沙は帰って行ったが、翌日仕事が終わってから会う約束をした。

 昨日、同じこの店で美沙と会った。昨日はここでお茶を飲んだだけで別れたが、今日は二人で食事に行く約束をしている。美沙は逢えなかった時間を埋めようとしているかのように、毎日会いたがった。そして病院でのことや事故のことなど、ありとあらゆることを質問してきた。克樹は思い出せる限り詳細に話した。時間はあっという間に飛び去っていった。

 ドアを開けると鳴るベルの音で克樹は顔を上げた。笑顔の美沙が手を振っている。ベストに蝶ネクタイのマスターが水を運んでこようとしたが、克樹は「すみません。出ます」と伝票を持って立ち上がった。美沙は克樹の手から伝票を取るとレジでマスターに渡した。克樹はその間に本をデイバックにしまい、背負うと松葉杖をついて外に出た。「これ」会計を済ませて出てきた美沙にチノパンのポケットから出した五百円玉を渡そうとしたが、美沙は首を振った。「次で奢ってね」

 二人でゆっくり歩き出す。すぐ近くのチェーン店の居酒屋に腰を落ち着けると、待ちかねたように美沙が口を開いた。

「どうだった?今日の現場検証」

克樹は笑った。

「今日はその話から?その場に行ってみて、いくつか思い出したことはあったんだけど。どうだろう?役に立ったのかな。刑事さんは、だいぶ絞り込めたから犯人逮捕できるだろうって言ってくれたけど」

「思い出したことってどんなこと?」

「白っぽいトラックと衝突したってこと。宙に浮いた感覚もあった」

 生ビールのジョッキが二つ運ばれてきた。乾杯をして飲む。冷えたビールが喉を通過していった。

「うまい」

身体が活性化される気がする。「久しぶりだからよけい美味い」

克樹は一気に半分ほど飲み干した。付き出しの枝豆にも手を伸ばす。

「それで?他には何か思い出した?」

克樹は首を横に振った。「思い出したのはそれだけだよ」

 刑事達の行動や会話を話した。美沙は身を乗り出して聴いていた。

「本当にサスペンスドラマみたい」

「俺もそう思った。刑事ドラマみたいだって」

二人で笑う。美沙は唐揚げを頬張ると「でもどうして?」と訊いた。

「何が?」

「どこに行こうとしていたの?」

「え…」豚キムチを取ろうとしていたの手が止まった。ふいに理恵子の顔がよぎった。言い淀んでいると

「それは覚えていないの?」

「いや」言葉を切り、息を吸い込む。

「美沙に会いに行こうとしていたんだよ」

「え?」

「次の日から出張だっただろ?何日か会えないんだと思ったら、また顔が見たくなったんだ」

 目を逸らして言うと照れて笑った。だが心の中に痛みがあった。美沙はテーブルに乗せていた克樹の手を取った。克樹が手を抜こうとすると、握った手に力を込めた。

「好き。大好き」

「美沙…」


 美沙は家まで送るという克樹を制し、身体が心配だから、と逆に克樹の家まで一緒に帰った。角を曲がると家が見えるというところまで来ると足を止めた。

「じゃあここで」

「ありがとう。気をつけて」

「ねえ、月曜日から普通に出社するんだよね?」

「ああ。長い間休んでたし、足はまだちゃんと動かせないし、色々大変だろうな。でも、籍があって良かった。美沙が力になってくれたおかげだよ。ありがとう」

美沙は首を振ると克樹の肩に頭をもたせかけた。

「信じてたから。克樹が私に何も言わずにいなくなったりするわけないって。だから絶対事件か事故に巻き込まれたんだって、信じてたから」

克樹は右手で美沙の頭を撫でた。克樹さん、と呼んでいた美沙だったが、この二日間の間にさん付けではなくなっていた。それもまた距離を埋めようという心情の表れかもしれなかった。しばらくそうしていた手が止まった。美沙は顔を上げた。「克樹?」

克樹は遠くを見ていた。

「不思議な目に遭ったなあって。幾つもの偶然や、もしも…みたいな事が重なって、今までと全く別の世界が目の前にあって。起こったことも不思議だけど、それから三週間でまた日常に戻ってくるって事も不思議だなって」

「そうだね」美沙も感慨深げに言う。

克樹は感傷的な気持ちを振り払うように「さあ、月曜日からはどっぷり現実を見なくちゃな」と笑った。

「うん。休んだ分働かないとね」

「今までより一時間は早く家を出ないといけないな。何をするのにも時間がかかるから」

足を見て言った。

「そうね」

「じゃあ。また明日」

 歩き出そうとした克樹の手を引いた美沙はそのまま腕を克樹の首筋に回した。目を閉じて克樹の唇に唇を重ねた。克樹も美沙の背中に手を回す。長い間そうしていたが、やがて腕をほどくと「おやすみなさい」と駆けて行った。残された克樹は美沙の暖かさの余韻に浸りながら家に帰った。



     ▪



 月曜日。朝、目を覚ますと肌寒く、外はまだ暗かった。季節は秋から冬に移ろうとしている。克樹は久しぶりにワイシャツに袖を通した。襟元は窮屈で動きづらかったが、その感覚は働くのだという意識を覚醒させた。松葉杖でのラッシュは厳しいだろうと一時間早い電車に乗る。六時台前半の電車は流石に空いていたが、座れるほどではなかった。克樹は最寄り駅の降り口に近いドアの所に立った。いつも、通勤電車の中では文庫本を読んでいるが、松葉杖を持って本を読むのは厳しい。とはいえ、音楽を聴く習慣もないのでイヤホンもない。克樹はぼんやりと窓の外を見ていた。そういえば、通勤電車の車窓を見るのは、面接の時以来かもしれない。初めて行く会社の面接で、緊張して本を読む所ではなかった。

 懐かしい事を思い出しているうちに目的地に着いた。松葉杖での移動は想像以上に大変だった。まだ骨折が完治していない左腕も痛むので、身体のあちこちによけいな力がかかる。階段を降りるのが怖いのでエレベーターを探すが、そこに行くまでにも時間がかかる。改札を通る時に、松葉杖を持ちながらICカードを出すのも一苦労だった。やっと会社にたどり着いた時にはすっかり疲れきっていた。これじゃあ先が思いやられるな、と更衣室のロッカーに鞄を押し込むと営業部のフロアに足を踏み入れた。まだ時間が早いのでフロアにはあまり人はいなかったが、それでもその場にいる人間から拍手と喝采で迎えられた。克樹は恐縮しながらそれに応えた。始業時間になり、営業課長が克樹を呼んで自分の横に立たせると自然に拍手が起こった。克樹はそれに対しあちこちに頭を下げた。

「長い間ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。これからまたよろしくお願いします」

深々と頭を下げた。その拍子によろよろとよろけた克樹を黒沢が支えてくれた。佐藤も隣に来て口々に復帰を祝ってくれた。

「本当に良かったよ。美沙ちゃん、すごく心配していたし。お前のために色々動いてくれてたんだぞ」

黒沢の言葉に

「聞きました。彼女がいなかったら、僕は解雇されていたんですよね。本当に感謝しています」

克樹の言葉に佐藤の顔が微妙に歪んだ。だが克樹は気付かなかった。

 会社での初日は各届け出書類の提出や、上司への挨拶や事情の説明で一日の大半を費やし、ほとんど仕事にはならなかった。その夜は黒沢の呼びかけで克樹の復帰祝いを催す事になり、営業一課の人間は皆終業時間と同時に仕事を終えた。会社にほど近い居酒屋の座敷で宴会は始まった。課長の小野の挨拶で始まった宴会は、文字通り克樹が主役だった。皆が事の顛末を聞きたがったのだ。克樹は徳島の病院でも同じように人が群がったことを思い出し、おかしくなった。それをめざとく見つけた佐藤は

「なんだよ。今面白いこと話している所じゃないだろ?」

克樹はビールを飲んだ。

「それが、面白い話もあるんですよ」

 克樹は事故に遭った経緯から、徳島の病院で目覚めた所までをかいつまんで話した。

「目が覚めてからしばらくの間、事故のせいで記憶障害があって自分の事もわからなくて。それで身元不明の僕の事を、病院に入院してる人たちが様々な憶測を噂しあってたみたいで。暗殺されそうになった王子様とか、某国のスパイとか」

周りで笑いが起こった。

「マンガか?映画か?って感じですよね。皆退屈して話題が欲しかったんでしょうけど」

「それで?どうなったの?」

「どうにもならないですよ。怪我の経過も良くてICUから大部屋に移って。その頃には色々思い出してきてたんで、相部屋の人たちに訊かれたこと答えてましたけど。でも普通のことしか喋ってないのに違う話になってたり。一般人だって言ってるのに、王子と庶民の禁断の恋とかって話まで出ていたり。どうしてそうなるの?みたいなね」

克樹は思い出して笑った。が、佐藤が尖った声で「何だよ、禁断の恋って」

「え?」その声の鋭さに克樹は佐藤を見た。だが

「何だ?浮気か?」という課長の無邪気な一言で消されてしまった。

「違います。仕事熱心な看護師さんが、身元がわからなくて記憶もない僕の境遇を気の毒に思って、色々親切にしてくれたんです。それに尾ひれが付いただけで、他の噂と同じですよ」

笑って答えたが、心の中では理恵子を思い出して胸が痛んだ。

「怪我はどうなの?」

斜め前に座っている岩瀬が身を乗り出して訊いてきた。

「左腕と肋骨の骨折はもうほとんど問題ないです。まだ力はかけられませんけど。でも右の大腿部は開放骨折ってちょっとひどかったんで、あと1ヶ月くらいはかかるそうです。ここは手術したんですけどね」

克樹は右足をさすりながら言った。

「それと、脳に出血があるって話だったんですが」

聴いていた全員が「え!」と声を上げた。

克樹は手を振りながら「大丈夫です。血の塊が大きいと手術して取り除かないといけないみたいなんですけど。何度かCT撮ったり検査してもらいましたけど、問題ないって。そのうち吸収されてなくなるだろうってことでした」

自分に向いている顔をあちこち見て説明した。

「開放骨折って、普通の骨折と何が違うの?」

「開放骨折は折れた部分の骨が皮膚に損傷を与えている状態だそうです」

何人かが顔をしかめた。「痛そう」

「まだ痛むの?」

「はい。まだ痛いです」

「仕事は出来るのか?」課長が眉根を寄せて聞いた。

「動くのに時間はかかりますが大丈夫だと思います。今までの分を取り戻すためにバリバリ働きます、と言いたい所ですが、しばらくそうはいかないですが…すみません」

「まあ皆でフォローしよう、な」

課長が周りを見回して言った。皆頷いた。

「すみません。ありがとうございます」克樹は深々と頭を下げた。


 翌日から克樹は更に一時間早く起きて出勤した。周囲の気遣いに甘えているばかりではいけないと焦っていた。


 金曜日の昼休み、休憩室でコンビニ弁当を食べた克樹はそのままうとうとしていた。と、胸ポケットの携帯が震えた。はっと身を起こし携帯を見る。「?」知らない番号だった。椅子の間をすり抜け廊下に出ると通話ボタンをスライドさせた。「もしもし」

「北山克樹さんでしょうか?」

「はい」眼鏡を直して応えた。

「私、城内警察署の上田と申します」

克樹の脳裏に先日の実況検分の様子と上田の精悍な顔が浮かんだ。

「ああ。先日はどうも」

「今、電話、大丈夫ですか?」

「はい。昼休みですから」

「実はですね。犯人とおぼしき男が見つかりました。今参考人として任意で事情聴取を行っています。つきましては、北山さんに面通しをお願いしたいのですが」

克樹は廊下を外に向かって歩きながら話していたが、一階のエントランスの所で止まった。

「北山さん?」

「あ、聞こえています。すみません。顔は見た記憶がないんです」

「そうですか。了解です。今その男性が所有しているトラックも警視庁の駐車場に止めてあります。北山さんには主にトラックを確認していただきたいんです」

 丁寧だが力強い口調は会った時と変わりない。根っからの警察官なのだろうな、とまた好感を持った。

「わかりました。伺います。ですが…できれば就業時間が終わってからの方がありがたいんですが。早い方がいいですか?」

「いえ。それで結構です。北山さんが事故に遭われたのが夜ですから、同じ条件で見ていただく方がいいと思います」

「なるほど」

 音楽が響いてきた。映画『風と共に去りぬ』のタラのテーマだ。昼休みが終わる時間だ。

「では後ほど。来られる時に連絡頂けますか?この番号は私の携帯ですので、こちらに連絡していただくのが確実です」

「了解です。ではまた後で」

 電話をポケットにしまい、急いで戻る。そのまま課長のデスクの前に立つと、電話の内容を話し、今日は残業なしで上がらせてもらえるように頼んだ。


 終業時間とほぼ同時に会社を出た克樹が警察署の建物の前に着くと、上田と白川が玄関口で待っていた。克樹は頭を下げた。

「お疲れ様です。わざわざご足労いただいてすみません。荷物、お持ちしましょう」

 上田はスーツ姿で松葉杖をつき背中にリュックを背負った克樹を見て、ねぎらいの言葉をかけた。リュックに手を伸ばす。

「ありがとうございます」克樹は言われるままにリュックを預けた。

「では、早速トラックを見ていただけますか?」

白川が先導する形で歩き出した。

「あの、その参考人の方って、この前の眼鏡に付いてた指紋の方なんですか?」

「それは」上田は眉根を寄せた。

「指紋は一致しませんでした」

「じゃあ…」

「犯人は二人組でしたよね?」

「ええ。たぶん」

「ではもう一人の人物のものかも知れない」

 三人は建物の中には入らず、敷地の裏側に回った。そこには駐車場があり、パトカーやミニパト、普通乗用車が何台か止まっている。そして一番右端に三台分の駐車スペースを使って、一台の大型トラックが止まっていた。全体はアルミのような銀色で、白い流れるような彩色が施してある。

「これだ」克樹は呟いた。上田はすぐ反応した。

「これですか?間違いありませんか?」

「あ、いえ。わかりません」

上田は怪訝な顔をした。

「こんな感じだったとは思います。でも同じようなトラックが何台かあったら、そこから正解を選び出す自信はありません」

上田は何度か頷いた。

「北山さんがいらっしゃる前にこのトラックの荷台を鑑識が調べたんですが、北山さんと接触したり運んだりという証拠は何も出なかったんです。つまり毛髪や指紋ということですが。しかし事件から時間も経過していますし、出なくても不思議はないので。ですがETCの記録や荷物の出荷記録から、おそらくこの車両が当該車両だろうということで、今任意で話を聴いているんですが。しかしそれらは状況証拠なので」

克樹はこめかみに手を当てた。

「任意で車両も調べられるんですか?」

上田はおや、という顔をした。「鋭いですね」

 その時電話の着信があった。小さな振動音に機敏に反応したのは白川だった。「失礼します」と少し離れて電話に出た。短いやりとりの後「え!」と鋭い声を上げた。克樹達の方を見て早口で喋ると電話を切った。

「先ほど、トラックに乗っていたと思われるもう一人の人物が確保されました。それで任意同行をかけた所、供述を始めたそうです。先に任意同行をかけた方も自供を始めたみたいです」

「ええ!」

「そうか」上田と克樹は同時に声を上げた。お互いの顔を見て苦笑する。

「指紋は照合したのか?」

「現在鑑識で照合中だそうです」

「そうか。案外すぐに自供したんだな」

「それが。どうやら最初の男は北山さんを殺してしまったと思って黙秘を続けていたようなんですが、手当てを受けて助かって、もう東京に戻って来ていると聞いて、安心したのか観念したのか供述を始めたようです。先ほど確保された男は眼鏡の指紋と照合するというと自供したそうです」

「そうか」束の間優しい笑顔を見せた上田だったが、克樹の顔を見て顎を引いた。

「今日はわざわざご足労いただいたのにすみませんでした」

「とんでもない。来て良かったです。これで事件解決ですね」

「そうですね」

上田と白川も頷きあった。

「北山さんにはまたお話を伺うこともあるかと思いますが、今日の所はお帰りいただいて大丈夫です。私は供述を聞きにいかなければいけませんが、誰かに送ってもらいましょう」

克樹は手を振った。「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

上田は克樹の松葉杖を見て

「心配なさらなくても、覆面パトカーでお送りしますよ」

彼特有の人を安心させる笑顔で言った。

「じゃあお言葉に甘えて」

「自分がお送りしましょう」

白川が克樹の鞄を持ち「どうぞ」と先に歩き出した。その後ろをついて行きかけた克樹は振り返り「あの!」

と上田に声をかけた。建物に入ろうとしていた上田も振り向いた。

「徳島の方には…」

「もちろん、連絡しておきます。いい報せですからね。喜んでくれるでしょう」

白い歯を見せて言った。

「病院には?」

「そちらは徳島県警から連絡を入れていただきます」

「そうですか。お願いします」

 克樹の脳裏に登録はしたものの、まだ一度も発信したことのない理恵子の番号が浮かんだ。同時に胸を締め付けられるような痛みが。犯人逮捕の報せは口実になるだろうか。忘れるべきだ、という思いと会いたい気持ちが交錯する。

だが大きく頭を振った。

「どうかしましたか?」白川が心配そうに克樹を見ていた。

「いえ。大丈夫です」

白川がドアを開けてくれた白のセダンに乗り込んだ。




 翌日の土曜日。克樹は美沙と会っていた。会社の近くにできたスフレの店が評判だというので来ていた。店はオフィス街の中にあるというのに、土曜日にも関わらずいっぱいで、二人も行列に並んでいた。その間に克樹は昨日の経緯を説明した。美沙は克樹の手をぎゅっと握った。

「良かった。やっと解決だね」

「ああ。正直、証拠が少ないし時間も経っていたから、犯人は捕まらないだろうと思ってた。すごいな。日本の警察って」

「そうだね。事故からもう1ヶ月も経つものね。本当に良かった。これでやっと日常生活に戻れるね」

美沙は克樹の脇に手を回し、支えるように立っている。克樹は自分の足を見た。

「足もかなり回復してきたし」

「良かった。でも完治まではまだ時間がかかるんだよね?」

「徳島では三ヶ月って言われたけど」

「そうか。それで、これから事件の方はどうなるの?裁判とか?」

克樹はため息をついた。

「そうみたいだ。ただの事故なら過失ってことで治療費や慰謝料を払うってことになるんだけど、今回の場合だと事故の隠蔽とか殺人未遂とか。色々な罪に問われるらしい」

声が重く暗くなった。そんな気持ちを振り払うように

「だけど、今こうして生きてるし、思ったよりひどい怪我じゃなかったし、出来るだけ軽い罪ですめばいいなと思っているんだ」

それを聞いた美沙は、信じられないというように克樹の腕をぎゅっと握った。

「恨んでないの?」

「それが不思議とそんな気持ちは全くないんだ。恨みとか怒りとか憎しみ、そんな感情はどこにもない」

美沙は厳しい顔つきで「どうして?」と詰め寄った。

「自分でもわからないけど」

克樹は困ったように笑った。美沙は強い口調で

「私は憎いよ!恨んでる。事故を隠蔽するために克樹を運んでいって、山の中に捨てるだなんて!発見してくれた人がいたから助かったけど、そうじゃなきゃ死んでたかも知れないんだよ!私は絶対許さない」

克樹は美沙の身体に手を回したけど「ごめん」美沙も身体を寄せる。

「克樹が謝ることじゃないけど」

「心配させてごめん」

 その時店内から「次の二名様どうぞ」と声がかかり話はそこで途切れた。

 話題のスフレを食べて機嫌の良くなった美沙は、その後裁判の話題を出すことはなかった。「次、どこ行く?」と聞かれた克樹は「映画」と答えた。見たい作品があったわけではなく、松葉杖であちこち移動するのが面倒だったのだ。二人は新宿に移動した。映画館は大作の公開もなく、土曜日の昼間だというのに空いていた。シネコンの上映作品一覧を見て、克樹はアクション物が観たいと提案したのだが、結局美沙の意見で恋愛ものを観ることになった。中盤のあたりで、克樹は一週間の疲れが出て映画の途中で眠ってしまった。映画のエンドロールで美沙に起こされ「つまらなかった?」と聞かれ、冷や汗で謝った。

「この一週間、朝五時に起きてたから。言い訳だけど」

「そうだったね。どうする?この後。帰って寝る?」

含み笑いで聞く美沙に、克樹は顔を擦りながら

「いや。目は覚めたよ。晩飯行こう」

映画館から近い焼き鳥屋に入った。ほろ酔いで店を出た所で「送るよ」と駅に向かおうとした克樹だったが、美沙が袖を引いた。繁華街の裏通りに差し掛かる場所で、一つ筋を入ればホテル街がある辺りだった。

「ねぇ」甘くかすれた声。克樹の身体の中でズンと何かが落ちた。

「お願い。身体、まだ痛いからダメ?」

 美沙は克樹の身体にしがみついた。克樹は美沙の頭に顔を寄せると「大丈夫だよ」と囁くと通りを曲がった。

 部屋に入ると美沙が唇を求めてきた。克樹もそれに応えると、そのままベッドに倒れ込んだ。「痛っ」

美沙ははっと身体を起こした。「ごめん。大丈夫?」

克樹は声なく笑うと美沙を抱き寄せた。





 月曜日。犯人が逮捕されてから二週間が過ぎた。克樹は今日も朝五時に起きた。土曜日も日曜日も美沙と会っていて、昨夜も帰宅したのは終電だった。睡眠不足で頭が重い。だが気持ちは満ち足りている。事故から二ヶ月近く過ぎ、東京に帰ってきてからも一ヶ月近く経っている。

 早々に支度をすると家を出、始発から三本目の電車に乗って会社に向かう。今日は一週間に一度の足の病院に行く日である。早いうちに仕事を終えて帰らねばならない。

 フライング気味に仕事を終え、デスクを片付けている時に終業の音楽が鳴った。克樹は「今日もすみません。お先に失礼します」と挨拶すると会社を出た。家とは逆方向の電車に乗り、三つ目の駅で乗り換える。帰宅ラッシュの中で松葉杖で移動するのは、時間もかかるしこけたりしないかと緊張もする。

 通院している病院は、徳島の幸田が紹介してくれた病院で、真田という院長が開業している町医者である。規模は小さいが外科の施設は整っている専門医だ。そこに勤務している杉内という外科のドクターが幸田の同期だということで紹介してくれた。最寄り駅から15分ほど歩くと白い真四角の建物が現れる。"真田外科医院"と一階と二階の間に横書きで書かれた看板がある、他は素っ気ない建物だ。建物左手のガラス扉を開け中に入る。克樹が診察券を受付箱に入れるのは、いつも受け付け時間終了間際だ。プラスチックのカードを箱に入れるとコトンと微かな音がした。受け付けでカルテの準備をしていた看護師が「こんばんは」と顔を上げた。聞き覚えのある声。克樹はガラス越しに覗き込んだ。

「!」

 あまりの衝撃に声も出せない克樹の目に、手で口許を押さえる彼女の姿が映った。彼女は口許の手をゆっくりおろし、感極まった心を押さえるように低い声で「こんばんは」と言った。

「理恵子さん!どうしてこんな所に」

彼女は少し困ったように首を傾げ、唇に人差し指を当てしっと言うしぐさをすると、周囲を見回した。

「色々あって。こちらで採用していただいて先週から勤務させていただいています」

まだ動揺のおさまらない克樹に、小さな声で早口に

「今はちょっと。後でお話できますか?」

放心状態の克樹が頷くとほっとしたように笑い、頭を下げた。

 その日、診察は克樹が一番最後だった。まずレントゲンを角度を変えて何枚か撮り、診察を受ける。克樹を担当している幸田の同期の杉内は、レントゲン画像を見ながら

「いいですね。回復が早いです。もう骨は繋がったようですし、今日で固定外しましょう」

「本当ですか?」

「ええ。それで」

杉内は立っていくつかの箱を持ってきた。

「今日からこれを着けてもらいます。こうやって装着します。まあいわゆるサポーターですね。これで、お風呂の時などははずせますし、だいぶ動かしやすくなりますよ。松葉杖も補助として一週間くらいは使った方がいいでしょう。足の筋力も落ちているでしょうから、リハビリも必要かもしれません。それは次回考えましょう。次は二週間後でいいですよ」

克樹は嬉しそうに「はい!ありがとうございます」と大きな声で言うと勢いよく頭を下げた。

杉内は笑いながら「そんなに喜んでいただけるとこちらも嬉しいです」

克樹は頭を掻いた。「通勤とか、色々大変だったので」

杉内は首肯し「そうでしょうね。明日からは少しはましになりますね」

「ええ。良かったです」

 診察が終わり待合室に戻ると、患者はもう誰もいなくて、看護師がモップで床掃除をしていた。克樹の足音に気付いた彼女は顔を上げた。

「理恵子さん」

「お疲れ様でした」

理恵子は早口の小さな声で

「あと十分ほどで終わります。待ってていただけますか?」と訊いた。

克樹が頷くとほっとしたような笑顔を見せた。克樹も抑えた声で

「駅前のファミレスで待ってます。ご存知ですか?」

「ええ」

 診察室からカルテを持った看護師が出てきて受け付けから克樹を呼んだ。

「今日は6800円です。次は二週間後いらして下さい。次回、問題がなければそれで終了になります」

理恵子は床掃除を終えると、モップを持って奥の診察室に入って行った。清算を終えた克樹は軽くなった足を二三度振り、病院を出た。ゆっくり駅に向かう。

 ファミレスの入口の階段を、手すりにつかまり片方ずつ足を出す。たった五段の階段だが無事登れた。「よし」

ファミレスは空いていた。大学生らしい三人グループと家族連れが二組。そしてカウンター席にサラリーマンらしい男性が二人。克樹は店内を見回すと、入口に近い四人掛けのテーブルに腰かけた。ウェイターに連れが来てから、とオーダーを待ってもらい、鞄から文庫本を取り出して頁を開く。だが字面を追っていても内容は全く頭に入っていない。徳島から離れた日の事や理恵子のことがぐるぐると頭を巡る。

 まさか…彼女が東京にいるのは…

「まさか」声に出すと首を振った。

会えて嬉しいのか、罪悪感なのか。動揺が収まらない。

 入口のドアが開いた。克樹が目を上げると理恵子はすぐに気付き目が合った。駆け寄ると向かいの席に腰を下ろした。

「すみません。お待たせしました」

理恵子はテーブルに何も乗っていないのを見て、メニューを広げると

「食事、しませんか?」

「ここでいいんですか?」

「ええ。まだ他にお店、全然わからないですから」

二人でメニューを見た。克樹はミックスグリルとライスを、理恵子は海老ドリアとサラダを注文した。オーダーを取ったウェイトレスが立ち去ると理恵子は克樹をしげしげと見て

「ずいぶんお元気になられましたね」

克樹も自分の全身を見て

「おかげさまで。もう事故から二ヶ月ですからね。足の固定もようやく外れたし」

右足を机の横に出して見せた。ブカブカのスラックスの上からはわからないが、膝にサポーターを巻いている。理恵子は笑顔で頷いた。が、すぐに真顔に戻ると

「私がここにいて驚かれたでしょう?」

「ええ。とても」

克樹は水を一口飲むと唇を舐めた。だが、克樹が口を開くより先に

「不倫していた人と別れて東京に出てきたんです」

そう告げると一旦言葉を切り、手元に目を落とした。が、またすぐ顔を上げると

「でも、別れたのが原因で東京に来たんじゃないんです。東京に来ようと思ったから区切りをつけられたんです」

そう言うとまっすぐに克樹を見た。克樹は息を飲んだ。

「まさか…僕のために、ですか」

理恵子は首を横に振った。

「自分のために、です。克樹さんに会いたいと思うのは私の気持ちですから」

「でも」克樹はムキになって「じゃあどうして電話に出てくれなかったんですか?事故の経過を警察が調べてくれて…犯人が逮捕されたって、理恵子さんには一番に知らせたかったのに!」

理恵子は頬に両手を当てた。次の瞬間涙がこぼれ落ちた。

「犯人、逮捕されたんですね。良かった。でもごめんなさい。電話に出るのは怖かったんです。徳島でのことはなかった事にしてくれ、あれは一時の気の迷いだったって、そう言われるんじゃないかって。だから怖くて連絡できなかったんです」

 ウェイトレスが遠慮がちに「失礼します」と料理を運んできた。二人は無言で皿が並べられるのを見ていた。料理を全て置くと、伝票を置いてウェイトレスは辞去した。重苦しい沈黙を破り

「僕が…僕の方こそ、そう思いました。電話に出てくれないのは、一時の気の迷いだった、そう思っているんだろうって」

理恵子はかぶりを振った。テーブルの上のミックスグリルが鉄板の上でブシュブシュと香ばしい香りを放っている。克樹はその匂いを吸い込むと「食べましょうか」と箸を取った。理恵子もフォークを持った。二人ともしばらく無言で料理を口に運んだ。克樹が先に食べ終わり「ゆっくりでいいですから」と言うと立ち上がり、ドリンクバーからホットコーヒーを取った。少し迷い、理恵子のためにはオレンジジュースを入れて、席に戻って来た。その時には理恵子も食べ終えて皿を端に寄せた。彼女は大きく深呼吸すると

「幸田先生が克樹さんに紹介状を書いた真田病院に、私の推薦状も書いて下さったんです。それで、週に一度は克樹さんが来院されるのはわかっていたので、待っていたんです。追い掛けて来るなんて迷惑だって思われるなら、偶然を装おうなんて考えて。バカですよね」

克樹は言葉が見つからなかった。

「私、克樹さんが好きです。彼女がいるってわかっていても。それでも…」

克樹は暗い顔をして俯いた。

「僕もあなたに会いたかった。だけど」

顔を上げると視線をさ迷わせ、また下を向いた。

「だけど、必死で僕を探してくれた、心配してくれた美沙のこともやっぱり好きなんです。彼女を裏切ることはできない」

 理恵子が大きく息を吐く音がして、克樹は顔を上げた。すると彼女は不思議な笑みを浮かべていた。

「?」

「私、克樹さんに振り向いてもらえるように努力します。だから…美沙さんに会わせて頂けませんか?」

「!」

あまりに意外な言葉に克樹が言葉を逸していると

「こそこそするんじゃなくて、彼女に私の存在を知っていてもらいたいんです」

克樹は思考が停止してしまった。

「先に出会っているから正しいとか、恋愛ってそういうものじゃないですよね?」

強い目で真っ直ぐに克樹を見た。克樹は受け止めきれず目を伏せてしまった。

「恋愛で正しいことって何だろう?あるんだろうか。そんな事」

 今度は理恵子が目を伏せた。二人の座っている窓際の席のすぐ近くに線路があり、電車が走り抜けて行った。同じリズムを刻む特徴的な音が遠ざかっていくと、理恵子は窓の外に向けた顔を戻した。

「恋愛で正しいことってなんでしょうね。でも間違ってるって言われること、非難されることはありますよね」

「そうですね」

「私のしていることは非難されるような事かもしれません。でも自分の心にはこれが正しいことだったんです」

克樹は窓の外に目をやった。だが何かを見ているというわけではない。沈黙が続いた。と後ろの席で椅子を引く音がした。反射的にそちらを見る。家族連れが食事を終え、帰って行った。感情のこもらない目でそれを見ていた克樹に

「私は克樹さんの恋の相手にはなれないでしょうか?」

細い声で訊いた。克樹は目が覚めたように理恵子の顔を見返した。その声は克樹が徳島で病院に運び込まれ、夢現つの中で聞いた寂しげな声だった。

 克樹は二三度口を開きかけ、また言葉を飲み込んだ。

「明日の夜は空いてますか?」迷いがちに声を出す。

理恵子は両手をぎゅっと握ると「はい。今日と同じくらいには終わると思います」

「そうですか」ためらいながら

「じゃあ明日、美沙と三人で会いましょう。仕事が終わったら連絡します」

理恵子は息を飲むと身を乗り出した

「いいんですか?」

克樹は自嘲気味に笑い「こんないい加減な僕でいいなら」と言った。

理恵子は泣き出しそうな顔で何度も頷いた。


 二人はファミレスの前で別れ、克樹は駅に向かった。理恵子は真田医院から徒歩15分の所にアパートを借りているという。固定の外れた足は動きやすかったが、心は重く沈んでいた。なぜ、言われるままに彼女を受け入れたのだろう。改札に上がる階段の途中の踊り場で足を止める。いるはずもないのに振り返った。その時電車が到着したらしく階段を降りる人の波がきた。克樹は急いで階段を駆け上がったが間に合わず、電車は発車した。車窓にうっすらと映る自分の姿の奥に見知らぬ人々が見える。

ー美沙。

 徳島から帰って以来、ずっと彼女の顔を見るたび、その向こうに理恵子の顔が見えるようだった。だが今日は逆だった。

 自分で自分が何を考えているのかわからない。ずれた眼鏡を直すとリュックの中から文庫本を取り出した。次の電車が来るまであと十分。美沙に連絡をしなければ、とわかっているが、今そこに向き合う気力が出ない。


 理恵子は駅の改札に入るまで克樹を見送ると歩き出した。やっと会えた。その嬉しさを噛みしめる。会えなかった1ヶ月近くの間、不安でさまざまなもの想いとらわれていた。会いたい気持ちと逃げ出したい感情。ただあの場所から逃れたかっただけで、克樹のことを本当に好きなのか?と自問することもあった。日が経つほどに幻を見ていたような気がして、会うのが怖くなっていった。何よりもまず克樹の気持ちを確かめるのが怖かった。

 だが、克樹は好きだと言ってくれた。

 過去は見ない。前だけを見よう。理恵子は自分の心を鼓舞するように両手で頬を叩いた。

 過去。その言葉に代表されるのは幸田だ。

 あの時。理恵子が若葉丘病院を辞める理由を、幸田はどう受け止めたのだろうか。否定はしたが、克樹を追って東京に行くとわかっていただろう。だが、それでも何も聞かず真田外科病院の紹介状を書いてくれた。おかげで理恵子は東京に引っ越してから、すぐに働くことができた。

 やはり優しい人だったんだな。アパートに着いて鍵を取り出しながら胸の痛みとともに思い出した。

 でも、振り返らない。そう決めた。










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