3、「それが名前なの?」うっとりと眺めていた。
「私は、アイリス・コーエン。あなたの名前は?」
大事そうに籠を抱え、笑顔で尻尾を振る。獣の耳と尻尾を持つ少女、アイリス。
あの後、彼女の案内で、不気味な気配からも無事に逃れ、道に出ることができた。ただ、その道は空が見渡せる程度の木々に挟まれた森の中の小道で、見覚えはない。わざわざ反対方向に一人で歩く理由もないので、道に出てからもこうして一緒に歩いている。
そして今は話しかけたときに怯えていたのが嘘のように、目を輝かせて興味津々に俺を見つめている。
それは名前を聞きたいからだったな。そういえば、俺の名前は……
「名前は……わからない」
「わからない?それが名前なの?」
「違う。名前を覚えていないんだ」
アイリスはじっと俺を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
まぁ、そうなるだろう。普通、名前を聞かれて「知らない」という者はいない。「あなたの名前は?」と尋ねて「わからない」と言われれば、「何を言ってるんだこいつ」と思うのが当然の反応だ。
どうしようかと俺は上を見上げ、遥か先に広がる薄い青空を眺めていると、ある言葉が思い浮かんだ。
「そうだなぁ。俺の名前は……」
「じゃあ、ソラって呼んでもいい?」
アイリスは俺が言おうとした名前を先に口にした。そのことに驚きつつ、不安そうに返事を待つ彼女に向かって頷く。
「やったぁ!」
嬉しそうににっこりと笑うアイリス。
偶然か?
空を見上げてみるが、そこには雲ひとつない、青々と広がる空だけ。
空を見ている俺の姿を見て、偶然同じ名前を思い浮かべたのだろうか。それとも……?
「……思うの!ソラはどう思う?」
我に返ってアイリスを見る。そこには、目をキラキラさせ、何かを期待するように尻尾を振る彼女の姿があった。
「そうだな」
「やっぱりそうだったんだ!」
アイリスは嬉しそうに飛び跳ね、目を輝かせてピョンッと跳ねる。ルンルンとしている。
……俺は何の返事をしたのだろう。
アイリスが何の話をしていたのか気になるが、上機嫌に鼻歌まで始めたあたり、俺から期待していた返事をもらえたらしい。歩きながらちらりとこちらを振り返り、その度に無意味に微笑む謎の行動を繰り返し、今さら聞き返せそうにない。
まぁ、たいした話はしていないか。
これまでのやりとりを思うと、目の前で無邪気に喜ぶ少女が大事な話をしていたとは思えない。視線をアイリスから林に囲まれた道と青空な景色に移し、何か思い出せないかと考える。
……やはり、なぜこの森にいたのか思い出せない。それに梅の花のペンダントを眺めた時、なぜ「約束」という言葉が思い浮かんだ?もしかして約束とこの森に何か関係があるのか?
「ねぇ、ソラはとっても強いね。傷はもう痛くないの?」
「ああ」
痛いと言えば、頭痛と耳鳴りに襲われた時、一瞬だけ姿が映った。なんとなくだが、あれは女性だったような気がする。
ニコニコしているアイリスをちらりと見たが違う気がした。ただ、他に女の記憶はない。
ないはずなのに胸騒ぎがしてもどかしい。
「ねぇ、ソラは私みたいな耳や尻尾はないの?」
「ああ」
耳に尻尾。そういえば、アイリスには獣のような耳と尻尾があって、俺には……ん?
「どうしてないの?」
「…………。」
その一言で他の考えが吹き飛んだ。
何度か考えごとを邪魔された気もしたが、それは些細なこと。
今、アイリスは獣の耳や尻尾がないことを不思議そうに尋ねた。ということは、アイリスが知っている人たちはみんな獣の耳と尻尾を持っているのだろう。いや、ほぼそう考えるべきだ。
「ぶー!ちゃんと話を聞いてる!?さっきから『あ』ばっかりだよ!」
我に返ると、頬を膨らませて怒っている……と思ったが、怒りを感じさせない睨みつける目で強調しているらしいアイリス。
「ああ。なんでだろうな」
なんとなく頭をポンポンと撫でてやると機嫌を直したようで、再び鼻歌を歌いながら前を歩き出した。
頭に触られるのが好きなのか?
いや、今はそれよりも村や町に着いたときのことに考えを集中すべきだ。
そう思いながら眺めていると、アイリスは視線に気づいたのかこちらに振り返り、後ろ歩きしながら微笑んだ。
「そういえば、ソラはどうして森で死んでいたの?」
「死んでたら今話しているのもおかしいだろ」
「そうかも!じゃあどうしてお昼寝していたの?」
質問ばかりだな。まあ、何も説明していないせいでもあるか。
「何も覚えていないんだ。あそこに倒れていたことも含めてな」
「ふーん、……ん?」
不思議そうに首を傾げて俺を見るアイリス。その様子に、今さらながら過去の記憶がないことをはっきり伝えていないのに気づいた。
「俺は過去の記憶がないんだ」
「……過去の記憶がない?じゃあ、もしかして帰るおうちもわからないの?」
「ああ、覚えてない」
驚いたのか口を開けた表情のアイリスは、我に返ると手を頬に当てて考え込んだ。
そして何かを閃いたのか、手をパチンとしてニコッと笑う。
「じゃあ、わたしのおうちで一緒にご飯を食べよう。寝る場所もあるし大丈夫。うん、決定ね!」
その目はなぜかキラキラと輝き、俺は了承もしていないのに決定していた。
行くあてもない俺にとってはありがたい話だが、この小さな少女の思いつきをどこまで信じていいものか。それに、アイリスが住む村や町の人たちが、獣の耳や尻尾のない俺を歓迎してくれるとは思えない。
「いいのか?俺を見て、アイリスと一緒に暮らしている人たちは警戒しないか?」
「たぶん大丈夫。私は一人で暮らしているから。それに、私のお家は村から少し離れているし、お礼もしたいし」
その見た目で村から離れて一人で暮らしていることは気になるが、とりあえず村人から警戒される心配はなさそうだ。
お礼が一夜の宿につながるとは、何が因果となるかわからないものだ。
「それなら頼む」
「うん!私の住むおうちはもう少し歩いたところにあるんだよ。あ、そうだ!お家はまだ先だし、記憶がないのならこの世界のはじまりとされるお話を聞かせてあげるね」
そう言ってアイリスは嬉しそうに尻尾を振りながら、俺に物語を語り始めた。
* * *
この世界は、かつて魔の王が支配していた。
八つの地域は魔の王を頂点とする各魔将によって統治される世界だった。そこでは人々が家畜同然に扱われ、気まぐれに命を奪われる日々に怯えて暮らしていた。
そんな世界に現れたのが、女勇者ミコト。
彼女は、人々から神と呼ばれる存在に導かれ、強制的にこの世界へと召喚された。神が彼女に示した、元の世界に戻る唯一の方法——それは、魔の王と八魔将すべてを滅ぼすことだった。
こうして勇者ミコトは旅立ち、魔の王を討つ決意を固めた。旅の途中、各地で仲間を加えながら魔将を次々と討ち、その地に平和を取り戻していった。そして、長い旅の末に得た八人の仲間たちに各地の防衛を託すと、彼女はついに魔の王が待ち構えるこの地へと足を踏み入れた。
——だが、勇者は魔の王を討つことができず、命を落とした。
激怒した魔の王は、多くの魔のモノを生み出した。それが後に八魔鬼軍と呼ばれる八つの巨大な魔の軍勢である。八魔鬼軍は各地の都市を次々と襲い、国を滅ぼし、人々は容赦なく虐殺された。
それから数年後、八魔鬼軍に怯える世界に再び一人の勇者が現れる。彼女もまたミコトと名乗って。
新たな勇者は、かつてのミコトの生き残った三人の仲間と、新たに加わった四人を引き連れ、八魔鬼軍に立ち向かっていった。そしてすべてを討ち滅ぼすと、その勢いのまま、荒廃の元凶たる魔の王を倒し、封印することに成功した。
封印を維持するため、かの地には亡き先の勇者を祀る建物が建てられ、新たな勇者はこの世界から姿を消した。
こうして魔の王との戦いが終わると、勇者の仲間たちは各地に散り、生き残った魔のモノから人々を守る者となった。そして、彼らは困難に立ち向かう者たちへの敬意を込めて、ミコトの名で呼ばれるようになった。
また、魔の王の封印が解かれぬよう、人々の中から選ばれた護人が、勇者を祀る建物でその封印を守り続けている。こうして
それが——
およそ二百年前に語られた、魔の治める時代が終わり、人の治める時代となった物語である。
* * *
……記憶と何の関係がある?
それが率直な感想だったが、それを抜きにしても、物語はただ哀れな勇者の話にしか思えなかった。
どうせなら、勇者が正義の心で魔の王を倒す王道の話にしておけば、男子は満足する伝説になっただろう。あるいは、ミコトと魔の王の禁断の恋にでもすれば、勝手に妄想を膨らませる者たちによってお伽話として盛り上がりもしたかもしれない。
……いったい、どんな三流がそんな奇妙な物語を考えたのか。
アイリスのおしゃべりは止まらない。勇者の仲間が実は九人だった説や、新たな勇者はミコトの子どもだった説など、出どころの怪しい創作めいた外伝をあれこれと話してくる。そんな話を聞きながら、いつの間にか再び森の中を歩いていた。
どこが良いのかもわからないミコトになりたいという話を聞かされながら、どれほど進んだだろうか。
「着いたよ」
アイリスの声に顔を上げると、そこには門とは呼びがたい、奇妙な白木の構造物が見えた。
扉はなく、左右に続く壁もない。ただそこにそれらしい門らしき形をして立っている。
「ずいぶん変わった門だな」
「これはね、鳥居っていうの。鳥居の内側には、鬼や魔のモノは入れないんだよ。不思議だね」
「そう、なのか……?」
言われるがまま門をくぐり、鳥居を眺める。左右には杭が並び、縄が張られていて、まるで建物全体を囲うようだった。
本当にその縄に何かの効果があるのか、もしくは別の理由でそれより先に入れないのかもしれない。
……理屈はまったくわからないが。
門の先には、木造の建物が三棟並んでいた。中央と左右に一つずつ。
ここは集落ではないらしく、右側の建物は倉庫のようだ。段差や鼠返しの構造がある。
中央にあるひときわ大きな建物は、有力者の住む屋敷のようにも見える。建物の下には空間があり、太い柱で支えられていた。中央の階段も浮いたような構造で、手すりで支えられている。
しかも、白・赤・木の色が新築同然に美しく、風化や損傷の気配がまるでない。
その光景を眺めながら尋ねる。
「……これが、家か?」
「ヤシロ?……って言うの。正面からは一つに見えるけど、奥にもう一つ建物があるんだよ」
アイリスはそう言って振り返る。
「そしてね。私は、この今は亡き勇者を祀る建物に住む護人。魔の王の封印を守るために、ここにいるの」
なぜか照れたように顔を赤らめ、微笑むアイリス。
……どうやら、あの奇妙な物語は実話だったらしい。ただ、そんな重大なことをいきなり言われても、どう反応すればいいのかわからない。
「そうか」
そっけなく返すと、アイリスはぱっと笑顔になり、嬉しそうに尻尾を振った。
「隣が私の家なの」と案内されたのは、先ほどの建物とは違う、平屋の建物だった。
アイリスが「ごはんの準備をするね」と言って部屋を出ていくのを見送りながら、大きく息を吐く。
「……本当に、人の気持ちはよくわからない」
あのそっけない返事に喜ぶ理由など思いつかない。ただ、深くは考えなかった。
◇ □ ◇
食事を終えて腹も満たされ、一息ついた頃だった。
「ちょっといい?」
アイリスに誘われ、うなずいて庭へ出る。夜は静かで、月明かりと家のわずかな灯りだけが頼りだった。
もう俺のことをまったく怖がっていないようで、アイリスは無警戒に背を向けて話し始めた。
「ねぇ。……とってもきれいな夜空だね」
「ああ」
星が瞬き、ほぼ満月といえる月が白く輝いていた。
「…………あのね」
何かを決意したように、アイリスが振り返った。けれど暗くて、その表情までは見えない。
「ソラは私を助けてくれる。……そう信じてもいいんだよね?」
その声は弱く、震えていた。だが、そんな話をした覚えはない。
——いつ、そんな約束を?
そう問いかけようとした瞬間、思い出す。
内容も聞かずに「そうだな」と返事をした、あの時のことを。
アイリスが、あの時、すごく嬉しそうだった理由が——今ようやくわかった。
けれど、何から助ければいいのかわからなければ、返事のしようもない。
今、何かを言わなければ。沈黙は、きっと“拒絶”として伝わってしまう。
「アイリス、こっちに来るんだ」
「……うん」
近づいてきたアイリスは、うつむきながら小さく震えていた。
俺はその両肩に、できるだけ優しく手を置いた。続いて頬に触れると、濡れているのに気づく。
顔を上げさせた。
「……どうして、泣いている?」
「だって……、断られるって、わかってたから」
そう言って、涙を流しながら微笑んだ。
——沈黙を、助けないと受け取ったのか。
見捨てられることに慣れ、怒ることさえ諦めてしまったようなその微笑みが、胸に刺さる。
「まず……何から助けてほしいのか、聞かせてくれないか」
問いかけると、アイリスはピクリと肩を震わせた。しかし、すぐにまた涙をこぼしながら、首を横に振る。
「わから……ないの。でも、それでも……信じて、ほしいの。わたしには、もう……時間……い、から……」
泣きながら絞り出す声はかすれていていた。けれど、切実である事は伝わった。
——何から助けてほしいのか、本人もわからない。それでも、助けてほしい、か。……なんて、理不尽な願いだ。
俺は頬に置いた手をそっと離した。
まだ返事もしていないのに、アイリスはまたうつむいてしまう。
きっと、いつもそこで断られてきたんだろう。
「アイリス。後ろを向いてくれ」
「……あの……うん」
——俺はバカだな。だが俺にはこれしか知らない。
もっと上手に、安心させる答え方もできたはずだ。なのに、俺は知らない。
心の中でため息をつきながら、身につけていたペンダントを外す。
そして、後ろを向いたアイリスの首に、それをそっとかけてやった。
アイリスは驚いたように振り返り、涙を止めたまま呆然とした顔でこちらを見ていた。
「あ、あの……これ、は?」
「梅の花のペンダントだ。……約束を守るという意味だ」
「…………?」
アイリスは、ぽかんと口を開けていた。言葉の意味がわからなかったのだろう。
……まあ、そうなるよな。
そもそも、梅の花のペンダントにそんな意味があるのか、俺にもわからない。
でも、それでもいい。伝えたかったのは言葉じゃない。
「それって……い、いいの!?」
「二度も言わない。……もっとも、助けられるかはわからないがな」
これで終わりだと思った。きっと、泣き止むだろうと。
……だが。
「……さっきよりも泣いてないか?」
「だ、だってぇ~~~」
——助けられるかはわからないの一言が余計だったのかしれない。
アイリスは、理由も告げず、しばらく声をあげて泣き続けた。
ようやく気持ちが落ち着いてくると、恥ずかしそうに距離を取る。
そして、なぜかペンダントを大事そうに手に取り、うっとりと眺めていた。
了




