おとなりさん
おとなりさんは変わってる。
たくさんしゃべる。
おとなりさんは変わってる。
いつもベランダにいる。
おとなりさんは変わってる。
ーーわたしにしか、見えない。
「おとなりさん、あめ食べますか」
並んだベランダの柵から手だけ突き出すと、同じように柵の隙間から伸びてきた手があめ玉を受け取った。
身長が足りなくていつもこうして柵の隙間からやり取りしている。同じぐらいの身長のおとなりさんも、柵の隙間から目玉をのぞかせている。
包みを剥いて、オレンジ色の丸いあめ玉を食べた。……多分。おとなりさんは口が見えないから、あめ玉が体の中に溶けてなくなったようにしか見えない。
毛むくじゃらだから、からまったりしないのかなぁと思った。
おとなりさんはよくしゃべる。
「あめ」
「おいしい」
「あまい」
「うまい」
「まるい」
「なくなった」
「かなしい」
毛むくじゃらの体のいたるところから声が聞こえる。
どこからしゃべっているのか、何人しゃべっているのか、何一つとしてわからないけど、しゃべる時はお行儀よく順番にしゃべるから、聞いていて混乱することはない。
モフモフの腕が伸びてきて、あめ玉を催促するように上下に揺れる。
わたしが持っているもう一つの包みが目に入ったらしい。大きな目玉がギョロりと動く。
隠すように体をよじって、素早く開けて口の中に入れる。
「ひょれはわたひのでふ」
口の中でコロコロ転がすと、お気に入りのオレンジの味が広がってとっても甘い。お皿洗いしたり、おそうじを手伝うと、お母さんがいつもくれる。ごほうび、らしい。
あめ玉がなくなったのが悲しいのか、何だか毛の元気がない。
催促していた手も、力なく揺れている。
ちょっぴり可哀想になって、自分だけで食べるつもりだったチョコレートを半分割って、モフモフの手に乗せた。
「とくべつです」
ふふ、小さく笑うと、おとなりさんの毛がボブッと大きく膨らんだ。喜びを表しているらしい。
「あまい」
「あまいのすき」
「ちょこれーと」
「おいしい」
「うれしい」
「とけた」
嬉しそうに体を揺らすおとなりさんを見て、わたしも嬉しくなる。
美味しいものはだれかと一緒に食べるともっと美味しくなるのよって、お母さんが言ってたのは本当だったみたいだ。
「奈穂、どこにいるの? 奈穂ー」
「はぁい! すぐ行く! またね、おとなりさん」
慌てて部屋の中に入って、ベランダの鍵を閉めた。
「おやつよ」
「わぁ! ドーナツ!」
「手は洗った?」
「うん」
椅子に座り、手を合わせてから3種類あるドーナツのどれから食べようか迷う。
プレーンもいいけど、チョコレート味もいいな。いちごチョコがのってるのもおいしそう。うーんうーんと悩んでいると、お母さんが自分用のドーナツを食べながら話しかけてきた。
「奈穂、最近よくベランダにいるのね。何か面白いものでもあった?」
「え? あ、う、うん! ねこ! ねこが見えるの!」
「まぁ、そうなの……」
モフモフしてるし、全体的に丸いし、大きな目もあるし、口がないことをのぞけば見た目はねこと言ってもうそにはならない。……多分。
おとなりさんはくすんだ灰色だからかわいいとは言えないけど。
迷いに迷ってプレーンのドーナツにかじりついた。
「おはよー、奈穂ちゃん」
「おはよう!」
学校は好き。
友達もたくさんいるし、勉強もたのしい。
でも、学校にいるとおとなりさんのことが気になる。おとなりさんはいつもベランダに居る。雨の日も、雪の日も居た。
ひとりぼっちでベランダに居る。
台風の日にベランダに居るのを見て、慌ててわたしもベランダに出ておとなりさんを部屋に入れようとしたことがあった。
お母さんが真っ青な顔で飛んできたからおとなりさんのことを話すと、そんなものは居ないと返ってきた。
風がすごくて、おとなりさんが飛ばされるんじゃないかドキドキして、まともに寝れなかったのを覚えている。
次の日、ベランダに出るといつものようにおとなりさんが居たのを見て安心した。
雨で全体的に毛がしっとりしていた。
帰る支度をしていたら雨が降り出してきた。
傘を持っていなかったので走って帰る。
ベランダに出ると、やっぱりおとなりさんが居た。
「奈穂、濡れるわよ」
「うん」
大人しく部屋に戻った。
おとなりさんは雨の日も雪の日も台風の日もベランダに居るけど、あの場所から動いた日は一度もない。
せめて傘をさしてあげたかったけど、となりのベランダまで手が届かないから無理だった。
「おとなりさんはなんでそこにいるんですか」
今日のあめは棒付きのものだから、ペロペロ舐める。お気に入りのオレンジ味がなかったから、コーラ味。
わたしがいつもベランダに出るからと、お母さんが置いてくれた小さな椅子に座っておとなりさんを見る。
いつものあめは舐めるのに、棒付きキャンディはかみ砕くらしい。ゴリゴリとかむ音が聞こえたあと、ペッと残った棒だけ吐き出していた。
「いつのまにか」
「なんとなく」
「しらん」
「すきだから」
「なんで?」
「いた」
お行儀よく順番にしゃべる声を聞いて、首を横に倒す。
ひとつだけ、好きだからベランダにいる、と答える声があった。ほかの声は特に理由はないと答えた。
声にもひとつひとつ意思があるんだなぁって知った。
「じゃあ、おとなりさんがほかの人に見えないの、は……」
となりの部屋のベランダの窓が開くのが見えて、弾けるように椅子から立ち上がり小さく「またね」とだけ言って部屋に戻った。
となりの部屋に住んでるオジサンは顔がこわい。
あのオジサンこそが本当の「おとなりさん」なんだけど、わたしにとっての「おとなりさん」は毛むくじゃらで甘いものが好きなあの不思議な生き物だ。
「こんにちは」
「こ、こんにち、は」
玄関を出たら、バッタリとなりのオジサンと遭遇してしまった。
こわい顔のまま、ずいっと体を近づけてくる。いや、顔がこわいのは元からなんだけど、いつにも増してこわい気がする。
「お嬢ちゃん、いつもベランダに居るね」
「え、あ、はい」
「何か見えるのかい」
グルグル頭の中で言葉が回って、心臓があふれ出しそうなぐらいドキドキする。
何か、何か? オジサンにもおとなりさんが見えるの? じゃあどうしていつもベランダに出してるの?
疑問がシャボン玉みたいに浮かんで、パチンと弾けた。
「ね、ねこです! ねこが見えるんです!」
絞りだした言葉は思いのほか大きく出て、走って逃げた。
しばらくおとなりさんと会わない方がいいのかもしれない。
こわいオジサンと遭遇してしまうかもしれないし、見えることがバレたらおとなりさんと、もうおしゃべりできなくなってしまうかも。
モヤモヤ考えながら学校に行って、モヤモヤ考えながら学校から帰る。
いつものようにすぐにはベランダに出なかった。
オジサンがいないか確認して、部屋の中からそっとベランダの様子をうかがう。
おとなりさんはいつもの場所に居た。
わたしのあめを待っているように見える。……多分。
オジサンと遭遇するのがこわくて、明日にしようとのばし続けて一週間が経った。
この際オジサンと会ってもいいからベランダに出よう! そう決めて学校から帰った日、いつもの場所におとなりさんはいなかった。
お母さんから、となりの部屋のオジサンが引っ越したことを聞かされた。
おとなりさんはオジサンのそばに居たかったのかもしれない。
オジサンは何を聞こうとしたかったのか、おとなりさんは何者だったのか、謎は深まるばかりで結局何一つわからなかった。
あれから何年も経ってわたしは社会人になったけど、今でも時おり思い出す。あの不思議で楽しかった頃のことを。
おとなりさんと一緒に食べたオレンジ味のあめは、今でもわたしのお気に入りだ。