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3.願望実現の成功哲学(レベル1)

 食事を終えて満足な気分でアパートの部屋に戻ると、天使のミカさんは畳の上に横になって、寝息を立てながら昼寝をしていた。ドアを開け閉めして俺が入ってくるのにも気がついていない。

 俺はミカさんの寝顔を見て、思わずドキッとした。か、かわいい。よく見れば本当にかわいい顔をしている。


「ミ、ミカさん……」


 声をかけてみたが、ミカさんは相変わらず寝息を立てていて、目を覚ます気配がない。俺はしばらくそのあどけない寝顔に見とれていたが、やがてよからぬ考えが浮かんできた。俺の心の中で天使と悪魔が言い争いを始めた。


―― こっそりキスぐらいしてもいいんじゃないか?

―― 相手は天使だぞ。何て罰当たりなことを考えてるんだ。

―― 男として生まれて三十九年間キスすらしたことがないんだ。天使にだって慈悲ぐらいあるから、そろそろファーストキスをいただいたって許してくれるさ。


 そうだ、四十年近く童貞のままで、キスすらしたことのない哀れな男に、気づかれずにこっそりファーストキスぐらいさせてくれても、天使ならきっと許してくれるだろう。


 悪魔の心が勝った。俺はぐっすりと眠るミカさんの唇に顔をそっと近づけた。


「い、いただきます……」

「うーん……」


 俺の唇がミカさんの唇に触れようとする寸前、ミカさんは顔を横にそむけた。俺は後ろに飛び退いた。


「ひぃーっ、すみませんすみませんすみません。もうしません。どうかお許しください」


 俺は土下座をして謝った。ミカさんは眠そうに目を開けると、両手を上げて伸びをしながら、大きくあくびした。


「ふぁーあ、あーあ、よく眠ったわ……あらっ、そんなとこで何してるの?」

「へっ? い、いえ、何でもありません」


 どうやら気づかれずに済んだようだ。俺はほっと胸をなで下ろした。


「で、食事はどうだった?」

「はい、最高にうまかったです」

「五百円足らずの牛めしで最高においしいなんて、コータは幸せね。何万円もする高級料理食べても不満を感じる人だって世の中にはいっぱいいるんだから」

「俺にとっては、牛めしのあたま大盛り生卵付きは十分に贅沢です。でも月に一回ぐらい、やよい軒でたっぷり野菜の肉野菜炒め定食を食べたりして、もうこれで死んでもいいと思ったりしてました」


 ミカさんは半ばあきれたような顔をしていたが、やがて気を取り直したように言った。


「そ、それはよかったわね。それはそうと、今日の夕食はどうするの?」

「は、はあ……」


 そう言われると、昼食はミカさんにもらった五百円、いや正確にいえば俺の部屋に落としていた五百円でなんとかなったのだが、もう俺には金もなければ食料もない。今後の生活のことはまったく考えていなかった。


「あなたのことだから、まだこの部屋のどこかにお金を落としたまま忘れてるんじゃないの? 探してみたら?」

「うーん、そんなに何度も落ちてますかねぇ」

「探してみないとわからないじゃない。お金がなければ空腹のまま我慢することね」


 ミカさんは冷たい口調で言った。さすがにそう何回も助けてくれる気はないらしい。仕方がない。無駄だとは思うが、探してみるか。


「わかりました。探してみます」

「じゃあ、あたしは押し入れでもうちょっと昼寝してるから。がんばってねー」


 そう言うと、ミカさんは襖を開けて押し入れに入り、本当に寝てしまった。襖越しに押し入れの中からは、グゥーとかピィーとかいう、かわいらしいイビキの音が聞こえてくる。

 一人取り残された俺は部屋の中をあちこち探したが、一円玉すら見つからなかった。お金なんて部屋の中にそうそう落としたり忘れたりしないよなあと思って、十五分ほどであっさり諦め、畳の上にごろんと横になった。


 一時間後、押し入れの襖が開いた。


「どう? 見つかった?」

「いえ、ダメでした。やはりこの部屋にはもうお金も食料もないようです」

「あら、変ねえ。あたしコータが昼食に行ってる間に、この部屋のどこかに五百円玉を一枚隠したのよ。見つけたらあげるから、もっとよく探してみたら?」

「えっ、本当ですか? 探します探します」


 あと五百円あれば、松乃家のカツ丼かなか卯の親子丼が食べられるぞ。俺は目の色を変えて、再び部屋の中を探し始めた。約三十分後、俺は歓喜の声を上げた。


「あっ、あったー」

「見つかったの? よかったわねー」


 だがそれは五百円玉ではなく、引き出しの奥に挟まっていた封筒入りの三万円だった。弁当工場の正社員だった頃に旅行しようと思って取っておいた金だった。結局、都合で旅行はしなかったので、そのまま忘れてしまっていたのだった。


「ありがとうございます。三万円出てきました。でもせっかくだから、ミカさんが隠してくれた五百円玉も探してみます」

「あら、あたし五百円玉なんて隠してないわ」

「えっ、で、でも、さっきそう言ったじゃないですか」


 俺は唖然とした。だがミカさんは平然として言い放った。


「あれはウソ。ウソも方便って言うでしょ。コータは最初はこの部屋にお金が落ちてるかどうかわからなかったから、なかったら無駄骨だなとか思って、あんまり真剣には探してなかったでしょ。だから本当に見つからなかったのよ」


 そう言われて、俺はぎくりとした。たしかにその通りだった。むしろ、どうせ落ちてないだろうと思って、かなりいい加減な探し方をしていたのだ。


「でも、私が五百円玉を隠したと言ったら、この部屋のどこかに五百円玉が必ずあると思って必死で探したでしょ」

「はい、その通りです。結果的には五百円玉は出てきませんでしたが、代わりに三万円が見つかりました」

「そうよ。それが今日のもう一つのレッスン、願望実現の成功哲学レベル1よ」

「といいますと?」


 俺は意味がよくわからなかった。これが願望実現とどう関係があるのだろうか。


「たとえばコータ、あんたにも実現したい夢とか願望とかあったでしょ?」

「ええ、そりゃあまあ、ありましたよ。彼女が欲しいとか、いい職に就きたいとか、もっとお金を稼ぎたいとか……」

「で、あんたはそれが実現できると思いながら努力してた?」


 俺はまたギクリとした。ミカさんはときどき本当に鋭いことを言う。


「い、いえ、いちおう努力はしてましたけど、どうせ無理だと半分あきらめてました……」

「だから彼女もできず、いい仕事にも就けず、ずっと貧乏だったのよ」


 ミカさんはきっぱりと言った。俺は何か反論しようと思ったが、何も言えなかった。


「どうせこの部屋にお金なんて落ちてないだろうって思いながら、いい加減な探し方しかしてなかった最初のあんたがまさにそうよ。でも、あたしが五百円玉を隠したって言ったあとは、真剣さが全然違ったでしょ?」

「は、はい。五百円玉は部屋のどこかにきっとあると思ったから、真剣に探しました」

「だからその三万円を発見できたのよ。必死に探さなければ見つからなかったでしょ」


 ミカさんの言うこともわかるような気はしたが、俺は少し納得できないところもあった。


「でも、当初の目的の五百円玉は見つからなかったし、そもそも最初からなかったんでしょ。だったら探しても見つかるわけないし、探すだけ無駄ってことじゃないですか?]


次の瞬間、俺はミカさんに左腕をつかまれ引っ張られた。腕に激痛が走る。


「ぎええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ」


「どう、あたしの秘技、腕ひしぎ逆十字は」

「ひーっ、も、もう結構です」

「コータ、あんたはそんなことだから、いつまでたってもモテないしサエないしビンボーなダメダメ男なのよ。顔が超ブサイクなのはしょうがないけど、せめて考え方ぐらいは成功者のものを身につけなさい!」


 ミカさんの厳しい言葉は俺の胸をぐさりと刺し貫いた。腕も痛かったが、心はもっと痛かった。


「今日のレッスン、願望実現の成功哲学レベル1はね、本心からの願望は実現できると信じて努力すれば実現するということよ」

「はあ、それはわかりますけど……でもどんなに努力したって実現できないことってあるでしょ」


 ミカさんの目がギラリと光った。俺は殺気を感じ、あわてて土下座した。


「ひーっ、すみませんすみませんすみません。俺が間違ってました」


恐る恐る顔を上げると、なぜかミカさんは、ふっと笑った。


「コータの言うことにも一理はあるわね」

「へっ?」

「たとえば人間の女の子があたしみたいな超かわいくて素敵なレディーになりたいって願望を抱いたとしたら、それは実現は絶対不可能よ。そんなのはただの妄想だから、身の程をわきまえなさいって言うわ」

「は、はあ……」


 ミカさんは完全に自己陶酔モードに入っている。


「コータがあたしみたいな究極の美女を彼女にしたいなんて願望も、実現可能性は0パーセント、いいえマイナス100パーセントよ」

「0パーセントならわかりますけど、マイナスって何なんですか」


 ミカさんは俺の疑問も無視して話を続けた。


「そうね、あたしの百分の一ぐらいの美貌の女性だったら、あんたでも彼女にできる可能性は0.001パーセントぐらいはあるわ。でもね、あんたがその子を彼女にできると信じて努力すれば、その可能性は1パーセントぐらいにまで上がるの。なんと千倍アップよ」

「それでもたった1パーセントですか。それじゃあ99パーセントは実現しないってことじゃないですかっ」


 俺は不満を口にした。だがミカさんは平然としている。


「大事なのは本気で努力するってことなの。無理だと思ったら本気で努力しないでしょ。だったら実現可能性はほとんどゼロね」

「ええ、まあ、はい、その通りです」

「できると信じれば本気で努力するし、本気で努力すれば、100パーセントではないにしても、実現の可能性は飛躍的にアップするわ」

「はい、おっしゃるとおりです」

「あんたは今のままだったら、彼女ができる可能性はほとんど0パーセント、でも本気で努力すれば1パーセントぐらいにはなるわ。そうね、外見にそれほどこだわらなければ、20パーセントぐらいはあるかしら」

「えっ、20パーセントですか」


 俺は少し希望が持ててきた。20パーセントなら可能性はあるな。


「でも、実現しない可能性の方がはるかに高いし、実現しなかったら無駄な努力ってことじゃないんですか?」

「実現できなくても努力は無駄にはならないわ。経験となって残るの。だからその経験を次の願望実現に生かしていけばいいじゃない。ゲームでいえば経験値が上がるってことよ。どうせだめだろうって、ろくに努力もしないで諦めてたら、経験値も上がらないわ」

「あっ、そうか。なるほど、よくわかります」


 ゲームの経験値の喩えは俺にとって非常にわかりやすかった。恋愛だって失恋を重ねれば経験値が上がって、恋愛能力は向上していく。でも最初から諦めて何もしなかったらゼロのままだ。


「それだけじゃないわ。失敗したとしても、何か目的のためにせいいっぱい努力したっていう経験は、人生を充実したものにするんじゃないかしら」


 その通りだと思った。俺はこれまで、そんな考え方をしたことはなかった。最初から無理だと思って本気で努力さえしなかったし、実現しないなら努力するのも無駄だと思っていた。だから俺は何をやってもダメだったし、充実感も得られなかったんだ……


「どう? 少しは成功哲学がわかってきた?」

「はい、それはもう、目から鱗が落ちたようです。これからは心を入れ替えてがんばります」

「ほかに何か言うことはないの?」

「といいますと?」


 ミカさんの目がギラリと光った。


「電気アンマと腕ひしぎ逆十字と、コブラツイストと卍固めとアキレス腱固めと、どれがいい?」

「ひーっ、お許しくださいお許しくださいお許しください」

「有益なレッスンを受けたんなら、ちゃんとお礼ぐらい言いなさい!」

「あ、ありがとうございました」


 俺はあわてて礼を言ったが、ミカさんは殺気を漲らせた目でジロリと睨んだ。


「たったそれだけ?」

「ひーっ、ミカさまは素晴らしい美少女神天使です。最高の叡智をも備えた完璧な奇跡の天使です。そのような究極の超絶的美少女天使ミカ様から崇高なる成功哲学の教えをお授けいただきまして、本当にありがとうございます」

「そうよ。いいわぁ。もっと言いなさい」

「はひっ、わかりまひたっ」


 それから俺はさらに三十分ほど白々しいお世辞を言わせられ、おまけに足裏だけでなくふくらはぎのマッサージまでやらされ、ようやく解放されたのだった。

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