常識を捨てろ
「はっ、はっ」
疲れてもう動きたくない、と音をあげる体を無理やり動かして、俺はその人影に向かって走る。
どこにそんな力が残っているのか分からないほどに、力強く走る。
時々もつれるが、その度になんとか体勢を立て直して走り続ける。
側から見たら走ってるようには見えないだろう。だけど、俺にとっては走っているのだ。
突き動かされる感情に従って、俺は走る。
城しか希望がなくて、ひたすら歩いて、だけど挫けそうになって、その瞬間に現れた新たな希望。
それを前にすれば、後先なんて考えるのをやめてしまう。
「はっ!はっ!」
湧き上がる嬉しさをエネルギーに変えて、俺は走る。
足がさらにもつれるが、転んでいる暇はない。
無理矢理体を立て直して、走る。
やっと、異世界に転移した感じになってきた。
これが、ご都合主義だろう。
普通ならこんな都合よく人なんて現れない。
俺を異世界に飛ばした神か何かが、哀れんでその人と出会うように仕向けたのだろう。
そんなことにご都合主義を使って欲しくないが、今はそれが一番嬉しい。
ご都合主義万歳!
希望が見えて、少しだけ回るようになった頭でそんなくだらないことを考えるが、ありがたいことには変わらない。
ご都合主義でもなんでもいい。
俺は生きたい!
そう強く願う。
逸る気持ちをそのままに、俺は走る。
少し遠いところにいたが、それももう十数メートルだ。
だんだんと、その姿が大きくなる。
それでも、その背は低い。
まだ視界は遠くを見れないからよく分からないが、子どもぐらいの身長だ。
それを理解して、俺の希望はさらに高まる。
子どもがいれば、その近くに大人がいる。
子どもがいるってことは、産めるだけの余裕があるということだ。
少しだけ、水と食料を分けてもらおう。
そして、それらを採れる場所を教えてもらおう。
言葉が通じるかは分からないが、何としてもそれらを手に入れたい。
かなり身勝手だとは思う。
だけど、死を前にしたら体裁なんて気にしてられない。
それらをもらえる代償に、とんでもないことを要求されるかもしれない。
でも今はそんなことを考える余裕はない。
生きたい、生きたい!
近づけば近づくだけ、そのことで頭がいっぱいになる。
そして、俺は人影のところに辿り着いた。
途中からしんどすぎて地面しか見てないが、気配というかなんというか、死にかけで研ぎ澄まされている感覚でそれを察知して、人影の目の前で止まった。
「あ、あ、あ、」
無理矢理走ってきたので、肺が上手いこと動かない。
幸い、その人影は動かない。
「あ、あの!」
絞り出すように、俺は声を出した。
人影は、元からこっちを向いていたのか、動く気配がない。
じっと、品定めをされているような気がする。
だけど、俺には関係ない。
俺は生きるために、暴れている呼吸を抑え込んで、ゆっくりと声を出した。
「すみませんが、少しだけ水と食料を分けて———」
ずっと顔を見ないのも失礼だと思い、懇願しながら俺は顔を上げて。
言葉を失った。
「な、な......」
体を起こした俺は、よろよろと後ずさる。
そして、目の前の人影の姿に、俺は頭が真っ白になるのを感じた。
待って、何でこの流れになるの?
だって、この流れなら普通は助かるルートでしょ。
ここまできて、ご都合主義はないと?
それはあまりにも、酷くないか?
仮でも事故でも、ここへ俺は無断で連れてこられたんだよ?
少しは報われたっていいじゃないか。
なのに、この仕打ちって。
真っ白な頭の中で、現実逃避にも似た思考が駆け巡る。
だけど、現実は変わらないのだ。
「う、嘘だろ」
震える声を出しながら、俺はその姿をもう一度、しっかりと見る。
『キキキッ』
そこにいたのは、ラノベでよく出てくる頭でっかちの人型の魔物、ゴブリンだった。
その姿は、本によって多少は変わるが大体が似たような形であり、目の前にいるそれはまさしくその形を取っていた。
身長約1メートルの小柄な体躯に三頭身でぶよっと太った胴体のずんぐりむっくりな体型。体の色は緑色で、目はギロっとつり上がっている。
その性格は、本によってまちまちだが大体が、凶暴。
『キキィィ....』
その証拠に、右手に持った石斧を構えて、鋭い歯を剥き出しにして威嚇している。
物語序盤の雑魚モンスター、ゴブリン。
すぐに蹴散らされてしまうイメージが強いか、俺にはそんなことはできない。
何よりも、期待が外れてショックが大きく、また無理矢理動かした反動も相まって動くことすらままならない。
そんな状況で、どう戦えというのか。
だが幸い、あっちは俺を警戒して動かない。
弱い動物ほど警戒心が強い、ってのはゴブリンにも適用されるのか。今のところ、あっちから襲ってくることはない。
この隙に、少しだけ回復させてもらおう。
だけど、少しでも弱いところを見せたらすぐさま襲いかかってくるだろう。
だから俺は、弱い自分を切り捨てるように、思考を切り替える。
何を今更ショックを受けているんだ。
ここに来てから期待したことが上手くいくなんてことはなかっただろう?
ラノベの普通に期待するな。ここは作者の好きなように作られたご都合主義万歳の世界じゃない。
生々しい現実だ。
ラノベっぽさはあるけど、ラノベじゃない。
現実世界の普通だけを信じろ。
そう気持ちを切り替えた俺は、今すべきことを考える。
今もし襲われたら、何も抵抗することができない。
石斧の餌食となるだろう。
だから俺は少しでも強く見えるように右足を踏み出して、前傾姿勢をとる。
そして、小さい子にがおーっ!ってするみたいに両手を上げる。
少しでも相手よりも大きく見せるのが、相手を怯えさせるには必要らしい。まぁ、それは熊と出会った時の対処法であり、ゴブリンに通じるかは分からないが。
意味がないことを危惧していたが、その効果はあったらしく、じりっとゴブリンは後退する。
そして、しばらく睨み合う。
ゴブリンは後退してからは動かず、睨むように俺の隙を狙っているような気がする。
俺はそんなゴブリンに好機を与えないように注意しながら、体の力を抜いて回復を待っていた。
腕は疲れて、今はだらっとしている。それでも、ゴブリンは俺を警戒して襲ってこない。
そのおかげで、息は整い、少しだけ動くことができるまで回復した。
走るまでは無理だとしても、一回だけならゴブリンの体当たりを避けれるだろう。流石に石斧で斬りかかられたら完全には避けれない気がするけど。
そしてまた、しばらく睨み合う。
ゴブリンは一向に動かない俺にイライラしていた。
プルプルと、石斧を持った右手が震えて、ギロっとした目がさらにつり上がる。
歯茎まで剥き出しにして、喉の奥でキチチチチッと音を立てる。
それに対して俺はというと、結構動けるであろうところまで回復してきた。
寝てなくて、頭は眠たいけど、それでも最低限の思考だけはできる。
そう考えて、俺の心にゆとりが生まれた。
だが、それが心の緩みとなった。
頑張って意識を保っているが、眠たいものは眠たい。
俺は小さく欠伸をしてしまった。
その時間は僅か。
『キィ!』
だけど、それを好機と捉えたゴブリンは石斧を振りかぶって飛びかかってくる。
「くっ!」
少しだけ反応が遅れたが、俺は何とか体を捻ってそれを避けた。
単調な動きだったから避けれたものの、痺れを切らしたゴブリンがどんな動きをしてくるか分からない。
それに、俺の体力だって無限にあるわけじゃない。回復したとはいえ、その量は僅かだ。戦っていたらすぐに無くなってしまう。
どうにかして、決着をつけなければ。
だけど俺は武器も魔法もない。武術もなにも身につけてない。
どうしろと?
俺は避けた体の勢いを殺すことができずによろよろと前に進む。
いつまでも敵に背を向けるわけには行かず、俺は急いで後ろを振り返る。
『キキィ!』
だが、振り返る間も無く、ゴブリンは襲いかかってきた。
「ぐあっ!」
ゴブリンの体当たりを避けることができず、俺は転ばされた。
受け身なんて取ることができずに、俺はうつ伏せで地面に叩きつけられる。
「ぐぅ...」
鈍い痛みに、俺は呻き声をあげる。
だけど、そんな暇なんてないのだ。
『キィッ!』
ゴブリンが鋭い声をあげ、俺の背中に馬乗りになる。
やばい!、と俺の本能が警鐘を鳴らす。
「おらぁっ!」
『キィィィ』
俺は思いっきり体を捻って上に乗っていたゴブリンを落とす。
ゴブリンも俺と同じく受け身をとれず、地面に落ちる。
俺はその隙に立ち上がって、距離を取った。
「はぁ、はぁ」
少ししか回復してなかった体力を使い果たし、俺は息が切れる。
くそっ、視界がぼやけてきた。
それと同時に、睡魔まで襲ってくる。
『キィィィィィ!!!』
振り落とされたゴブリンは既に立ち上がり、怒りで目をギラギラさせて俺を睨んでいる。
そこに警戒心はない。
すぐにでも襲いかかってくるだろう。
どうすればいいどうすればいいどうすればいい。
何一ついい案が思い浮かばない俺は、パニック寸前まで焦る。
それが表情に出てしまったのか、ゴブリンは俺の怖気を感じ取ってニヤリと笑う。
そして、トドメを刺すかのように石斧を振りかぶると、思いっきり飛び上がった。
「なっ!」
その高さ、およそ3メートル。
想像以上の高さから降ってくるゴブリンに、パニック寸前まで追い詰められた俺は体が動かない。
勝ち誇ったようなゴブリンの笑みが見える。
目がおかしくなったのか、石斧が淡い光に包まれているように見える。
「くっそおおおおお!」
残り1メートル。
動け!動け!俺の体!
このままだと死ぬぞ!
「動けええええええええええええ!!」
残り50センチ。
体が少し動いた。
『キィィィ!!』
残り30センチ。
勝ち誇ったかのような、勝利の雄叫びをあげるゴブリン。
俺の体が体が避ける体勢に入った。
残り10センチ。
もう目と鼻の先だ。
俺は意地で体を無理矢理捻る。
そして迎えた0センチ。
石斧は—俺の鼻先をかすめながら下へと流れていった。
『キィッ!?』
避けられると思っていなかったのか、ゴブリンは驚愕の声を上げる。
そして、勢いを殺すことができずに、俺の後ろへと飛んでいく。
そして、ガッ、という音が聞こえた。
『キッ、キキキッ!?』
振り返ると、そこには地面に突き刺さった石斧を必死になって抜こうとしているゴブリンの姿があった。
全体重を込めて放ったのにもかかわらず、石斧が壊れずに硬い地面に突き刺さってるのを見て違和感を覚えるが、今ここが絶好のチャンスだ。
俺はふらふらとした足取りで、ゴブリンに近づく。
石斧を取るのに必死のゴブリンは、俺に気がつかない。
そして、背後を取った俺は、なけなしの力を振り絞ってサッカーボールを蹴る要領でゴブリンの頭を蹴飛ばした。
『キィッ!』
突然の攻撃に何の反応もできなかったゴブリンはもろに受け、1メートルほど吹っ飛んで、ゴロゴロと転がった。
そして転がるのが止まると、ぐったりと四肢を投げだした。
「....やったか?」
その姿に、俺はゴブリンを倒したのかと思った。
だけど、現実はそう甘くはない。
『キキィィ....』
ゴブリンは呻き声をあげ、ゆっくりと上体を起こそうとする。
それもそうか。サッカーをやってたわけでも武術を身につけているわけでもない素人の蹴りだ。殺せるわけがない。
だけど丸っ切り効果がなかったわけでもなく、脳震盪を起こしたかのように動きがぎこちない。
「......」
俺はゴブリンにトドメを刺すため、突き刺さってる石斧に近づいた。
そして、その柄を掴んで、グッと引っ張った。
だが、深々と刺さっているため中々抜けない。
「このっ....」
俺は真上に引き上げるのではなく、石斧が振り下ろされた角度から引き上げてみる。
「うおっ!」
すると、力んだ割には石斧はスポンと簡単に抜けた。
俺はそれに対応できずに、勢い余って尻餅をついた。
だけど、そんな暇はない。
今もゴブリンは脳震盪から回復しつつあり、もう少しで立ち上がりそうだ。
早めに決着をつけないと、俺の体力が保たない。
俺はすぐさま立ち上がり、石斧を右手で持ってゴブリンの元へ歩み寄る。
『キッキィィィ』
ふらふらと立ち上がったゴブリンは、怯えたように後ずさる。
そこに戦意はなかった。
だけど、隙を見せたら襲いかかってくるかもしれない。
今見逃しても、いつか俺を襲うかもしれない。
だから、俺はこのゴブリンを殺す。
虫ぐらいしか生き物を殺したことがない俺は、ゴブリンを殺せるか少々不安だ。
技術的な面でも、精神的な面でも。
けど、やるしかないのだ。
『キィィィィィ....』
詰め寄る俺にゴブリンはどんどん後ずさっていく。
が、まだ脳震盪の影響が残っていたのか、ゴブリンはどさっと尻餅をつく。
これでもう逃げられない。
俺はそう思うと、石斧を斜めに引き絞るように思いっきり振り上げた。
『キィィィィィ!!』
ゴブリンが、縋るような声を発する。
だが、俺はそれを無視する。
ギリギリまで力を溜め、引き絞って、俺はゴブリンに向け石斧を振り下ろした。
『ギッ』
振り下ろされた石斧はゴブリンの首元から斜めに入り、胸の中程まで食い込んだ。
ゴブリンは短い断末魔をあげ、肉と石斧の隙間からチョロチョロと緑色の血を垂らしながら、白目を向いてゴブリンは後ろに倒れ、死んだ。
「はっ、はっ、ぐぅっ」
最後の最後で体力を全て使い切った俺は、その場で崩れ落ち四つん這いになる。
今まで隠してきた感覚が今ぶり返してきた。
飢えや渇き、そして体の節々や筋肉の痛みが全身を支配する。
俺は呻き声をあげ、ゴロンと転がる。
そして、戦いに勝てたことの喜びと、命の取り合いから抜け出せたことへの安堵で、俺はほっと一息ついた。
戦闘初心者が、武器を持った相手と戦う。
これがとてつもないプレッシャーだった。
疲労困憊で、思考回路が鈍っていたから体が竦むことがなかったが、普通だったら何もできなかっただろう。
けど、結果は結果だ。
縮こまることなく、俺はゴブリンに勝った。
ただの雑魚モンスターだとは思うが、今だけ俺はそれを誇ろう。
だって、何もご都合主義の恩恵を受けずに勝てたのだから。
誇らしさで胸がいっぱいになるが、俺ははっ、と重要なことに気がついた。
「...飯、どうすんだよ」
そう、今最も重大な問題を忘れていたのだ。
走ってきた時は、水や食料が貰えると思って後先考えないで走った。
戦ってる時は、死ぬのが怖かったから全力で戦った。
俺の体はもうヘトヘト。
ここからあの城まで歩ける気がしない。
そして、何となく感じるけど、今ここで寝たら俺は2度と起きない気がする。
さっきから喉はカラカラ。空腹感はどこかへ消えたが、体が飢えている。
ここで寝てしまったら、俺は脱水症状で死ぬだろう。
今でも相当やばいのだ。
やばい、ガチでやばい。
ボロボロの体とは反対に、俺の心は騒ぎ立てる。
何かいい案はないのか!生きるための術はないのか!
必死にがなりたてる。
熱い心とぼやける思考の中、俺はふと、あることを思いついた。
それは、正直やりたくないことだ。
だけど、生き残るためなら仕方がない。
やるしかないだろう。
俺はのろのろと立ち上がると、さっき倒したゴブリンの元に行く。
傷口から止めどなく血が流れ出て、ゴブリンの周りが血の海となっていた。
ごくり、と俺は無い唾を飲み込む。
覚悟を決めろ、俺。
そうすれば、生き残ることができるんだ。
そう言い聞かせて、俺は思いついたことを行動に起こす。
俺は覚悟を決め、四つん這いになり、血の海に顔を近づけた。
むせ返るような血臭に、俺は顔を背けたくなる。
だけど、意地でそこをぐっとこらえた。
そして、俺はそのまま顔を近づけていって。
血の海に、口をつけた。
そしてそのまま、じゅるじゅると血を吸った。
血を飲むのは本来体に悪いらしい。
だけど、ゴブリンの血は緑色。前の世界の常識が通じないのかもしれない。
それに、今は緊急事態だ。
何が何でも水分を取る必要がある。
そして、ゴブリンの血は不味い。全然美味しくない。
疲れてるのか、それ以外の感情が思い浮かばなかったが、久々の水分に俺は夢中になって吸い続けた。
ゴクゴクと血を嚥下するたびに、体に潤いが戻っていくような気がする。
血を飲む、という非人道的な行為にも関わらず、俺の体はそれを拒絶しない。
グイグイと、血を飲み干していく。
俺は、生きている。
命を奪い、命を自分の糧として俺はそう実感することができた。
しばらく水分を摂っていなかったから、涙は出ない。
だけど、心の中は感動でいっぱいだった。
「ごちそうさまでした」
そして、血だまりの血を全部飲み干すと、俺は手を合わせ、そう言った。
俺を生かしてくれてありがとう。
その感謝の意を込めてだ。
残った死体も食べたいが、今は血でお腹がいっぱいだ。
それに、俺の意識はもう途切れそうだ。食べれそうにない。
俺は一旦ゴブリンの死体から離れると、またゴロン、と寝転んだ。
そしてそのまま、俺は吸い込まれるような意識に逆らうことなく、意識を飛ばした。
だけど、この時俺は忘れていたのだ。
ゴブリンとは、群れる生き物だということを。