六月 体育祭(2)
そして迎えた体育祭当日、たとえ麗華さんとの勝負がなくなっても、学園行事である以上は手を抜くつもりはないので、大人しく決められた列に並び、グラウンドでの開会式が終わるまで、黙って整列していた。
ようやく退屈な開会式が終わり、皆それぞれの試合場、または各クラスへと移動していく。
ボクが出場する種目は午後からなので、午前中はクラスメイトの試合を見学しに行くつもりだ。
そもそも原作的に体育祭が重要なイベントとは知っているものの、何処で何が起こるかまではわからない。つまり、問題のイベントに当たるまで、この広い会場内を、あてもなく彷徨い歩くことしか、今のボクにできることはないのだ。
運任せ及び、穴だらけの作戦だが、麗華さんがメインヒロインなら、彼女の近くにいれば、絶対に何かが起こると考えている。
今日一日は、美咲さんも加えて三人で見て回る約束を取りつけている以上、まさに鉄壁の布陣といえよう。思わず自画自賛したくなるぐらいだ。
一人でニヤニヤしていると、近くにいた美咲ちゃんが話しかけてきた。
「それで幸子ちゃん、これから何処に行くの?」
「あっ…そうだね。取りあえず麗華さんを応援に行こうかな。今日は三人で回る約束したしね」
そういって思考を現実に戻すと、麗華さんがバレーの試合をする体育館に向かう。
試合場は見学に来た学園生徒が溢れていた。そして人の壁が高すぎて、百三十センチの身長しかないボクでは中の様子が何も見えない。潜り込めそうな隙間も見当たらない。
「何も見えない。これは詰んだかも」
「私は普通に見えるんだけどね。どうしよっか…ねえ幸子ちゃん、肩車してあげようか?」
確かに重要なイベントが起きるのなら、見逃すわけにはいかない。けれど、この年にもなって肩車されるのは流石に恥ずかしい。
どうするべきかとしばらく悩んだボクは、美咲さんに肩車してもらうことを選んだ。最後の一押しになったのは、イベントどうこうではなく、麗華さんは大切な友達だから、直接応援してあげないという気持ちだった。それでも羞恥心はなくなったわけではない。
「よっ…よろしくお願いします。でも、重くない?」
「全然平気だよ。むしろ軽すぎてびっくりしちゃった。幸子ちゃん、ちゃんとご飯食べないと駄目だよ?」
言葉通りに軽々とボクを持ち上げて、小揺るぎもしない美咲さんに頼もしさを感じる。佐々木食堂でのアルバイトを思い出しても、重い荷物を運んだりとかなり過酷であったため、彼女の体力がすごいのも当然かもしれないなと、一人で納得した。
「あっ、麗華さんだ。綺麗なアタックが決まったね」
「確かにね。でも麗華さんってバレーの部活はやってなかったはずだけど。それでも殆ど一人で、相手チームを圧倒出来るのはすごいよね」
バレーはチームプレイなはずなのだが、麗華さんは圧倒的なカバー範囲と美しいフォーム、さらにはスタイルの抜群のため、活躍するたびに声援が飛び交う。見学者は男子生徒が明らかに多かった。
ボクも麗華さん頑張れーっ!と、肩車されながらも一生懸命応援したけど、大声を出すたびに体育館全体がしんと静まり返り、見学者だけでなく試合中の選手からも、微笑ましい子供を見守るような視線が集まるのは何故なのだろうか。
結局試合終了まで疲れを見せずに動き続けた麗華さんの粘り勝ちで、一組は相手チームに勝利した。彼女はボクたちのことに試合途中から気づいていたようで、タオル片手に汗を拭きながら、ゆっくりと近づいてきた。
「麗華さんすごかったです! 大活躍でしたよ!」
「そう? ありがとう。貴女たちの声援もちゃんと聞こえていたわよ。次の試合も応援頼めるかしら?」
「私は大丈夫だよ。幸子ちゃんは心配になるぐらい軽いからね。ずっと肩車してても全然疲れなかったよ」
ボクも大丈夫です。絶対応援に行きますと返すと、麗華さんはニッコリ笑いながら、少しだけ背伸びをして、肩車されているボクの頭を満足げに撫でる。
バレーの試合がある麗華さん以外は、二人とも午後からの出場のため、これからどうしようかと話し合った結果、体育館でなくグラウンドに出て、次の試合がはじまるまで、他のクラスメイトを見学しに行くことに決まった。肩車を解いてもらい地面に降りると、ボクたちは体育館から離れてグランドに行くために、人通りの少ない渡り廊下を歩く。
すると突然数人の女子生徒が通路脇から現れ、正面に立ち塞がるようにボクたちに近寄り、数歩の距離を空けて高圧的に声をかけてきた。
そのときボクは、先頭に立つ女子生徒が、入学式の日に麗華さんを弾圧していた花園さんだということに気づいた。
「如月様、お久しぶりですわね。今時間、よろしいかしら?」
バレーの試合が終わったばかりのため、時間的余裕はあるだろうが、普通に聞いているわけではないというのは、ボクでもわかる。最初から拒否権はないのよとでも言いたげに、花園さんはふんっと大きな胸を反らすと、ついてこいとばかりに、彼女たちは背を向けて歩き出した。その様子を見て、ボクが何か言う前に麗華さんが先に口を開いた。
「幸子ちゃん、美咲ちゃん、二人は先に行ってて、彼女たちは私に用があるみたいですしね。大丈夫。すぐに追いつくわ」
そう言い終わると麗華さんは一人で花園さんたちのあとを追う。美咲さんは混乱のあまり、しどろもどろになりながらも、ボクの手を取り真剣な表情で叫んだ。
「幸子ちゃん! 私たちで人を呼んでこようよ! 麗華ちゃん一人だけじゃ危ないよ!」
確かに美咲さんのいうことはもっともだ。ここは誰か頼りになる人に事情を説明して、助けを求めるべきだろう。
でもボクは彼女の手を振り払い、麗華さんたちのあとを追うように駆け出した。
「ごめん美咲さん! ボクが助けを呼ぶまでの時間を稼ぐから、あとのことはよろしく頼むよ!」
後ろの美咲さんが何か叫んでいるのが聞こえたが、今は見失わないように彼女たちを追うのが先決だ。友達を騙すような真似をしてかなり心苦しいが、せっかくのイベントのチャンスだ。今度こそ悪役令嬢らしく、ビシっと決めてみせる。
とはいえ、実際のところは出たとこ勝負のため、具体的な計画は何も考えていなかった。
かっこよく駆け出したのはいいものの、結局麗華さんたちを見失ったボクは、取りあえずボクは呼び出すのなら人気のないところだろうと、いくつか目星をつけて捜し歩いていた。すると候補の一つである校舎裏から、花園さんらしき声が聞こえてきた。
「いくら婚約者とはいえ、睦月様にしつこく付きまとうのは止めてくださらない?」
重要なイベント途中から参加するのは、映画に遅刻して一人コソコソと入場するぐらい恥ずかしいものがあるが、まずは状況の把握に努めるため、物陰に隠れて様子を見ることにする。しかし麗華さんが生徒会長と婚約者だったとは初耳だ。
「またその話ですか? これでも学園では自重しているつもりなのですが、貴女はそう見えないようですね」
苛立ちを隠せない花園さんだったが、一向に涼しそうな表情を崩さない麗華さんに気づき、責めかたを変える。
「そうですわね。では話を変えますわ。神無月様、葉月様のお二人と、最近仲がいいようですわね。睦月様が婚約者ですわよね? これは少々よろしくないと思いますが? 何しろ月の名を持つ方々ですもの、その話題性は抜群のはずですわ」
確かに婚約者がいるにも関わらず、他の男性に色目を使ったと噂されれば、世間の評判はあまりよくないことになるだろう。
流石にこれなら反撃できないだろうと花園さんは鼻を高くし、さらなる攻勢にでる。
「特に問題なのが、最近月の方々の周囲を飛び回る、うるさい蝿が現れたというではありませんの。そう…如月様もよくご存知の、綾小路幸子さんのことですわ!」
「…え? ボク?」
悪役令嬢としての登場のタイミングを見計らっていたボクは、急に名前を呼ばれたため、物陰から顔を覗かせたまま、間抜けにも生返事を返してしまった。
突然の部外者に皆が固まる中、最初に混乱から立ち直ったのは花園さんだった。彼女は取り巻きの数人に指示を出して素早くボクを取り囲むと、為す術もなく皆の前に引きずり出されてしまった。
「貴女が何故ここにいるかは、詳しくは問いませんわ。どうせよからぬ考えで、わたくしたちの邪魔しにきたのでしょうしね」
「幸子ちゃんは関係ないわ! 今すぐ離しなさい!」
麗華さんがボクを助けようと一歩踏み出すが、すぐに取り巻きの女子生徒に妨害され、それ以上近寄ることができなくなってしまい、悔しそうに歯噛みする。
「こんな貧相な体で、月の方々を誑かしたのですわね。小生意気な女ですこと」
そういって顔を青くして小動物のようにガタガタと震えるボクに向かって、一歩、また一歩と花園さんが近づいてくる。
「本当に、年ごろの女としては落第点もいいところではありませんの」
目の前に立ち止まった花園さんは、震えるボクに向かってゆっくり両手を伸ばしてきた。ボクは恐怖のあまりギュッと両目を閉じる。そして次の瞬間、頬を指で摘ままれていた。
「あっ…あら、意外と摘まみ心地がいいですわね。そう…例えるならこれは、まるでつきたてのお餅のようですわ」
興味深そうな花園さんに頬を引っ張られるたびに、ボクはおうっ…おうっ…と、水族館のアシカのような鳴き声を漏らしてしまう。
モチモチの頬を、両手の指でしっかり摘んだまま、痛さを感じさせない絶妙なバランスで上下左右に楽しそうに動かす謎の遊びは、しばらくの間続いた。
やがてある程度遊んで満足したのか、そっと両手を離してくれた。これで解放されるのかなとほっと胸を撫でおろしたが、次の瞬間、今度は無言で頭の上に手を置いて、ボクの髪をゆっくりと撫でてきた。
「むっ…これは思った以上のサラサラ感ですわね。洗髪には何を使っているのかしら?」
頭を撫でられている背後から、ずるい…私もやったことないのに!、花園様! 私にも触らせてください! 家の妹に欲しい! などと取り巻きの女子生徒たちの声が聞こえてきたのは、気のせいだと思いたい。というか、誰でもいいので助けてください。
「さて、次は…」
まだ続くのかとボクは内心ゲンナリしながらも、周りを囲まれては逃げようがないので、黙って花園さんによる羞恥心による公開処刑が終わるまでは、平常心を維持しつつ耐えきる方針に変更する。
「こっ…これは、全くないのかと思えば、そんなことは全くなく、限りなく小さいけれども、そこは確かに女を感じさせますわ! しかも柔らかい!」
さっきまでは平常心で耐えきる方針だったが、それは砂上の楼閣のように脆い心だったと身を持って思い知らされた。なんと花園さんは両手でボクの小さな胸を鷲掴みにしたまま、指先で撫で擦るように揉んできたのだ。
ボクはもはや平常心を保つことさえ放棄させられ、若干呼吸を荒くしながらも何だかわからないが、このままでは男としても女としても、確実にマズイ方角に堕ちてしまうと危機感を募らせ、時おりか細い喘ぎを漏らしながらも、流されまいと必死に耐える。
だがそれが逆に、花園さんのやる気に火をつけてしまったようで、いつしかボクの体操服は乱れに乱れ、胸だけでなく体のあちこちを触られ、痺れるような刺激のせいで足腰にはまともに力が入らず、荒い呼吸を繰り返しながら、目の前の美しい女性に押し倒されたかのように、地面にへたり込んでしまった。
既に周囲の女子生徒だけでなく、麗華さんすら重い沈黙が支配し、ときどき誰かが生唾を飲むような音と、ボクと花園さんの荒い呼吸と衣擦れの音だけがはっきりと聞こえていた。
もはやこれまでか。これからボクは、こんな多くの人に見られながら純潔を散らしてしまうのか。はじめては好きな人同士がよかったなと、すっかり蕩けて四肢も弛緩して動くに動けなくなり諦めたボクと、顔を赤らめて何やらやる気充分の花園さんとの距離が、あと数センチまで迫ったとき、ようやく待ち望んでいた助けが現れた。
「佐々木に呼ばれたから、生徒会として来たが…おい、これはどういう状況だ。誰か説明してくれ」
しかし、助けに来てくれたはずの睦月生徒会長は、大いに混乱していた。
結局その後、最初に声をかけられた麗華さんがいち早く立ち直り、事情を説明することになった。その間、生徒会長を先導して連れて来てくれた美咲さんに、乱れた体操服を直してもらい、足腰に力が入らないので肩を貸してくれるように頼む。
「綾小路、どこか怪我したのか? そうなら救護テントで一度見てもらったほうがいいぞ」
「いえ、色々触られすぎて、一時的に足腰に力が入らなくなっただけなので、大丈夫です」
そう返すと、まだ麗華さんからの説明を途中までしか聞いていなかった生徒会長は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、そっ…そうか…と一言だけ、何とも歯切れが悪く呟いた。
今回の花園さんたちの罰だが、主犯格は、申し訳ありませんわ! 駄目だと思いましたのに、綾小路さんの反応が可愛すぎて欲望が押さえられませんでしたわ! などといっており、取り巻きの皆も含めて、一応反省はしていた。
何より一番の被害者(?)であるボクが、かなり危なかったが最後の一線だけは守られたので、未遂ということで許してあげるように生徒会長に進言し、麗華さんも説得したことで、生徒会長が厳しい声で、今回だけだぞと念押しされ、厳重注意のみとなった。
今回の事件を受けて、ボクが元が男だから詳しく知らないだけで、もしかしたら女の子同士はこれぐらいのスキンシップは日常茶飯事なのかもしれない。
でも体育祭の悪役令嬢イベント、かっこよく登場する予定だったのに失敗したな。いや、今日は駄目だったけど、次で挽回すればいいんだ。
とにかく前向きに頑張ろうと、こっそり気合を入れる。
麗華さんと花園さんと取り巻きの女子生徒は、生徒会長がもう少し詳しい事情が知りたいというのでその場に残され、ボクは相変わらず生まれたばかりの子鹿のように足をプルプルと震えさせてしまい、まともに立てなかったので、背を向けてしゃがみ込む美咲さんに申し訳ないと思いつつも、次のバレーの試合を見学するため、体育館までおんぶしてもらうことになった。
「美咲さん、いつもすみません」
「幸子ちゃん、それは言わない約束だよ」
何処かで聞いたやり取りをしながら試合会場に到着すると、見学席の最前列に先ほどはなかった二つのパイプ椅子が一列に並んでいた。背中におぶさったまま、あれは何だろうと美咲さんと一緒に考えていると、ボクたちが来たことに気づいたのか、見学者の人垣がゆっくりと二つに割れて、パイプ椅子に座るように指示してきた。
「えっ…ええと、ありがとうございます」
美咲さんにおぶられながら、何が何だかわからないながらもペコリと頭を下げてお礼を言うと、体育館の見学者の皆さんはウンウンと満足そうに頷いた。
ボクたちが椅子に腰かけ、しばらくたったあと、説明を終えた麗華さんが戻ってきて、最前列でパイプ椅子に座っている二人を見つけて一瞬だけ怪訝な表情をしたが、理解出来ないことは無理に考えないことにしたのか、こちらに向かって笑顔で手を振ったあと、チームメンバーの元に歩いていった。