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六月 体育祭(1)

 父が入院して二ヶ月は、急に変わった身辺整理のため忙しい毎日を過ごすことになった。

 それでも大抵の処理は善次郎おじさんや、専属家政婦の真央さんが率先してやってくれたため、ボクがやれることはあまりなかった。


 それからさらに数週間程過ぎて、ようやく周囲が落ち着いてきたとある平日のことだった。美咲さんは日直で朝早くに学園に登校したため、ボクは一人で登校することになった。

 学園前の駅に到着する前は、曇り空でも雨は降っていなかったが、今は小粒の雨がポツポツと降り出していた。ちょうど白地の夏服、カッターシャツに衣替えしたばかりなのに濡れたくはない。


「参ったなぁ。真央さんにも言われてたのに、傘を忘れちゃったよ。ようやく父さんと家のことが落ち着いたから、気が緩んじゃったのかな」


 軽くため息をついてから、駅前で留まっていても仕方ないので、周りの傘をさした生徒たちと同じように、学園に向かうことに決める。


「今の雨の勢いなら、走っていけばそう濡れないだろう。…多分」


 隣でカップルらしき学生が、やだ…雨降ってきちゃった。俺の傘に入っていきなよと、相合傘でイチャイチャしていたので、一刻も早くこの甘ったるい空間から脱出したくなったボクは、覚悟を決めて学園に向かって走り出したのだった。


(ボクも中身が女の子だったら、今ごろ恋バナの一つも親しい友人と話したりしたのかな。でも別にかっこいい男の人を見ても、相合傘に入りたいとは思わないし…うーん。女心って難しい)


 そんなことを考えながら、全力ダッシュを続け、校舎に駆け込む頃には、密林のスコールのような激しい土砂降りに変わってしまい、ボクは頭から足先まで全身が、雨水でびっしょりと濡れてしまっていた。


「うぅ…靴の中まで…歩くとジャボジャボする。これ、帰るまでに乾くのかな?」


 髪の毛や制服の先を、簡単に搾ったとはいえ、まるで濡れ鼠のようにポタポタと水を垂らしながら学園の廊下を歩くボクに、好奇の視線が集まる。

 そんなとき、おぼろげながら見覚えのある上級生の男子生徒に、突然声をかけられた。


「お前は如月の…確か、綾小路だったか?」

「はひっ! そっそうですけど、ええと…貴方は?」


 小さくうーんうーんと唸りながら、目の前の男性を何処で会ったか思い出そうと、必死に記憶の底を掘り返してる間にも、彼はボクの体を上から下までを何かを探るように見つめたあと、頭が痛そうに自分のこめかみを押さえながら、さらに言葉を重ねる。


「俺は生徒会長の…いや、今はそれよりもだ。ここではマズイ。綾小路、とにかく俺の後についてきてくれ」


 ボクが思い出すよりも早く、彼が名乗ってくれた。どうやら生徒会長らしい。そういえば入学式の日に二回ほど見かけた覚えがある。

 睦月生徒会長はボクに背を向け、黙ってついてくるようにと、もう一度言葉をかけると、迷いなく歩き出した。取りあえず目の前の彼は何か用があるかもしれないので、雨水を含んだ上履きのタポタポという音を響かせながら、普通に歩いても歩幅がかなり違うため、遅れないよう慌てて後に続く。


「ここだ。取りあえず中に入ってくれ」


 連れてこられたのは生徒会室だった。ここまで来たら四の五の言ってもはじまらないので、ボクは生徒会長の言われるがままに中に入る。室内は長机が縦横に配置され、上にはノートPCがいくつか乗っており、資料が並ぶ本棚も、フォルダごとにきっちり組分けされて綺麗に並んでいた。


「綾小路、今着ている制服以外に、何か着替えはもっているか?」


 生徒会長の質問にボクは少し考えて、首を左右に振る。学園指定のジャージを使う授業はしばらくないため、昨日持ち帰って洗濯機に放り込み、現在部屋干し中だ。今すぐ着られるような予備の服は持っていない。


「そうか。何か着るものがあれば、如月か知り合いの女子生徒に持ってきてもらおうかと思っていたのだが、仕方ないな。何よりいつまでも、雨で濡れた服を着させるわけにはな。確かこの辺りに…」


 そう言って生徒会長は部屋の隅で、何かを捜しはじめるが、そのとき、廊下で誰かが走って近づいて来るような音が聞こえ、次の瞬間生徒会室の扉がバンっと乱暴に開かれ、見覚えのある生徒が数人、勢いよく駆け込んできた。


「睦月!? 私の幸子ちゃんに乱暴したら許しませんよ!?」

「幸子ちゃん無事? 変なことされなかった?」


 まず麗華さんと美咲さんがボクに素早く駆け寄り、神無月君と葉月君が後に続く。


「綾小路さん、その格好はどうしたの? びしょ濡れだと風邪ひいちゃうよ」

「健二が年端もいかない女の子を生徒会室に連れ込んだと、ちょっとした騒ぎになってるぜ。ところでこれはどういう状況なんだ?」


 口やかましく騒ぎ立てる四人に、生徒会長は頭を抱えながらも詳しい説明を行う。


「落ち着け、綾小路には指一本触れていない。そのことは目の前の彼女が証言してくれる。それと、あの場ではここに連れて来るのが最善だった。如月、綾小路の服をよく見てみろ」


 生徒会長はそういって、指示した彼女だけでなく、美咲さん、神無月君、葉月君も、全員がボクをマジマジと観察する。その瞬間、合点がいったのか麗華さんがボクに質問をする。


「さっ…幸子ちゃん…貴女、ブラジャーはどうしたのです?」

「えっ? してないですよ。だってこんなちっちゃい胸ならする必要は…」


 最後まで喋る間もなく、麗華さんは弾かれたように素早く距離を詰め、両手でボクの肩をガッチリと掴む。かなり力が入っているようで結構痛い。


「それはいけません。私のほうから真央さんに連絡を入れ、何点か揃えておくように伝えておきます。いいですか幸子ちゃん。女の子は胸が小さくてもブラジャーをするものなのです。わかりましたね?」


 掴まれている両肩からミシミシと何かが軋むような音が聞こえる気がする。目の前の麗華さんの有無を言わせない迫力に、ボクは黙ってコクコクと頷くしかなかった。

 バストサイズは麗華さんが大、美咲さんが中、ボクが小と見事にバランスが取れている。

 ちなみに入学初日に出会った金髪ロールの女子生徒は大だった。


「それと、葉月と神無月! 見世物ではありません! 早く離れてください!」


 麗華さんの一喝で、いつの間にか距離を詰めていた二人の存在に、ボクはようやく気づいた。上から見下ろすようにして、カッターシャツの隙間から胸元を直接見ようとする葉月君。

 顔を赤くして両手で目元を隠しながらも、びしょ濡れになったせいで上から下まで肌が殆ど見えてしまっているボクを、チラチラと覗き見している神無月君。

 美咲さんは彼らを止めようと後ろからシャツを引っ張ってはいるものの、やはり男女の体力差は如何ともしがたいのか、全く効果はあがっていない。

 しかし、ボクが反射的に両手で胸元を隠したことで、ようやくこれはマズイと思い至ったのか。二人は距離を離して頭を掻きいて、少し顔を赤らめながら目線をそらした。


「さて、俺の予備の夏服で悪いが、今日一日はこれを着て過ごすといい。綾小路の濡れた制服と上履きは生徒会室に干しておけば、帰るころには乾くだろう」


 そういって、生徒会長は部活で使う大サイズのタオルと予備の夏服を渡し、生徒会室の奥の資料室で着替えてくるようにうながす。ボクはお礼を言って、資料室の中に入り、濡れた制服を脱ぎ、睦月生徒会長が貸してくれた男物の夏服に着替える。


「それと、上履きは予備がなかったから、来客用のスリッパで勘弁してくれ」


 生徒会長が着替え終わったボクから、濡れた夏服と上履きを取り上げて、ハンガーに引っかけて室内に吊るすと、美咲さんが何かに気づいたように声をかけてきた。


「あっ、そろそろ授業がはじまる時間だったよ! 教室に戻らないと!」


 確かに学園までは走ってきたといっても、生徒会室で着替え終わるまで、かなりの時間を使ってしまった。急いで戻らないと遅刻してしまうと思い、最後に夏服を貸してくれたお礼をもう一度言い、生徒会室をあとにし、ペッタンペッタンと来客用のスリッパの音を学園の廊下に響かせながら、心配して駆けつけてくれたクラスメイトと一緒に、小走りに一組の教室まで戻ったのだった。






 教室についても外の雨は相変わらず降り続いている。生徒会室はエアコンがかかっているので、ボクの濡れた制服も帰りまでには乾くとのことだ。

 数学の授業を受けながら、窓の外を眺めながらぼんやりと考えていると、先生から指名された。


「次の問題を誰かに、あー…綾小路、前に出て解いてくれ」


 はい、っと元気よく返事をし、スリッパのままトテトテと歩いて黒板の前まで進む。一応前世の経験があるため、高一の問題を解くことはできる。できるのだが、やはり身長が百三十センチしかないため、高い所にある問題文にはなかなか手が届かなかった。

 しかも、生徒会長から借りた夏服はサイズが大きく、手の先から袖が折れ曲がってしまい、小さな子供が大人用の服を頭からかぶったかのような、珍妙な姿にしか見えない。


「えっと…このXが…こっちの…んしょっ…Yを…んっ…えいしょっ…もうちょっとで…」


 何とか黒板の高い位置にある問題文に書き込もうと、チョークを持ったまま、つま先立ちで片手をピンと伸ばしたり、時折ウサギのようにピョンピョン飛んで一角ずつ書いたりを繰り返しながら、先生の問題を解いていく。

 悪戦苦闘をしながらも何とか半分ほど解き終わったとき、数学の先生から声がかかった。


「これ以上はもういい。綾小路。自分の席に戻ってくれ」

「えっ? でもまだ半分しか解いてませんよ?」


 先生はため息をつきながら、今回中断させた理由を説明する。


「今の綾小路を見ていると、年端もいかない女の子に、イケナイプレイを強要させてるように思ってしまうんだよ。だからもういい。先生が悪かったから今回は戻ってくれ」


 そう告げた数学の先生からは、何というか全身から物悲しいオーラがでている気がしたが、クラスメイトは違ったらしい。


「ええっ! 先生そりゃないぜ!」「ああん! もっと見たかったのにーっ!」「トテトテ歩く幸子ちゃん可愛い!」「男物のシャツもいいな!」「今度は私の夏服で、可愛くお着替えさせてあげたい!」


 などという憤怒の声がいたるところから聞こえてくる。結局その直後にチャイムが鳴り、ダボダボのYシャツを着たボクの活躍は、皆に惜しまれつつも、この授業のみで終了となった。










 全国で梅雨明けが発表される頃、学園では体育祭の噂でもちきりだった。色々あって忘れていたが、うろ覚えながらも悪役令嬢にとって体育祭は重要なイベント…だったはずだ。

 それに始業式で花園さんという女生徒に絡まれていたことから、如月麗華さんは確実にメインヒロイン。この辺りで一度、上下関係というものを教え込んだほうがいいだろう。

 最後には逆転勝利でボクを踏み台にして、恋人に思いを告げてハッピーエンドになるように。さらにはボクも何処へ出しても恥ずかしくない立派な悪役令嬢になれるように、このイベントは絶対に成功させないとと、決意を新たにする。


「幸子ちゃん、難しい顔してどうしたの?」


 隣の席の美咲さんが、ボクが真剣に考え込む様子を見て、心配そうに話しかけてきた。


「ああうん、大したことじゃないんだ。ただどうすれば、麗華さんをギャフンと言わせられるかなって考えててね」

「私がどうかしたのですか?」


 噂をすれば影…ではなく、麗華さんはボクの席の真正面に座っているので、聞かれても仕方がない。前世や悪役令嬢以外は、別に誤魔化す必要もないので、ボクは考えていたことをそのまま口にした。


「そろそろこの辺りで、麗華さんにギャフンと言わせて、身の程を思い知らせてあげないとと思ってね」

「なるほど、ギャフンですか。それは、この間の中間テストのようにですか?」


 そう言うと麗華さんは、クスクスと小さく笑いながら、ボクをじっと見つめてくる。

 そうなのだ。一応何度か打倒メインヒロインという旗を胸に掲げ、挑んだのはいいけど、どれもこれもが無残な敗北という結果に終わったのだ。


「確か私の平均が九十七点、幸子ちゃんは平均八十点でしたか? あっいえ、十分に頑張ったと思いますよ? 私もこうして友達と競い合うのは、はじめての経験でした」


 容赦のない言葉のナイフが突き刺さる。おぼろげではあるものの、前世の知識に慢心せずに、試験当日まで美咲さんと一緒に頑張ってテスト勉強したにもかかわらず、この差である。本人は気づいてないが、後半のフォローがフォローになっておらず、傷口をさらに広げられてしまう。


「それとも、調理実習のときですか? 確かに幸子ちゃんのお味噌汁は、素朴な味でとても美味しかったです」


 一応ボクの料理の技術は、小さい頃から父の介護でときどき作っていたため、それなりに自信はあった。だが、麗華さんは味噌汁一つにしても、下ごしらえ、出汁の取り方、味噌こし、火力調整、野菜の切り方も全てを完璧にこなし、その圧倒的な戦力差に恐怖した。

今まで挑戦するたびに数え切れない敗北を積み重ねてきたが、思い出すたびに傷口が広がり、下手をすると心が折れて再起不能になりそうなので、一先ず考えないことにする。


「それともー…」


 なおもボクの傷口をえぐろうとする麗華さんの無自覚な言葉の暴力止めるべく、ない胸をドンと叩いたあとに、永遠のライバルに人差し指でビシリと向けて大声で宣言する。


「たっ…体育祭! 体育祭で勝負だから!」


 ボクの宣言に、麗華さんはキョトンとした顔をし、じっとこちらを見つめてくる。急に会話が止まったため、二人の間に微妙な空気が流れた。

 そこに、男子生徒の中ではボクたち三人と比較的仲がよく、タマちゃん事件のあと自然と集まるようになった葉月君と神無月君が、先程までのやり取りを聞いていたのか、会話に加わってきた。


「幸子ちゃん、体育祭はクラス対抗だぜ? それでどうやって勝負するんだ?」

「綾小路さん、たとえ勝負できても、体格的に戦う前から…」


 ボクは二人の言葉を聞いて、勢いで啖呵を切ったことを今さらながら深く後悔した。そして無理だった場合のことを何も考えていなかった。

 ビシっと指差したまま硬直しているボクの手を、麗華さんがそっと両手を重ねて、嬉しそうに口を開いた。


「幸子ちゃん、今までの二人だけの勝負も楽しかったですけど。協力し合うことも、また違った楽しさがあると思うんです。だから体育祭は、私と、いいえ…クラス一丸となって頑張りましょうね」


 メインヒロインに勝つために頑張ってきた挑戦全てを、麗華さんがニコニコしながら口にした。今まで楽しかったという一言で、ボクは今度こそ完膚なきまでに叩きのめされ、足下から崩れ落ちたのだった。


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