四月 猫
翌朝目が覚めたボクは、まず二階の自室から一階の居間に降りて、父のためにラップに包んで置いた、机の上の食事を確認する。いくつか残した物はあるが、殆ど食べてくれたようで、ゴミ箱にも捨てられていないことを確認して、満足そうに微笑む。
もっとも、相変わらず酒瓶やツマミが散らかっているため、掃除と洗濯を簡単に済ませて、父がちゃんと寝室で布団の中で寝ていることを確認したら、ボクも登校の準備をし、学園に向けて出発する。玄関を出てきっちり鍵をかけたのを確認して、まずは佐々木食堂に向かう。昨日の夜に美咲さんに送ってもらう途中で、明日の朝から一緒に登校しようと約束したのだ。
彼女は既に準備を終えており、玄関の前に立ってボクを待っていたようで、ヒマワリのような可愛らしい笑顔で挨拶すると、自然な動きで手を繋いでくると、駅に向かって歩き出した。あまりにも不意打ちすぎて回避が遅れたボクは、繋がれた手に引きずられるようにして、美咲さんと一緒に学園へ向かうことになったのだった。やっぱりとても恥ずかしかった。
学園に着いたので、まずはアルバイトの許可を取るべく職員室に向かい、担任の先生に相談する。思いの外すんなり許可が取れて、少し拍子抜けしてしまった。ボクが親の許可は必要ないの?と尋ねたら、目線をそらしながら、綾小路は如月のお気に入りだからな…と、震えながら返答した教師の声が、やけに耳に残った。
その後は何ごともなく一組の教室に移動し、前の席の麗華さんや隣の席の美咲さんと和気あいあいと楽しい時間を過ごしていると、いつの間にかお昼休みになっていた。今日も半休なので、これからどうしようと考えていると、麗華さんが声をかけてきた。
「そう言えば、幸子ちゃんは今日のお昼ご飯はどうするつもりです?」
心なし弾んだ声の麗華さんから何かを期待するような視線を感じる。ボクはバイト代が入ったのでお弁当でも買うつもりだよと、答えようと考えたところで、そういえば昨日の夜は疲れてて、お金の入った封筒は中身の確認をしただけで、タンスの中にしまったままだったことを思いだした。
これでは家に帰るまで空腹に耐えることになる。財布の中身はお給料もらったので大丈夫と、机の上に置かれていた今日の食費には手を付けなかったので、相変わらずの所持金二百円だ。
「ええと、お財布が寒いからパンでも…」
「あらあら! まあまあ! それはいけません! 幸子ちゃん! こちらをどうぞ!」
最後まで喋るのを待たずに、まるでそう答えると知っていたかのように、麗華さんはボクの机の上に、きらびやかに装飾された大きな弁当箱をドンと置いた。
「今日のために、シェフに作らせた特注のお弁当です。幸子ちゃんもきっと気に入ると思いますよ」
その一言で蓋を開けなくても、中身はとんでもない高級食材だというのを理解できてしまった。さあどうぞと、麗華さんは有無を言わさず弁当箱というより重箱の封を解き、こちらに中身を見せる。
色とりどりの見たこともない料理が所狭しと詰め込まれていた。いくら頭を働かせても、庶民のボクには到底手が届かない超高級品のお弁当だということしかわからない。
恐らく食べても緊張のあまり味がわからず、根っからの小市民であるボクの胃は、精神的ストレスに耐えかねて完全に破壊されるだろう。牛丼に生卵をつけるだけでも贅沢と思っている以上、彼女の重箱の中身は、もはや異次元の食べ物だ。青い顔をしながらお弁当と麗華さんの間で視線を彷徨わせるボクを見て、美咲さんは何かを察したのか、救いの手を差し伸べてくれた。
「ちょっといいかな? 麗華ちゃんと幸子ちゃんだと、価値観が違い過ぎるんだよ。今の彼女はきっと、キャットフードしか食べたことのない飼い猫に、ただ高級だからと本マグロを丸々一匹、目の前に置かれたのと同じような状況だと思うよ。混乱するのも無理ないよ」
わりと的確な例えに、ボクは無言でコクコクと頷く。そして麗華さんはしばらく思考を巡らせていたが、すぐに納得して、机の上の重箱を片付けはじめる。
「なるほど、美咲さんの言う通りですね。確かに幸子ちゃんは、猫ちゃんのように可愛らしいです。それこそ家に持ち帰ってずっと愛でていたいぐらいです」
え? そこに納得したの? 納得した箇所違うんじゃない?と問いかけようとしたところで、今度は美咲さんが先ほどと同じような質問を投げかけてきた。
「それで話は戻るけど、今日のお昼は幸子ちゃんはどうするつもりなの? …って、実はもう用意してあるんでしたーっ! じゃじゃーん!」
その言葉が終わるや否や、美咲さんが小脇に抱えたコンビニのビニール袋を、ボクの机の上で裏返して、中身を全てぶちまけた。
「おおっ! こっ…これはすごい!」
思わず笑顔と同時に声が漏れてしまう程、彼女が用意した物は、まさに宝だった。多種類の菓子パンや惣菜パンが机の上で山となっており、今のボクにとっては、まるでその全てが光り輝いて見える。
「昨日はあんドーナツといちごミルクで大喜びだったでしょう? でも幸子ちゃんは何が好物か聞いてなかったことを思い出して、取りあえず目についたものを片っ端から買ってきたんだよ。さあ、何でも好きなの食べていいよ」
こんなものを目の前にして、我慢できるわけなかった。今すぐにもパンの山に飛びつきたそうに、落ち着きなくソワソワと身じろぎしてしまう。
「でも…ボク、今お金が…その…それに前の分も返せてないし…」
「私と幸子ちゃんの仲だし、そんなの必要ないよ。どうしてもって言うなら、貸し一つってことにしといてよ。まあ貸しを返してもらうのは、いつでもいいけどね。それよりも、早く取らないと、私から先にもらっちゃうよ?」
美咲さんの言葉にコクコクと激しく頷き、今はとにかく宝の山を崩すことに集中するべきだと考えて、そっと手を伸ばして、目についた一つを掴み取る。
「あら、幸子ちゃんはミックスサンドが好みですか?」
「いや、一番近くにあったから何となくだよ」
笑顔で麗華さんが聞いてくるが、本当にたくさんありすぎて、どれを食べたものかと考えあぐねた結果、何となく一番手前に転がっていたミックスサンドを手に取っただけなのだ。そんな会話をしている内に包装を剥がし終え、サンドイッチをあーんと小さな口をあけて奥に運び、モグモグと咀嚼する。やはり飽きない美味しさというものは、いつ食べても懐かしい味を楽しめるので安心感がある。
噛み締めるたびに美味しさが広がり、最高の笑顔で昼食を満喫する。一つ、二つとミックスサンドがボクの口の中に消えていく。やがて全て食べ終わったので、美咲さんにお礼を言う。
「とても美味しかったよ! 美咲さん、本当にありがとう!」
「あっ…うん、美味しかったのはわかったけど、幸子ちゃん、その顔は他の人に向けないようにしようね」
ただお礼を言っただけだけなのに、注意されるのは納得できなかったが、美咲さんが間違ったことを言うはずがないと考え直し、その場は取りあえず頷いておくことにした。するとサンドイッチを食べ終えるまで、会話に入るタイミングを待っていたのか、近くの女生徒の一人が、菓子パンを片手に話しかけてきた。
「幸子ちゃん、アタシも菓子パンをあげようか? もちろんお金なんていらないよ。これは純粋な善意だからね」
「えっ…本当? お腹すいてたんだ! 嬉しいよ! ありがとう!」
いくら体は小さくても一応は育ち盛りなため、流石にサンドイッチ一つだけでお腹いっぱいというわけにはいかず、この施しは素直に嬉しかった。
自分の席に座ったままのボクは近寄ってくる女生徒を相手に、若干上目遣いになりながら、笑顔でお礼を言う。その瞬間だった。
今まで関わろうとしなかったクラスの皆が、急にガタガタっと一斉に立ち上がると、雪崩のようにボクの周りに集まってきたのだ。
「俺もパンあげるよ!」「私、珍しい菓子パンもってるよ!」「俺は運動部だからガッツリしたパンもあるぜ!」「パンだけじゃ喉が乾くでしょう? 紅茶もあげるわ!」「いやいや俺だって…」
あれよあれよと言う間に、元は美咲さんが買ってきたパンで作られた小山は、教室中の生徒から貰った新たなパンも追加され、大きな山に姿を変えてしまった。
為す術なく次々と積み上げられていく惣菜パンの山を眺めながら、ボクはこうなった原因が。どうしても思い浮かばなかった。
皆から受け取ったパンの山だけでなく、さらには紅茶やジュースを抱えながら、途中までは美咲さんに半分持ってもらい、かなり苦労しながらも何とか自宅に帰ってきた。今日も父は留守だったが、家を留守にするのは珍しくはないので、気にしないことにした。
受け取ったパンと飲み物はかなり重かったけど、これで当分の間は食事の心配をしなくていいなと思い、賞味期限の早いものと遅いものに振り分け終わると、パンだけだと栄養が偏るので、他の食材を買いに外出することに決める。
さっそくタンスの中から昨日受け取ったお給金を取り出し、お札を数枚ボロボロの財布に突っ込むと、制服をハンガーにかけて、クローゼットから古くなり少し色が落ちてはいるが、外行きの動きやすい服装に着替える。
昔から体型は殆ど変わっていないので、子供用の服が今でも問題なく着られるのが救いだった。そして家を出て地元のスーパー目指して歩き出した。
今が旬で安くなっている野菜をいくつか買い、エコバッグに詰め込むと、暗くなる前に家に帰ろうと早足に歩く。
やがて小さな公園の横を通り過ぎようとしたとき、助けを求めるような猫の鳴き声が聞こえたような気がして振り返ると、ボクと同じぐらいの身長の男の子たちが、後ろ足を引きずっている老猫めがけて、小石を投げている場面を見てしまった。
「だっ…駄目!」
あとはもう無我夢中だ。まずは石を投げている子供たちを止めるのが先なのだが、ボクと彼らは同じぐらいの子供にしか見えない。しかも中身は男だとしても、見かけは小さな女の子だ。下手をしたら言うことを聞かないだけでなく、逆に怒り出してより酷く老猫を苛めるのかもしれない。
とにかく猫を助けるために子供たちを止めるのではなく、あろうことか買い物袋を放り出して走って老猫に駆け寄り、上からギュッと全身を包んで抱きしめると、亀のように縮こまって守ろうとしてしまった。
「あいた…! いた…っ! 痛い…!」
突然現れた乱入者に、石を投げていた子供たちはびっくりしたものの、一度放ってしまった石の勢いは止まらない。そのうちのいくつかが当たり、ボクの体を傷つける。
しかし多少の血が流れても、目の前の老猫を離すつもりはないのがわかったのか、見た目は子供と同じ背丈のボクに向かって、石投げを止めて近寄ってくる。
「おい、退けよ。その猫は俺たちの玩具なんだよ」「そうだぜ。石が当たると、いい声で鳴くんだぜ」「そうそう、足を引きずってるから当て放題だぜ」「本当にいい的だぜ。お前もやってみるか? 面白いぜ」
子供たちは口々に好き勝手なことを言っているが、傷ついた老猫の上から退くつもりはなかった。説得は無駄かもしれない。いざとなったら猫を抱えて逃げようかな。
でもボクは体力ないし逃げ切れないかもと内心で震え、目だけは彼らのほうに向けつつ、恐る恐る口を開く。
「あのさ、こういうのは止めたほうがいいよ。石ぶつけられると痛いし、猫が可哀想だよ。 それにこの子、首輪がついてるよ。今ごろ飼い主が捜してるかもしれないし…」
そう言った瞬間、子供たちはボクにあからさまな嫌悪感をぶつけてきた。きっと同い年かそれ以下にしか見えない小さな女の子に、自分たちの行動を真っ向から否定されて悔しいのだろう。別に馬鹿にしたつもりはなかったが、男のプライドという奴だろうか。
一番近くの子供たちの一人が、このっ!と手握り、そのまま振りあげた。ボクは殴られる!と恐怖し、目を閉じて老猫を庇いつつ、ギュッと身を縮こませる。
だが、いつまでたっても痛みは襲ってこず、疑問に思ったボクは恐る恐る目を開けて、もう一度子供たちのほうに視線を向ける。すると、さっきまでいなかった若い男性が、ボクを殴ろうとしていた子供の手を、背後からガッシリと掴んでいた。
「なかなか面白い遊びをしてるな。次は俺に向かって石を投げてみるか? 遠慮するなよ。仲間外れは寂しいだろうから、全員まとめて相手してやってもいいぜ」
そういうとお兄さんは、振り上げた腕を掴んでいた手をゆっくりと離す。子供たちは皆、突然の乱入者に恐怖したのか、顔を見合わせると一目散に公園から走って逃げ出した。
「これ、アンタのだろう?」
そう言葉を続け、助けてくれたお兄さんは公園の入口で慌てて放り出してしまった、買い物袋を差し出してくれた。ボクはたった今思い出したとばかりに、びっくりして立ち上がると、深々と頭を下げて助けてもらったお礼を言って、買い物袋を受け取る。
「ええと、アンタ…いや、女の子に対してアンタはないか。確か綾小路…綾小路幸子ちゃんだっけ? ほら、俺も同じ一年一組のさ」
確かにボクは一組だけど、目の前の彼は記憶にない。首を傾げていると、彼はやがて胸ポケットからメガネを取り出し、そっと身につけた。その瞬間、思い出した。確かに彼は同じクラスにいたのだ。
「あっ! もしかして、葉月君!? え? でも何でメガネ外してたの?」
「やっぱり気づいてなかったんだな。あとメガネは伊達だぜ。これつけてないと、女生徒が蝿のように寄ってきてうるさいのなんの。あっ…言い忘れたが、このことは秘密で頼むぜ」
確かにメガネを外した葉月君は、同じクラスのアイドルや、生徒会長とも引けを取らない程のイケメンパワーを感じる(綾小路比較)
万一素顔がバレてしまえば、女生徒たちに囲まれ、黄色い声援を毎日のように浴び続ける展開は想像に難しくない。もっとも、元男であるボクは、別にときめいたりはしないが。
そんなことを考えながらも、彼のお願いに黙ってコクコクと頷く。
「しかし幸子ちゃん、無茶し過ぎだぜ。俺が止めなきゃどうなっていたことか。何より、その猫どうするんだ? 随分と懐いてるようだが、家で飼うつもりか?」
いきなり下の名前で呼ぶとはかなり気安い男のようだ。これもイケメンのなせる技か。しかし元が同じ男であるボクには、そのぐらいのことは慣れているので、気にしないことにする。
ふと気づくと助けた老猫が、亀のように地面に張り付いていたものだから、すっかり土まみれになってしまったボクの体に、スリスリと擦り寄ってきていた。
「ああちょっと、そんなに擦り寄ると汚れるから駄目だよ! ええと、家で飼うのは父さんがいるから無理かな。明日学校で飼い主を探すつもりだよ。後ろ足や石を投げられて出来た傷を治療するのも、多分ボクだと獣医さんに払うお金が足りないだろうし」
葉月君はボクの答えに、そうか、と小さく呟いた。
「とにかく、助けてくれた葉月君に、これ以上迷惑かけるつもりはないから安心してよ! 応急処置ならボクでもできるだろうし、一晩預かるぐらいなら何とかなるよ。今日は本当にありがとう! また明日学校でね!」
いつの間にか空は夕焼け色でなくかなり闇が暗くなってきたので、これ以上話し込むのはマズイと考え、早々に切り上げることにする。
最後に葉月君にもう一度深々と頭を下げて別れ、公園の水場でハンカチを濡らして体に出来た傷を簡単に拭うと、帰る前に近くのコンビニで、包帯や猫餌、猫砂などを買い込み、早足で帰路についた。
壁紙の剥がれかけた部屋に、老猫を連れ込み、水とキャットフードを与えると、よほどお腹が空いていたのか、おいしそうに食べていた。
そして食べ終わって満足したのか、大きくあくびをして、古い毛布で作った猫用の簡易寝床で丸くなり、幸せそうに寝息を立てはじめる。
「応急処置はこれでよし…っと、流石に後ろ足の怪我はボクじゃどうにもできないし、やっぱり獣医さんに見せてくれる人を探すしかないかな。できれば元の飼い主さんが理想だけど」
今日も色々あったけど、明日は老猫の飼い主探しをしないとなと考えながら、買ってきた旬の野菜にマヨネーズをかけて簡単なサラダを作り、学園でもらった惣菜パンと一緒に食べる。そのままお風呂に入って、石が当たった箇所を念入りに消毒する。
ちょうどおでこの辺りが痛みはしないものの、思ってたよりもずっと大きな痣に見えるようなので、明日はガーゼを貼って登校しようと心に決める。
そんなことを考えつつ、ボクはゴソゴソと布団に潜り込んだ。