七月 旅行(2)
やがて一学期の終業式もあっという間に終わり、連日やかましい蝉の声を聞きながら、夏休みの宿題の消化と佐々木食堂のアルバイトで、それなりに忙しい日々を過ごしていると、いつの間にか海旅行に出発する日の早朝になっていた。
ボクは真央さんが夏場の外出用にと買い揃えてもらっていた中での一着、お気に入りの涼し気な白のワンピースと麦わら帽子をかぶり、旅行用の荷物が入った子供用の可愛らしいリュックを背負うと、いつもの通学時間よりもかなり早く家を出て、通い慣れた道を通って美咲さんの待つ佐々木食堂へと向かった。
「おはよう、美咲さん」
「おはよう幸子ちゃん。こうして学園の制服じゃない私服姿を見ると、本当に高校生には見えないね」
男らしく硬派な柄のTシャツと、薄手の生地で作られた紺のロングスカートという、ラフな格好の美咲さんが明るい笑顔で出迎えてくれた。本日の予定としては、移動手段は電車では目立つため車ということになっている。集合場所は学園の正門に集合で、夏休みでも部活や補修などの生徒はいるが、早朝ならば人は少ないので問題ないとのこと。
美咲さんと一緒に電車に揺られていつも通りに学園に向かう。早朝なだけあり、ボクたち以外の乗客は殆どいない。そのまま二人で今日の海旅行楽しみだねーと、和気あいあいと取り留めのない話をしていると、やがて学園の正門が見えてきた。
「皆、もう来てたんだ。おはよう」
「麗華ちゃん、皆おはよー!」
皆は早くに集まっていたようで、外行きの服装も各々がビシっと着こなしていて、遠くからでも美男美女のオーラが見えそうになっている。ボクたち二人の挨拶を受けて、皆にこやかな笑顔で返してくれた。
「二人とも、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「よっ! 幸子ちゃん、おはよっ! 私服はとても似合うが、本当にちっちゃな子供にしか見えないぜ!」
「何だか久しぶりに会った気がしますね。綾小路さん、佐々木さん、おはようございます」
「さち…あっ、綾小路さんと佐々木さん、おはようございます」
そこでボクは生徒会長だけが、まだ来ていないことに気づく。すかさず麗華さんが、聞かれると思っていましたとばかりに疑問に答えてくれた。
「車は健二の家が出すことに決まりました。運転手と一緒に、そろそろ来るはずですよ。あら? 噂をすればですね」
遠くから車のエンジン音が近づいてくることに気づき、麗華さんと同じ方向に視線を向けると、巨大なキャンピングカーがこちらに向かって走ってきて、ボクたちの前でゆっくりと停車する。
「ボク、てっきりワゴンやハイエースで、別荘まで移動するかと思ってたよ」
「私もだよ幸子ちゃん。それ以外にも黒いリムジンも可能性としては考えてたけど、…これはちょっとね」
呆然とする庶民派の二人を置き去りにして、時間通りですねと麗華さんは満足気に頷く。
そして助手席の扉が開き、生徒会長が降りてきた。
「おはよう。どうやら全員揃っているようだな。旅行中は睦月の家が送迎の手配をすることになっている。よろしく頼む。立ち話も何だ、取りあえず乗ってくれ」
後部の扉を開けて、乗車をうながす。皆それぞれの荷物を片手に、ぞろぞろと乗り込んでいく。
「綾小路さん、行きますわよ」
花園さんがいまだに棒立ちしていたボクの手を取り、一緒にキャンピングカーに乗り込む。
「ふふっ、こうしていると、綾小路さんとは本当の姉妹みたいですわね」
一緒に乗り込んだ花園さんは、適当な席に腰かけると、その隣の席をポンポンと軽く手で叩く。そこに座るようにという意思表示なのだろうが、別に断る理由もないので素直に従うことにする。
その後、背が届かないのでボクの荷物を棚に閉まってもらったあと、花園さんの隣の柔らかな座席にもたれかかる。
「少し目を離した隙に私の幸子ちゃんが! やはり慢心はいけませんね」
少し離れた席に座っていた麗華さんから何やら聞こえたかと思えば、すっくと立ち上がり、ボクの正面にツカツカと移動してくると、流れるような動きで隣の席に座る。
現在花園さんと麗華さんの二人はボクを挟んで座っており、口では何も喋らないが、互いに視線を交わし、間には火花が飛び散っているように見えた。
「全員乗ったようだな。では、出発する」
生徒会長の一言で、キャンピングカーが海に向かって走りはじめた。全く揺れたようには感じなかったので、窓からの景色を見てはじめて、今動いてるんだなと気づいたぐらいだ。しかしこの車はこれだけの人数が乗っても空きスペースは広く、まだまだ余裕があるようだ。
「健二が子供の頃に家族旅行のために特別に作らせたとか。でもあまり時間が取れずに、結局数回しか使われずに定期的にメンテナンスはしているものの、ずっと車庫の片隅で眠らせていたため、今回の海旅行での使用はちょうどよかったらしいです」
多少古いとはいえ、睦月グループが妥協せずに作りあげた特注のキャンピングカーだ。どれだけのお金がかかっているのかと、ボクは今座っている自分の席を恐る恐る指先で触れて、全く抵抗なく深く沈んでいく感触に背筋が寒くなる。それとは別に、何時間ぐらいで海に着くのか気になったので、聞いてみた。
「睦月家のプライベートビーチは色々あるが、今回は一番近い場所を選んだからな。高速も使えば到着まで二時間はかからないと思うぞ」
助手席に座っている生徒会長が答えてくれた。しかし、何もしない二時間はかなり長く感じる。退屈なら窓から流れる景色を眺めていてもいいかなと。そんなことを考えていると、他の皆も暇なのか、これからどうする?と相談をはじめ、色々な意見がでてきた。
「なあなあ、海に着くまでどうするよ。風景を眺めるにしても、二時間ずっとは流石に辛いぜ」
「そうですね。キャンピングカーですから、燃料補給以外でサービスエリアに寄る必要は、ほぼありません。そして当然満タンでしょうし…」
「私は、カードゲームとかで時間を潰すのがいいと思うな」
「せっかくなので綾小路さんと…いえ、皆と一緒に、お菓子でも食べて過ごしたいですわね」
「皆色々と意見があるようだね。綾小路さんはどうしたいの?」
「うえっ!? …ボク?」
何となく後ろに流れる景色をぼんやり眺めていたボクは、突然の指名に驚いて返事を返すと、いつの間にか皆が注目していることに気づく。何かを期待するような五人の視線に内心動揺しながら、それぞれ自由に過ごせばいいよとは答え辛く、小さな頭を必死に回転させる。
「えっええと、トランプで遊んで、早くあがった人はお菓子を食べられる…とか。疲れたら景色でも見てたりさ…やっぱり駄目かな?」
「なるほど、最後まで残ってしまうと、いつまでもお菓子が食べられないため、それなりに真剣な勝負になりますね」
「いいぜ! 絶対に一番に抜けてやる!」
「私もお菓子が食べられるように、頑張るよ」
「綾小路さん、もし最下位になっても、わたくしの分をあげますわ」
「どうやら決まったようだね。トランプということだけど、遊べる種類が多いから迷うね」
その後海に着くまで、トランプでババ抜き、七並べ、神経衰弱、大富豪などで遊んだ。お菓子がかかっているため、皆それなりに白熱した勝負になった。しかしボクの結果は散々なものだった。
「またボクが最下位…何故だ」
「綾小路さん、あーんですわ」
何度勝負を変えても、ボクは最下位から抜け出せなかった。ちなみに一位は麗華さん、二位は神無月君、三位から五位はわりと変動しつつ、葉月君、美咲さん、花園さん、そして不変の最下位はボクという順番で、ほぼ固定されていた。
「うぅ…どうして勝てないの…。とても辛い」
「幸子ちゃんは、すぐ顔に出ますからね。まあコロコロ表情が変わるから、そこがとても可愛いのですが。こちらもどうぞ」
麗華さんと花園さんが最下位のボクに施しという名目で、交互にポテチやポッキーなどのお菓子を食べさせてくれる。超絶美少女に左右から挟まれており、口を開くたびにお菓子と一緒に彼女たちの柔らかメロンも否応なく押し当てられる。
健全な若い男なら、幸せのあまり昇天するのではなかろうか。しかし元男でも今は女子高校生の自分には、マスコット的な扱いを受け続ける羞恥心以外は、別に感じなかった。
「そろそろ海に着くぞ。皆、降りる準備をしてくれ」
ゲーム中にときどきお菓子を差し入れに行った助手席の生徒会長から、声がかかる。ボクは雛鳥が餌付けされる気分ってこういうなのかなと体育祭のときと同様の気持ちを抱きつつも、窓の外から見える広大な青い海に思いを馳せて、何もいわずに施されたお菓子をポリポリと齧っていた。これを食べ終わったら、またボクの荷物下ろしてもらわないとね。
キャンピングカーから降りたボクたちの前には、青い海と白い砂浜が広がっていた。そして少し離れた周囲は、草木の茂る緑の丘に囲まれた盆地のような地形になっていた。殆ど人の手が入っていない自然のままの美しさだ。まるで同じ日本とは思えない光景に、思わず言葉を失う。
そのときふと視線を感じて後ろを振り返ると、数台の黒い乗用車がボクたちとは少し離れた場所に、目立たずひっそりと停まっていた。ボクが視線を向けたことに気づいたのか、すぐに生徒会長が答えてくれた。
「アレが気になるのか? 彼らは俺たちのボディーガードだ。流石に月の重要人物がプライベートビーチとはいえ、護衛も付けずに行動するわけにはいかないからな。まあ基本的には監視のみだ。気にする必要はない」
確かにボクと美咲さん以外は皆、大企業と強い繋がりがある重要人物だ。改めてお金持ちの集団の中に混じる場違い感を思い知らされる。そしてボディーガードに見られることを一切気にせず、生徒会長が先頭に立ち、少し山側に向かってしばらく歩き、社員用の別荘にしてはやけに巨大な建造物に皆を案内する。
裏手には今もしっかりと整備されている遊歩道が、林の奥へと続いているのを見つける。
「まずは各部屋に荷物を置かないとだな。そういえば部屋割りは決めてなかったか。一応社員用のため、百人単位で宿泊できるようにはなっているが、どうする?」
入口をくぐると、別荘というには明らかに大きく、本格的な旅館のように広々としており高級感が漂う内装に、またも驚いてしまう。
「それにしても、思っていたよりも片付けられていますね。これなら室内も大丈夫そうですね」
「一年に何度かは大掃除をさせているが、今回は前日に選び抜いた業者を入れて、徹底的に行ったからな。月の関係者が泊まるんだ。客室についても万が一にも手抜かりはないさ」
麗華さんと生徒会長が部屋割りについて話し合う横で、葉月君はフロアの来客用ソファーにどっしりと腰かけ、神無月君は一面ガラス張りの窓から見える海を楽しそうに眺め、花園さんはフロントの机の前に移動し、指先でツツーと埃が残っていないか念入りにチェックを行う。いまだに入り口から一歩も踏み出せずに、立ち竦んでいるのはボクと美咲さんだけだった。
「さて皆さん、一泊とはいえせっかくの旅行です。ここは男子部屋と女子部屋の大部屋二つのみ使わせてもらうことにしましょう」
つまり、男子三人と女子四人で別れるようだ。皆は反対する理由もないので、このまま進めることにする。ボクも個人部屋で退屈な時間を過ごすよりもいいかなと思い、口を出さずに成り行きを見守る。
「反対意見もないようだな。そちらのフロント係に各自の部屋の鍵を渡してもらうといい。部屋番号も記入されてるから、迷うことはないだろう。一応言っておくが鍵は無くすなよ。それでは、荷物を部屋に置いたら、着替えて正面玄関に集合だ」
生徒会長の号令が終わると、ボクたちは自分の部屋に歩き出した。取りあえず二階に上がり、女子部屋の鍵を開けて荷物を下ろす。
「そういえば麗華さん、普通こういうのは砂浜の更衣室で着替えるものじゃないの?」
「本日の旅行のために特別に雇った従業員はいますが、基本的には貸し切りです。他人の目を気にする必要は一切ありません。プライベートビーチ内の全施設は、各々が自由に使っていいのです」
流石はお金持ち。庶民とは考えのスケールが違いすぎる。ボクは自分の荷物に手を入れてガサゴソと漁り、用意しておいた水着を取り出した。すると近くで着替えはじめていた美咲さんが、それを見て驚いたような顔をした。
「あの…幸子ちゃん、それ…何?」
「え? 水着に見えない? 一応学園では何度も着たことあるんだけど」
ボクが用意したのは学園指定の水着だ。美咲さんは絶句したままだが、ここでもたついて皆を待たせるわけにはいかないと、いそいそと着てきたワンピースを脱ごうとすると、麗華さんがそこに待ったをかけた。
「幸子ちゃん、普通こういう旅行では特別な水着を用意してくるものですよ」
「いや…だってボク、アルバイトしててもお金あまり持ってないし…」
全てを真央さんに頼りきるわけにはいかない。自分の身の回りのことは、なるべく佐々木食堂のアルバイト代でやりくりすることを心がけていた。
すると突然、花園さんが両手をボクの肩に置いて真剣な表情で話しかけてきた。
「綾小路さん、女の子はたとえお金が少なくても、オシャレに関しては妥協しないものですわ。こんなこともあろうかと、わたくし…イイモノを持ってきましたの。きっと似合いますわ」
肩に置かれた手に徐々に力が込められ、さらにジリジリと距離を詰め、鬼気迫る表情の花園さんの言葉に威圧されてしまい、ボクの中に、はいかイエス以外の以外の選択肢は消え、黙って彼女の言葉に従うしかなくなってしまったのだ。