七月 旅行(1)
体育祭という一大イベントも無事に終わり、七月に入り夏休みも目前となった今日、学園ではプール開きが行われた。一応屋内プールはいつでも入れるのだが、そちらは基本水泳部のみの使用なので、一年のボクにとっては入学以来初のプール授業だ。
制服の下に水着というお約束はせずに、きちんと別々に持ってきているので、そんな恥ずかしい失敗はしない。現在は女子更衣室で、クラスメイトと一緒に学園指定の水着に着替えているのだが、ボクは目の前の美咲さんの一部分をマジマジと凝視してしまっていた。
「あの…幸子ちゃん? どうしたの?」
そして次に視線を自分のモノに合わせ、両手でペタペタと触る。驚くほどにそこには何もなかった。ボクは泣きそうな顔をしながら、もう一人の友人、麗華さんも観察する。
「ええと、大丈夫よ。幸子ちゃんもそのうち大きくなりますよ。…多分」
麗華さんが聖母のように微笑みながら優しく慰めてくれたが、最後の多分という言葉でそっと視線をそらしてしまう。しかしボクは騙されない。彼女は美咲さんよりも明らかに大きい。それはもう、パッツンパッツンでいまにもこぼれ落ちそうなぐらいだ。
これが持つものと持たざるものの差なんだなと、自分の胸に手を当てながら、ボクは諦めの境地に達し、見比べても虚しくなるだけなので、もはや何も考えまいと大人しく学園指定の水着に着替え、肩を落としながらプールサイドに向かってトボトボと歩き出した。
ボクが屋外のプールサイドに出ると既に多くの生徒が集まっており、思い思いのグループにわかれて、皆それぞれ楽しそうに談笑していた。この学園では今回のような体育の授業では、一組だけでなく他のクラスも一緒に行う方針なのだ。
さらに初日ということで特別なのか、準備運動を終えた生徒からいつプールに入ってもいいという自習に近い授業のため、皆が皆好き勝手に楽しんでいた。
ボクは何となく周囲を観察すると、神無月君が女子生徒に囲まれているのは当然として、体育祭からメガネの着用を止めた葉月君も囲まれていた。おまけに麗華さんまでもが、大勢の男子生徒に囲まれている。それは蟻の這い出る隙もない程の人だかり、絶対包囲網である。しかし男である以上は、あの凶悪サイズにはどうしても反応してしまうから仕方ないよと、口には出さずに心の中でそっと思っておく。
それでも最後の一人は、最後の一人はきっと…と思い、水泳授業のボッチから逃れるために美咲さんを探すが、彼女も数人の男子生徒に声をかけられており、ボクが近寄る隙はなかった。これはボッチ確定かなとボクの気分はどんどん沈んでいき、人の少ない端で体育座りしつつ、暇なので屋外プールのタイルの数を一枚、二枚と数えはじめたとき、目の前に人の影が広がり、一人の女子生徒が声をかけてきた。
「あら? また会いましたわね。幸子ちゃ…コホン! 綾小路さん」
顔をあげたボクは、その女子生徒が花園さんだということに気づき、反射的に胸元を両手で隠し、全身を強張らせる。
「あっ…あのときは本当に、申し訳ありませんでしたわ。もうそのような行為は今後一切致しませんわ。そうそう、直接向かい合っての自己紹介はまだでしたわね。わたくしは花園奈緒、貴女は綾小路幸子さんですよね?」
別に本名を隠したことはなく、既に殆どの学園生徒に知られているので、ボクは警戒を解いてコクリと頷く。それを見て花園さんはほっと息を吐くと、さらに言葉を続ける。
「見たところ綾小路さんはお一人のご様子ですし、もしよろしければ今回の水泳の授業、わたくしと組みませんこと?」
そう言って花園さんは、相変わらずタイルが一枚、タイルが二枚と数えているボクに、そっと手を伸ばしてきた。しかしその手を取るより先に、ボクはあることが気になったので、質問させてもらう。
「今日は、体育祭のときに一緒にいた人たちはいないんですか?」
「うぐっ! そっ…それは、彼女たちとはその…くっクラスが別ですの!」
痛いところを突かれたのか、花園さんは一瞬答えに詰まってよろめき、若干目を泳がせながらも、そう答えてくれた。自分のクラスに友達がいないということは、花園さんはそういうのを作るのが苦手なのかなと、何となくだがボッチのシンパシーを感じ、ボクは心よく申し出を受けることに決めた。
ボクは花園さんに両手を持ってもらい、一番浅いプールでバタ足の練習を行っていた。
「綾小路さんはわたくしが支えていますので、水を怖がる必要はありませんわ」
どうしてこうなっているのかというと、前世ではスイスイと泳げていたため、今世も大丈夫だろうと準備運動を終えて、颯爽とプールに飛び込んだまではいいものの、ものの見事に一メートルも泳げずに、そのまま沈没してしまった。
いち早く異常に気づいた花園さんが引き上げてくれなければ、本気で危なかった。おまけに水深が一番浅い場所でも、身長百三十センチのボクでは足がつかないのだ。これは危険過ぎる。
「そうそう、綾小路さん、なかなか上手ですわよ」
ボクはバタバタと後ろ足で水をかきながら、花園さんと一緒に浅いプールをゆっくり前に進んでいく。そして手を引かれて泳いでいると、どうしても目線が学園指定の水着に窮屈そうに包まれ、水面から出たり入ったりと忙しく揺れる大きなお山に視線が集中してしまう。ちなみに目算だが。麗華さんと同等程度の戦闘力を感じ取っていた。
「大分慣れてきましたね。少しだけ手を離してみましょうか」
そう言って、花園さんは繋いでいたボクの両手をそっと離す。最初はまた水没かと心配したが、思った以上にスイスイと泳いでいく。やがてプールの端まで辿り着いて陸にあがったボクは、離した場所で水に浸かっている彼女に向けて満足げに微笑む。
「そんな…楽しい時間はもうお終いですの? まさか、こんなに早く泳げるようになるとは思いませんでしたわ」
無事泳ぎきって嬉しそうなボクとは対象的に、花園さんはこの世の終わりのような絶望した表情を浮かべたまま、立ちすくんで動かない。何だかわからないが、このままではマズイと思い、プールサイドをトテトテと歩いて花園さんの前で止まり、水に恐る恐る入り、彼女の元まで拙い泳ぎで辿り着くと、今度はボクから彼女の両手を取った。
「花園さん、ごめん。やっぱりまだ上手く泳げないみたい。水も怖いし悪いんだけど、もう少し練習に付き合ってくれないかな?」
ボクの一言で、さっきまで絶望していた花園さんは、パアッと花が開くように明るい笑顔になる。
「しっ…仕方ありませんわね。綾小路さんが、完璧に泳げるようになるまで、わたくしが付きっきりでお手伝いしますわ!」
結局その日のプールの授業では、ボクは泳げるようにはならなかった。少なくとも表向きは。肉体的にはともかく、子供のように拙い泳ぎの演技を続けたため精神的に疲れきっていたボクを、花園さんは背中に手を回して豊満な胸元にそっと抱き寄せると、シャワーを浴びて濡れたボク髪を優しく撫でながら、心配しなくても次はきっと泳げるようになりますわと慰めてくれた。大きくて柔らかな谷間に小さな顔をスッポリと包み込まれ、胸位の格差社会と騙していたことの後ろめたさを否応なしに実感させさられる。
やがて瞳のハイライトは失われ、目の前の彼女にもたれかかる灰のように燃え尽きたボクと、慈愛の表情を浮かべて濡れた髪を撫で続ける花園さんという、まるで姉妹のような構図ができあがった。彼女の心の底からの善意が、今のボクにはとても辛く感じた。
学園指定の水着から夏服に着替え終わって一組の教室に戻ったボクに、先に戻って席についていた美咲さんと麗華さんが話しかけてきた。
「そういえば幸子ちゃん、プールの授業中なんだけど、皆にすごく見られてたよ」
「あのスタイルの抜群の花園さんも一緒でしたから、なおさらでしょうね」
授業中はずっと花園さんを相手に泳ぎの練習を続けていたため、他人の視線に気づく余裕がなかった。そして、二人のことも見る余裕がなかったため、あの後どうなったのか聞いてみることにした。
「でも、そういう二人も、視線だけでなくて、すごいたくさん男子生徒が集まってたよね。実際のところはどうだったの?」
二人は顔を見合わせたあと、あからさまに嫌悪感溢れる顔を隠さずにボクの質問に答える。
「向こうは知っていても、私がよく知らない男の人と、親しげに話すのはちょっとね。それに、友達の麗華ちゃんを狙ってる思惑も透けて見えたから、すぐにお断りしたよ」
「私の場合は、睦月の婚約者なのを知らない男子生徒が殆どでしたね。知っていたとしても関係なく寄ってくる迷惑な男も、かなりの数いますけど」
二人が重いため息をついたのを見て、この流れはよくないと感じて、ボクは話題を変えることにした。
「えっと、とっ…ところでさ。まだちょっと早いけど、二人は夏休みどうするの?」
プールの授業が本格的にはじまり、季節もこれから夏一色に染まってくるため、悪くない質問だろう。ちなみにボクの予定は、夏休みの宿題を終わらせて、土日祝日は佐々木食堂で一日アルバイト生活以外、見事に何もない。ボッチ確定の真っ白な夏休みである。そんなことを尋ねたら、視界の外からいつの間にか近寄ってきた葉月君と神無月君も、興味津々という感じでこの話題に参加してくる。
「なになに? 幸子ちゃん、俺の夏休みの予定が知りたいって? 気になるのなら教えてやってもいいぜ?」
「綾小路さん、女性三人で今から夏休みの計画ですか? 僕も参加させてもらって構いませんか?」
男子生徒の中では比較的仲がいい、この二人が参加してくるのはそろそろ慣れてきたので、別に慌てたりはしない。美咲さんと麗華さんも慣れた様子でどうぞというと、彼らは空いている近くの席に勝手に座る。
「ええと、私はお店の手伝いがあるけど、それ以外の予定はまだ決まってないよ」
「私の夏休みの予定で今の時点で決まっているのは、習い事はある程度調整できますし…。八月の海外旅行と各家のパーティーぐらいでしょうか?」
どうやら美咲さんはボクと同じで夏の予定は真っ白のようが、麗華さんは今の時点でもなかなか忙しそうだ。
「俺も夏休みの予定は特にないぜ。まあ、予定を決めるには、まだ少し時期が早いってのもあるけどな」
「僕はアイドル活動で、夏休みのスケジュール調整がなかなか辛くて…」
葉月君は殆ど予定なしで、神無月君は逆に予定キツキツ、アイドルと学生の兼業はやっぱり大変なんだなとそう思っていると、今度は美咲さんが口を開いた。
「それで、夏休みの予定がどうしたの? もしかして幸子ちゃん、旅行とか行くの?」
こっちから話題を振っておいて、まさか何も決まっていませんとは言えない。実際のところ、ボクの夏休みの予定は連日スカスカで穴だらけなのだが。
「ええと…夏といえば…うっ…海…とか?」
「おっ、幸子ちゃん。海はいいぜ。やっぱり夏は海だよな! それで、何処の海に行くんだ? やっぱり近場か?」
苦し紛れの言い訳に、有無を言わさず葉月君が食いついてきた。そこまでは考えてないとは言えないので、さらに嘘を重ねてしまう。
「じっ…地元の海に行く予定だよ…うん、多分」
「海…いいかも。ねえねえ幸子ちゃん、私もお店の手伝いの休み取れたら、一緒に行っていい?」
美咲さんが空中に視線を向けて何やら想像し、嬉しそうに話しかけてくる。きっと彼女の頭の中では、青い海に白い砂浜が広がっているのだろう。
「うっうん、いいけど…細かい予定とか…まだ決まってないんだ…ないです」
「そうなの? じゃあ僕も綾小路さんと一緒に参加していいかな。友達と一緒の旅行とか、はじめてなんだよ」
そうか。神無月君は純粋に楽しみにしてくれているのか。今さら何も考えていませんでしたとは言えない。すると、麗華さんが助け舟を出してくれた。
「全員参加となると、各自の綿密な予定の擦り合わせが必要になりますね。ここは夏休みの海旅行の計画を一から立てましょうか」
ボクの見栄を張った嘘がバレなくてよかったと喜ぶ反面、これでもう逃げられなくなってしまったという恐怖を同時に味わうことになった。
そして海行きの旅行の噂を何処からか聞きつけ、何故か一年二組の教室から花園さん乱入してきて、綾小路さんはわたくしのお友達ですから!と、クラスの中心で堂々といい放ったのを聞き、恐怖したのだった。
さらにいえば、最初は地元の海水浴場で日帰り旅行ぐらいかなと軽く考えていたが、麗華さんが毎度のごとく生徒会長をメールで一本で呼びつけ、月の家が勢揃いするなら労力を惜しまないと、睦月グループの社員用の別荘を借りることになってしまった。なお、当然のようにプライベートビーチである。
旅行の日取りは、皆の予定を擦り合わせた結果、終業式が終わってからすぐの七月後半に決まった。結果的に、お金持ちの行動力は凄まじいということを、身をもって理解したのだった。