四月 入学(1)
身長百三十センチの小柄な体型のピンクの髪の少女、綾小路幸子は、所々部屋の壁紙が剥がれかけ、とても年頃の少女の部屋には見えない簡素な装飾のなかで、学園入学式を明日に控えた夜、制服や鞄などの全ての準備を終えて、手持ち無沙汰を紛らわすように志望校のパンフレットをパラパラとめくりながら思い出した。
「あっ…ここ小説の世界だ」
今は女性の体だが、前世は男性として何十年かは生きてきたはずだ。
全ての人生経験を思い出すと膨大だが、殆どは靄がかかったように、自分や家族の名前、死因すら思い出せない。
唯一鮮明だったのが、前世の愛読書としてカバーが擦り切れる程読み直した本。今この世界の元となっている、悪役令嬢の小説だ。
内容は王道で、ヒロインが学園に入学し、イケメンの誰かと恋仲になり、とある悪役令嬢が邪魔しつつも、最後には愛の力で乗り越え、ラストはヒロインとヒーローが結ばれてハッピーエンドという物語だ。
だが、原作小説の大まかな流れは何となく覚えていても、肝心の悪役令嬢、ヒロイン、ヒーローの名前や顔は全く覚えていなかった。
「あっ…ここ例のイベントの場所だ。桜並木とかそのままだし。しかしまさか、ボクがTS転生するとは思わなかったよ。その手の小説も何冊か読んだ覚えはあるけど…うーん」
前世の記憶を思い出し、大好きだった小説は多少は覚えていたものの、それ以外は夢のようにおぼろげだったおかげで、綾小路幸子の体に負担が殆どなかったのは幸いだった。
「その手の小説では、大体が悪役令嬢に転生してたし、きっとボクが悪役令嬢としてヒロインに色々と酷いことをするんだろうな。
でも元男だからイケメン攻略なんてしたくないし、うん…まあ何とかなるだろう!
よし! 立派な悪役令嬢になれるように頑張るぞ!」
明日から悪役令嬢っぽく、どう振る舞おうか、学園デビューの仕方や全く覚えていない攻略対象者についてあれこれ考えていると、いつの間にか夜が更けているのに気づいた。
明日のことは明日考えればいいやと、いそいそと布団の中に潜り込んだ。
おぼろげな記憶ながらも、大好きな悪役令嬢として転生できたと思い、ボクは大いに喜んだ。
何事にも前向きなところが幸子のいい所ではあるが、その結果とんでもない事態に巻き込まれてしまい、大いに頭を悩ませることになるのだった。
翌朝早めに目覚めて、二階の部屋から出て居間に降りると、だらしなく中年太りした父親が、空の一升瓶を抱きしめながら、赤い顔をしたままグゴーグゴーといびきをかきながら床に寝転んでいた。
「そうだ。昨日色々あって忘れてたよ! ほら、お父さん。こんな所で寝てると風邪引くよ。寝るなら寝室で寝ようよ」
とは言え、いくら声をかけ、頬をペチペチと叩いても、全く起きる気配がなく、大きな寝息が響く。これはもう仕方ないと早々に諦め、小柄な女の力では辛いが、空の一升瓶を取りあげたあと、父親の両手を掴み、ズルズルと引きずり一階の寝室まで移動させ、慣れた動きで布団に寝かせる。
「今日から遠くの学校で電車通学だから、早めに出ないとね。うわ…やっぱり冷蔵庫にお酒しかないよ。机の上には二百円…これで今日も何とかしろってことだろうなぁ」
台所で冷蔵庫の確認を終えてため息を吐きながらも、父親の世話でかなりの時間を使ってしまったことに気づき、慌てて自室に戻りハンガーにかかった制服を着用し、財布やハンカチ等の最終確認を済ませ、そのまま玄関から出たあとに、しっかりと鍵をかけた。
「とにかく今は入学式から遅刻するのは不味いよ。悪役令嬢としての学園デビューの、記念すべき初日だからね!」
そう呟き、さらにやるぞ!っと心の中でこっそり気合を入れると、駅に向けて歩き出した。
いくら食費が二百円でも、電車の定期はきちんと渡してくれたようで、早めに家を出たおかげか、朝の通勤ラッシュから少しだけズレた時間に、無事あいている席に座ることができた。
周囲は幸子と同じ制服を着た学園の生徒や、出勤中の会社員が、それぞれ他の席に座っていた。
(あと二駅か三駅で、学園前の駅に着くかな?)
今日は入学初日でもうすぐ小説のイベントが始まるため、ボクは落ち着きなくソワソワと身じろぎしながら、頭の中で色々と考えを巡らす。
そんな注意力散漫な状態だったからこそ、気づかなかった。
(まず最初の大きなイベントは、学園の門を通り抜けた先の桜並木で起こるはず。悪役令嬢としての初の見せ場だから緊張するなぁ……あれ?)
駅で止まり、電車のドアが開く。乗り込んできた人たちの中で、二人の中年のサラリーマンがボクの両脇の席に迷いなく座った。他にもあいている席はたくさんあるにも関わらずだ。それだけではなく、ジリジリと距離まで詰めてきた。
(どっ…どうして? こんな狭い場所じゃなくても、他にあいてる席はたくさんあるのに。…ひっ…ひゃうぅ!)
いつの間にか両脇の中年サラリーマンは、ボクの体にもたれかかり、サラサラの髪を弄りはじめた。さらには両足までそっと押しつけてくるのだ。しかも、二人の行為は一向に止まる気配がない。
(何なの! この人たち何なの!? こっ…怖いよぉ…!)
ボクは今まで生きてきた中でも未知の事態に混乱してしまい、あまりの恐怖のため、小動物のように体を縮こまられせて震えていると、突然一人の少女が立ち上がり、声をあげた。
「あの! 今すぐその子から離れてください!」
その凛とした美声は電車の中によく響いた。
薄く茶の混じった短めの髪とボクと同じ学園の制服を着た彼女は、もう一度、今度は先ほどよりも大きな声をあげた。
「早く離れてください! 彼女が怯えています!」
「何だねキミは突然! ただ席に座っているだけじゃないか!」
「そうだそうだ! 酷い言いがかりだ! 何なら名誉毀損罪で訴えてもいいんだぞ!」
彼女の発言にびっくりしたのか、少し慌てて両脇の中年サラリーマンが、少女に向かって交互に牽制し合う。そんな中でも、目の前の彼女はボクのほうを見つめながら、なおも言葉を続ける。
「私も他の人たちも、しっかり見てましたよ。貴方たち二人がその子の体に触っていたのを。何なら次の駅に降りて、駅員さんに突き出してもいいですよ。何しろ、私の他にも証言してくれる人たちは大勢いますしね」
彼女の発言にボクの両脇に座っていた二人が慌てて周囲を見回すと、他の乗客たちからあからさまに軽蔑した視線が向けられていることに気づき、次の駅について扉が開くと、慌てて駆け下りていった。
中年サラリーマンが去り、扉が閉まり電車が走り出すと、安心してボクは大きく安堵の息を吐いた。
ボクが落ち着いたのがわかったのか、茶髪の彼女は隣の席に座って、優しく話しかけてきた。
「怖かったでしょう? もう大丈夫だよ」
「ええと、助けてくれてありがとう。最初はちょっとびっくりしたけど、よく考えたら、少し髪の毛とか触られただけだし、あのぐらいなら大丈夫だよ。
それよりキミのほうは大丈夫なの? 大人相手に声をあげるの怖かったよね?」
ボクの発言に目の前の彼女は、何故か大きく目を瞬かせ言葉を失う。少しぐらい体を触られるぐらい平気だと思うけど。こんな貧相な体には男としてはもちろん、女としても魅力なんてなさそうだし、何か変なことを言ったんだろうか?
少し考える素振りを見せ、再び女の子はボクに話しかけてくる。その前に、今どきこんな天使な子がいるなんて…とか、この子は私が守らないと…とか聞こえた気がしたけど気のせいだと思う。
「とっとにかく、貴女、私と同じ学園の一年生でしょう? ほら、制服同じだし、私は佐々木美咲。よろしくね」
「あっ、うん。ボクは綾小路幸子、こちらこそよろしく」
入学一日目で早くも友達(?)ができるとは、幸先がいい。ボクはにっこりと微笑みながら、身長差が大きいため若干上目遣いになりながらも、佐々木さんにしっかりと自分の名を名乗る。
何か目の前の彼女が照れたように顔を赤くしながら口元を押さえて、目線をそらしたのが少し気になったが。
彼女は同い年なので美咲でいいよと言い、それじゃあボクも幸子でと、そのあとはお互い自己紹介しつつも何事もなく、親睦を深めながら一緒に学園まで行く流れになった。
校門前についたボクたちは、まずは案内板にそって、クラス分け名簿を探す。
「やった! 幸子ちゃんと一緒の一組だ! これからよろしくね!」
「ボクも美咲さんと一緒で嬉しいよ! こちらこそよろしくお願いします!」
取りあえず、知り合いである美咲さんと同じクラスになれたようで、ホッと胸を撫で下ろした。誰も知り合いがいないクラスよりも、断然マシだからだ。
「それじゃ一緒に教室行くよ。はい、幸子ちゃん手を出して」
「あっ…あの、大丈夫です。ボク一人で歩けますから…」
何故か美咲さんは、駅から学校まで、歩くときはずっと手を繋いでいた。
最初は高校生にもなってお手々繋いでは恥ずかしいので拒否したのだが、美咲さんがまるで世の終わりのような絶望した表情を浮かべたので、仕方なく学校に着くまでという条件で、手を繋ぐことを了承したのだ。
「そうだね。入学式とはいえ、そこまで人は多くないし、私が気をつけてれば大丈夫だよね」
「大丈夫ですよ! ボクだって高校生です! 今さら迷子になったりはしません!」
と、美咲さんの言葉を受けて、ボクはない胸を右手で太鼓のようにドンと叩いて決意表明を行う。目の前の彼女だけでなく、何故か周囲の生徒からも微笑ましい視線を感じるが、気にしないことにした。
ボクと美咲さんでは歩幅が違うので、歩く速度を少しだけ調整してもらいながら、桜並木を数分ほど先に進むと、もう少し先の校舎の近くに、何やら人だかりができていることに気づいて、美咲さんが声をかけてきた。
「あれは何だろうね? どうせ横を通るし、ちょっと覗いてみようか」
そのときボクは、ひょっとしたら小説のイベントかもしれないと、内心ワクワクしながら、なるべく平静を装って、こちらを見下ろしながら話しかけてくる美咲さんに向かって、コクリと静かに頷いた。
しかし近くまで寄ったのはいいものの、百三十センチの身長では外の人だかりしか見えない。ウサギのようにピョンピョンと必死にジャンプしたところで、中の様子をうかがい知ることはできず、まさか美咲さんにおんぶしてもらうわけにもいかず、このままではせっかくのイベントを逃してしまうと考え、隣の彼女にちょっと覗いてきますねと断りを入れると、小走りに人だかりの隙間に素早く潜り込んだ。
「いくら如月グループのお嬢様と言ってもやり過ぎですわ! 睦月様は貴女に付きまとわれて迷惑していますのよ!」
人だかりの中には、長く美しい黒髪の一人の女生徒と、たった今声を荒げた金色でロール髪の女性の後ろに、さらに数人の女生徒の姿が見えた。金髪の女子生徒の発言のあとにすかさず、その通りだと言わんばかりの同意を示す。
だが興奮気味の数人のグループとは裏腹に、責められているはずの黒髪ロングの女生徒は、まるでどこ吹く風のように微動だにしない。
「この…! 謝ることすらできませんの!」
いまだに涼しい顔をしている如月と呼ばれた女生徒からの、謝罪がないことで、次第に言葉の端々に苛立ちが混じってくる。
そんなやり取りがされている中で、人垣の隙間からひょっこりと顔を覗かせて様子を伺いながら、ボクは考えを巡らせる。
(何となく小説のイベントとは違う気がするけど。 集団に責められる役はメインヒロインだった気がするし。つまりボクが悪役令嬢だとすると、あの如月さんが打倒するべき敵…なのかな?)
名前や顔が思い出せない以上、大きなイベントの発生条件以上に詳しくはわからない。
けれど、この場での悪役令嬢としての役目はおぼろげにだが理解している。
集団に責められているメインヒロインを、かっこよく助けて周囲に印象づけるのだ。
ボクは人知れず気合を入れて、周囲の見物生徒たちから抜け出し、騒ぎの中心に向かい、一歩ずつ確実に進んでいく。
そして頃合いを見計らうように大きく息を吸い込み、先ほどからやかましく喚き散らしている、女生徒のグループに声をかける。
「何をしているんですか?」
ボクがその言葉を発した瞬間、周囲がシンと静まり返る。
それは罵詈雑言を喚き散らしていた女生徒のグループだけでなく、取り囲んでいる野次馬も同様に言葉を失う。そして皆が幸子に注目する。この小さな幼女はどこの誰で、何故ここにいるのだろうという疑問とともに。
もっとも当の本人は、こんな一瞬で静まるなんて、やっぱり悪役令嬢効果ってすごい!としか思っていないのだが。
そして一番最初に混乱から立ち直ったのは、如月と呼ばれた黒髪の女生徒だった。
「えっ…ええと、貴女は誰でしょうか? 制服を見たところ、私と同じ一年生だと思いますけど…」
「はい、ボクはこの学園の一年生ですよ。そして綾小路グループの悪役令嬢です!
それでもう一度聞きますけど、先ほどから何をしているのです?」
二人のやり取りを聞いた野次馬から、綾小路グループ? お前知ってるか? さぁ…聞いたことないな。そもそも悪役令嬢って何?…などの声が聞こえてくるけど、綾小路はそこまで有名な家ではないのだろうか。
小説の悪役令嬢なら、大きな会社の十や二十ぐらい所持していてもおかしくないんだけど…っと思い至った瞬間、そういえば父親が会社潰してから、家は殆ど放逐状態だったと気づいた。
ボクは失敗したと心の中の嘆きで人知れず冷や汗を垂らす。次に声をかけてきたのは、如月さんを責めていた金髪ロールの女子生徒のグループだった。
「綾小路さんがどこの誰かは知りませんが、貴女の質問に答えますわね。そちらの如月の令嬢が、睦月様にしつこく付きまとうもので、私、花園グループの令嬢として、少し注意をしていましたの。これが諍いの理由ですわ」
ボクは、顎に手を当てて、なるほどーと頷き、続いて今の言葉は本当なの?と、少し首をかしげながら、如月さんを上目遣いにじっと見つめると、
彼女は本当よと答えると、そっと腰を曲げて、愛おしそうにボクの髪を優しく撫でてくる。
しかも如月さんに大人しく撫でられ続けるボクを見て、何故か花園さんがハンカチを噛んで悔しがり、取り巻きの女子生徒たちが羨ましそうに見つめている。
どうしてなのか。こっちは彼女の言葉が本当かどうかが知りたいだけなのに。
さらにボクとしては、立派な悪役令嬢を印象付けるために、双方の意見を聞き、この場をビシっとおさめて、颯爽と立ち去る予定だったのだが、明らかにおかしな方向に進んでいることだけはわかる。
「これは一体何事だ!」
突然の見知らぬ男性の声にボクたちは皆、声が聞こえた方向に注目する。
そして周囲を固める野次馬の向こうから、声の主がこちらに歩くたびに、人垣が少しずつ二つに割れていき、やがてボクと如月さんと花園さんの数歩前に、その男子生徒はピタリと歩みを止めた。
「通報してもらった生徒から事情は聞いて入るが…如月、説明を頼む」
「そちらの花園様とその後ろの方々が、私が睦月様に付きまとっているから、迷惑だ。近寄るなと…」
まるで台本でも読んでいるかのように、如月さんがスラスラと説明を続けていく。
それとは関係ないが、いい加減頭を撫でるのは止めて欲しい。
目線こそ睦月様と呼ばれた男子生徒に向けてはいるものの、彼女の右手は相変わらずボクの頭の上を忙しく撫で続けている。
やがて如月さんは説明し終えたのか言葉を止め、睦月さんが軽くため息を吐くと、若干疲れた顔をしながら周囲に声をかける。
「はっきり言うが、俺は如月の行動を一切迷惑とは思っていない。皆もわかったな?
これでこの話は終わりだ。全員教室に入れ、あと如月はいい加減その女子生徒を自由にしてやれ」
睦月さんの一声で、周囲の野次馬がぞろぞろと教室に向かって歩いて行く中、最後まで残って頭を撫で続ける如月さんの手が一瞬止まったのを逃さず、人垣が崩れてようやく近寄れたのか、心配そうな顔をしてボクのほうに小走りに向かってくる美咲さんの後ろに、素早く隠れる。
「あっ…」
美咲さんにギュッと抱きついたまま後ろに隠れて出てこないボクの様子を、ものすごく残念そうな表情を浮かべて、如月さんが見つめる。このまま頭を撫でるのが終わらなければ、いつかは首の骨が折れてしまうだろう。
何よりも今は、教室に向かうのが先決だ。ボクは美咲さんに早く行こうと制服を引っ張ることで合図を送り、二人で一組の教室に向かったのだった。