夏王朝とクーデター
夏王朝の問題。夏王朝は一度クーデターで滅亡している。タイミングよくこの時期越の血統が分岐する。少康と言う王が復帰するのだが、それがどうなのか?と見ている。夏と言う政治は維持したが、血統は摩り替わってしまったのじゃないか?と見てる。それと言うのもこの簒奪を行うのが東夷勢力になる。
殷は東夷と南下してきた北方遊牧民の連合国家だと見られている。戦車を得意とするのだが、問題は、その習俗自体は東夷文化っぽいからになる。これに関して、遼河文明が北方の遊牧文化を引っ張る形で歴史時代からは発展するので、その初期の形が殷じゃないか?と見ている。
元々ここはツングースとモンゴル高原部族の間となる鮮卑東胡のような草原型遊牧民と山岳民が混じったグループが生まれている。殷と言う民族は西方と繋がりが有る可能性が有る。それと言うのも殷は東北部に多いQ系のグループではない。これについては、あまり確かな情報じゃない。誰が調べたか?分からないが、子孫といわれる孔子のQ系でもなく、アメリカ組のQ系の北方遊牧民と同じグループになる。
匈奴がカザフか?ウイグルの中央アジアQグループなのに対して、周は東北アジアに多いQ系で、殷は北方ツングースに多いアメリカ残留組になる。全くこの3つQだが系統が違う。孔子はこの中で周と同じ系統じゃないか?と見られていて、この点孔子はO2系の可能性も十分にある。
西方の周が東方遺伝子で、東方の殷が北や西方的なモンゴル高原グループになる。この逆転はややこしい。特に殷は確かな情報じゃない。周はかなり可能性がある中国が貴族のいくつかの墓から直接調査したものなので。この血統エスキモーからの南下なので他のQ系と違ってかなり早くから南下して東方に偏ってる。日本朝鮮の古くからわずかに居るQはこの系統そこから東方の血統だと推測できる。
モンゴル高原からの南下ではなくて、東よりの鮮卑にちかい内モンゴルじゃないか?とは見ている。周は民族的にはキョウ族と見て良い。だからD系に近いのだが、この辺り父系は西じゃなくて北方よりのグループが出自だと見ている。
後々まで性質が続くのだが、NORQは皆落ち着かない。世界中移動してるのは、このグループが多い。Cもそういうなら動き回るのだが、どうも人口を増やしつつ動き回るという点でこの4つは特別。何か遺伝的な近縁的性質があるんじゃないか?と思うほど。
Cは特殊要因が大きい。B系の母系が動かした面と、負け組みだった北方のC2系がRのおかげで騎馬民族化して生まれ変わったのが大きい。その後もRと混血する事で西方への移住を果たすため、結局R系の拡散になってしまっている。中国における拡散も同じ、結局O系の拡散に繋がっている。この点、欧州と中国に外れ組のRとOを回帰させたのはC系の功績が大きい。なおかつトルコ、ウラル系のNやQの拡散も手助けしてる。
げいと言われるこのクーデターの王は結局臣下に王の座を奪われて、その後臣下も殺されて、少康が支持されるように戻ってくるとなる。実際はこれどうなのか?とは思う。何故これが疑われてるか?と言うと、まずクーデターが歴史に残ってる点と、少康自ら取り戻す歴史的記述は無い点。最後に、途中から青銅器の価値が大きく上がってくるからになる。文化が初期と入れ替わってしまう。
北西へのルートと関係がしやすい遊牧系かもしれない殷はその点都合が良い。殷はそもそも部族連合で必ずしもQ系が直系の王ではなくて良い。その点、DやO、Cの可能性も十分に高い。それと言うのもこの時期西方で斉家文化と言うのがあり、このあたりがちょうどキョウ族の分布範囲になる。少康は支持されたのではなく、遊牧連合に利用されて傀儡的だった可能性も十分にある。
この少康を最後に夏はどんどん歴史的評価は落ちていくことになるから。甘粛省で最古となる青銅器が発見されていて、これは独自に作ったのか?外から持ってこられたか?は分からない。だがその後斉家文化で精錬された銅の発見と青銅器の発見がある。何故わざわざ銅を使うのか?で用途の問題と、これが基礎から金属精錬を学んで言ってる過程だったんじゃないか?と私は見ている。
おそらくもってきたのはコーカソイド。それをモンゴロイド?のキョウ族が学び精錬したと見ている。彩陶のルーツとも関係するけど、この点微妙に馬家窯文化のものは西方遊牧民文化のものと似てるけど、時期がぎりぎり。それにヤンシャオの方の影響ともう決定されてしまってる面があって中々覆すのは難しい。でも青銅器はコーカソイドと見て良い。馬の飼育の痕跡があるらしい。これは中央アジアではとっくに行われてるが、中国においてはとんでもなく早い。これはそこからの影響と見て良い。
この流れは散々やったので良いと思う。ステップルートからジュンガル盆地を使ってタリム盆地へ移動するってルートがこの時期すでに遺伝的調査で証拠が残っている。他にも中央アジアとの様々な文化的類似点がある。問題はタリム盆地やステップから甘粛省へのコーカソイドの流れがあったか?になる。この点は早くからコーカソイドとの交流があるチベット族が関係してると見てる。
斉家文化も都合よく夏王朝の付近に滅亡する。これらの技術流入と同時にクーデター後に傀儡化があったのではないか?と見てる。良く言えば象徴としての王族。斉家文化をベースとしてるのが夏王朝じゃないのか?ならちと青銅器が現れる時期がずれる。通常なら途中で別の政権に入れ替わってるとしても良い。
ただ歴史に沿うなら、象徴的な王権の維持があったのではないか?と言うのも一つの考えなので。それと言うのも様々な部族連合の集まりなので、誰が政権を取ってももめるから。最古の青銅器は中央からって誤解があるけど、これは青銅器生産が発達したのが中原であって、青銅器自体のルーツは別だと見ている。実際そうだし。他のものはただ出たってだけなので、中原を青銅器の起源にしてるだけだから。
私は当初から、一つの説である、夏はげいのクーデターの時に政権を奪われてるって説に賛同してて、夏は短命だったと見ている。夏がその後の軍事色の強い政権に対して治水事業による推薦と言うある種の理想的な王の有り方だった点に多少疑問を持ってる。そのねじれの解消が途中にあったのじゃないか?と見てるから。
元々殷は遊牧民的な部族連合。王を排除しただけで、途中から殷的な政権に摩り替わっていた可能性がある。遺跡から途中から青銅器文化に変わることが確認されてる。だが同じ遺跡なので歴史そのままに夏王朝の継続政権と見られている。この点も何故中国は夏王朝を実在と出来ないか?がある。どうしても文字無しの考古学的発見だけじゃ歴史的文献とつなげられない限界がある。
少康の王の復帰は怪しくて、実際は夏は負けて越に落ち延びたまま戻れなかったんじゃないか?って見てる。ただ中国は伝統的に傀儡政権でしばらく続くのが多い。特に初期王朝は部族連合の色が強くて、誰かが立つともめるので、こういう形にしてる可能性がある。ただ中国の傀儡政権の伝統は、周の禅譲をモデルにした猶予期間がルーツになってる部分があるので、ややこしい。
最初から禹が居なかったとすれば良いのだけど、実は最近夏の時期に洪水があった事が調査で分かった点。様々な点から南方系が夏の王家のルーツではないか?って点と、洪水で滅亡した良渚文化ってのが重なって、初期の王が洪水の治水に慣れていた可能性とか考えると、先行した良渚文化の末裔ってのは都合が良い。
ただ途中から斉家文化の色が強い青銅器文明に変わってしまう。実は斉家文化は良渚文化から玉の生産の強い影響を受けていて、高い玉を作る技術が金属精錬技術とともに既に備わっていた。最初から良渚文化を省略するのも有りとなる。だが洪水伝説はどうやら本当らしいとなると、禹に近しい人物は居たんじゃないか?とはやはり思うから。次にすでに巨大国家に近い良渚文化の出身者が、夏の基盤を作ったほうが説得力が在る。
そこで途中から変わったんじゃ無いか?といわれてるげいのクーデターが歴史に残ってる点と青銅器文化に変わる時期がそれなりに重なってる点。ここでそのまま内政的な南から東西北の軍事的影響力の高い遊牧文化に入れ替わったんじゃないか?って点。
今回すんません、ハプロについて適当です。その点閑話休題的な話です。
ハプロについてちと寂しいので、勘違いがあるんだけど、良渚文化がミャオヤオの系統だって話があるけど多分ない。長江中流の大渓文化になる。ここでミャオヤオのルーツ的なO2a2a1a2(M7)が出ている。現代O1系とM134の比率が高いけど、ルーツ的にはこれになる。元々北西に居たグループが南下したので、海岸付近の良渚文化がミャオヤオだと言うのはイメージに過ぎないと思う。O1AかO1B1のO1系だと思われる。どっちか?を確定は難しい。O1Aは海岸に強く偏っていて、O1B1は長江全体に広がるって見てる。
殷の話しのソースを見つけたのですが、今度は中国語を翻訳ソフトで。うーん、これ前みたトンデモ記事で、アメリカのインデアンの文明で象形文字が見つかったって話からです。アホクサと一蹴したくなるソースでした…。
ちなみにソシ朝鮮は、鮮卑の系統です。これ入れ替わった可能性大と、そもそも系統詐称の可能性大です。ですが、遊牧系の東北生まれって点は一致します。こっちの方がまだましです。