1-8 その音は優しい
グラスを傾ける。冷たい水がのどを通って心地よい。
そのまま視線をぐるり、店内に巡らせる。趣味の好い内装、柔らかい光量に客層は限定されない。
知っている人は知っている。
知らない人は知らない。
隠れ家のような、密事のような。
この店に連れ立ってくる人間が、案外少ないのはおそらくここを訪れる人間のおおよそがそのようなものと認識しているから。
人は多く『特別』が好きだ。
優越感と己への酩酊。
満たされる。
独りよがりであるとしても。
別にそれにレオ自身が例外であるなんて、言うつもりはないけれど。
横目でとらえるマスターの姿。ぐるり、客を巡って談笑、そしてゆるりとレオのもとへと戻ってくる。
何処までも優雅だ。
そんな彼に口を開く。
「……マスターのところも、貼ってるんだな」
それ、とさしたのは先ほど見わたした先、目に入ったもの。
極彩色のポスター一枚。
「マリア・キャノン?」
僅か、口角をあげてみる。
愉快ではないけれど。
「――ええ、そうですね」
ふわり、笑うマスターの心意はよめない。
マリア・キャノンのライブ宣伝ポスター。何てタイムリー。
そしてめずらかだ。
この店にポスターが貼ってあるのは珍しいことではない。
でもそれは店の雰囲気を損なわないクラシックなものやマイナーなもの。常連が持ち込んだ、それこそ知る人ぞ知る様な。
それが今は美しい歌姫がとりどりの花の中、照明の下では毒々しいと感じるほどに鮮やかな紅色のドレスを纏って微笑んでいる。
異質。
「それも客から?」
聞いてみる。マスターは笑うばかりで答えないけれど。
やっぱり読めない。読めると思ったことはないのだが。
息をついて視線をポスターからはがす。そうすればマスターは笑みを深めて。
「――かの歌姫は、近年周囲が騒がしいようですね」
落とされたそれは世間話か、他愛ない戯言か。
でも意味深。
本当は何処まで知っている?
くすくす、笑うのは二人。
「地獄耳」
「酒の戯れですよ」
レオのような殺し屋と懇意かと思えばそんな情報を掴む人間と親しい。
どんな業界だろう。芸能界、あるいはブンヤ? あるいは法の番人、あるいは。
何にしたって違和感がない。
当然ではないはずなのに。
人間は矛盾しているものだって知っているけれど、この老人の矛盾は格別だ。
笑ってしまう。
自分がちっぽけに見えて仕方がない。
信じてもいない神に、少しだけ似ている気がした。
例えばそれが真実だとして、だからってかしこまる理由にはならないから、自分たちの関係は変わらないけれど。
それが永遠ではないとしても。
落ちた沈黙。
よくあることだ。
不干渉の世界。
――次にゆらりと視線を上げたのは同時で、向けた先はただ一つだったことも、そう、確かに『よくある事』。
何処までも勘がいいのだからいっそ楽しい。そんなものが研ぎ澄まされる必要など迫られない職業だろうに、猶積みあがる老人の不思議。
ともかくレオとマスターの動きは同時で綺麗にそろう。
何の音もしないけれど、それは数秒の話で。
カラリ、ベルが鳴って扉が開いた、そうして現れた白い人。
「いらっしゃませ。お待ちしておりました、ミリアさん」
腰を折る仕草は、何度見たって美しいのだ。