1-7 見えない場所で息をする
カランカラン、ドアを押せばわずか、古びた色でベルが鳴る。
店内に流れるのはマイナーなクラシック。
すっかりと闇に覆われた夜から店内に入れば柔らかな橙色に包まれる。
――バー・イーリス。
先ほどの電話、二つ目の相手の居城。レオとミリアの行きつけの店だった。
さほど広いわけではないけれど客は多い。そんな中、つと視線を上げれば、すぐに目に入るのはカウンター。そこにいるのは一人の老齢の男。
銀色の髪はオールバック、合わせたような銀縁の眼鏡、その奥の瞳は青。黒いベストに伸びた背筋。浮かんでいるのは柔和な笑顔。
レオの視線に気づいた男は笑みを深めた。
「――お待ちしておりました、旦那」
優雅に彼は腰を折る。
「ああ――。久しぶりだな、マスター」
レオも口端を緩め、穏やかに返した。
そうして誘われるまま、カウンターの端、確かに四つ空けられた席へと腰を下ろす。
誤差なくカラリ、氷の音も軽く水を差し出される。
タイミングは完璧。今日の話は仕事が絡む。そんなときにレオは先んじては酒を入れない。
予定など何も言いはしないのに、相変わらず察しがいい。
飲むならば相手が顔をそろえてから。
レオが決めている自分のルール。
よくわかっている。
それを誰にも言ったことはないけれど。それこそミリアにさえ。
目ざとい老人。接客業故か元からの気質か。
侮れない観察眼。
そう思っても笑みが浮かぶのは信頼からか信用からか。
どちらにしろ嫌いではない。
密かな決め事、気づいた一人。
ミリアとは違った共犯者めいたそれ。
酒に関してめっぽう強い己、酔うことはまずはない。それでも礼儀ぐらいは知っている。
礼儀というよりは習慣で、酔わないことが酒への執着へ直結していない事実が大半の理由ではあったりするが。
そもそもこれから会う相手に礼儀が必要かさえ懐疑的。
そんな思考さえ見透かしている?
そうだといわれても納得してしまいそう。
不思議な老人。
彼が営むこの店は居心地がいい。
適度な騒音、適度な不干渉。
おそらくは誰にとっても息がしやすい。
店主の底は見えないけれど。
「……近頃お見えになりませんでしたので、ご心配しておりました」
ふわり、底の見えない店主は笑う。
何処までも穏やか。あらぶったところなど見たこともないほどに。
しかしそういわれてみれば前に店を訪れたのは二月も前であったと思い出す。
行きつけでお気に入り。
この店もそれを経営する彼も。
そうして恐らくは気に入られている。
漆黒の彼も純白の彼女も。
言葉通りの『心配』かは知らない。それでもマスターがレオを気にかけていたのは事実だろう。
「ああ……、まあ、仕事が入ったからな。また来るよ」
くるりと手首でグラスを回してレオは答える。
悪いとは思わない。だから謝罪はしない。
「ええ、いつでもお待ちしておりますよ」
目を和ませるマスターもそんな言葉を求めてはいない。
報告ともいえないような近況報告、生存確認。それで十分。
わかっているだろう?
わかっていますよ。
目線だけの無言の会話。
明確さはいらない。曖昧でいい。
グラスの水を呷る。マスターはグラスを磨いてゆるりと笑う。そのまま隣の客へ。
正しい距離感。
適度な不干渉。
――ああそう、だからこの店は、息がしやすい。