1.5-4 ネア
廊下には軽い足音が響いている。
ネアは思い出したように口元を緩ませた。
「ハギノ中隊長はあ……ほんと、馬鹿ですねえ」
あの日、苛立っていた上司。その実力は折り紙付きの、特務部でも一目置かれた存在。部下として、彼に付従っていくことに、ネアとしての異存は特にない。
認めてはいる。
有能であると知っている。
ただ折に触れて馬鹿だと思う。
「まあ、ハギノ中隊長ってえ、『正義の人』だもんねえ」
この上なく『正しく』綺麗な志と信念を持った人。
犯罪者の心理など、理解できるはずもない。最初から。
だからネアは言った。
イチリュウがマリアを理解しようと思うのが無駄なのだと。
だって彼らは相容れない。同じ景色を同じように見ていない。
ネアが知るイチリュウは、
わかりやすく『正しさ』を謳って、『正義』を信じる人。
誰の影響かは、知らないけれど。
イチリュウが生きる世界はひどく優しく、美しいモノでもあるのだろうか。
ネアは思う。
恐らくは、イチリュウの世界の優しさも、美しささえ、マリアには理解できないでしょう。
イチリュウにマリアが理解できないように、マリアにイチリュウは理解できない。
だって、イチリュウはマリアじゃない。
そしてマリアはイチリュウじゃない。
それなのになんで、理解できるなんて思うの?
『理解出来て堪るか』。
そんな言葉を吐き出した上司の顔は苦々し気で。
ねえ、それはほら、理解しようとしたからこそなのではないですか?
甘いねえ。とても甘い。
それを一応は、『優しさ』なのだろうとネアは解釈する。
ほかのだれかがそれを知って、どう理解するかまでは関知しないけれど。
そこに犯罪者がいて、それを捕縛するのがネアたちの仕事。いうなれば敵と味方。
殺していい人間と、殺してはいけない人間。
それさえはっきりしていればあとはどうということはない。
そうであると、ネアは思っている。
イチリュウが、例えばそうは思っていないとしても。
イチリュウはマリアを理解できない。だってイチリュウはマリアではない。
同様におそらくイチリュウはネアを理解しない。だってイチリュウはネアではない。
理解されたいとは、思わないけれど。
ああマリアと同じことを言っている。
どこかおかしい自分は、どこか外れたあの女と、似通う部分を持つのだろう。
些細なことだ。
なぜなら気にすることが意味をなさない。上司の怒りには触れるかもしれないけれど、それもネアには慣れたもの。
機嫌がいいことが少ないのだからそもそも気を遣う労力が無駄に等しい。
ここ数日は、不機嫌よりはひどく、動揺しているけれど。
――マリアが死んだ。
上司を悩ませていた赤と白の女は、ここ最近では最重要の囚人として扱われていた歌姫。つまりはもっとも厳重に見張られていた女。
それが知らぬ間に脳天をぶち抜かれていればなるほど責任者たるイチリュウの消沈も道理。
その死に様を見たネアは、美しい容姿を持つ女は死さえもこうも美しいものかと感嘆したけれど。
滴る赤が、やはり狂うほどに似合うと思った。
自死ではない。自死であれば死因にもその遺体の整った様にも説明がつかない。
鍵のかかった牢獄はそのままに、聖女のような顔をして。
理解出来なかった女の死を、それでもイチリュウは憐れんでいる。犯人探しに周りと躍起だ。
けれど証拠は上がらない。だから実しやかに囁かれてる。
『死神が、現れた』。
都市伝説。
けれど起こる事件は死体だけを残していつだって下手人は闇の中。
信じてみたい、夢物語。
「会ってみたいなあ、『死神』サンにい……」
屈強な男か、繊細な童女か。……それを捕えることができれば、きっと。
まあ存在すらもあいまいなそれを探すのに特務部が動くわけもなく。
ならば今は目の前の仕事を、あしらおうか。マリアの騒ぎに隠れて逃げ出した魚が数匹。行先は溝川か清流か。ああまた、イチリュウは荒れるだろう。
楽しい楽しい、鬼ごっこをしましょう。
――ネアは『特務部』。イチリュウが何を思おうと、『正義』の顔した人殺し。
だから、『死神』がどこかにいたならば、いつかどこかで会えるでしょう。
けらけら、熱がこもらない笑いを、上げた。