1.5-1 イチリュウ
国内中枢、特務部司令室。
ガシャンっとけたたましく音を立て、デスクについた男は眉間に寄せた皺を深くする。古びたキャスターがギシリと悲鳴を上げた。特務部の予算は大半銃器装備。かえりみられない司令室はいい加減薄汚れている。
不愉快に拍車をかけた。
男のそれは不穏というには緩いが、気安くはない。幾人かの室内の人間は速やかに退室。
空気だけは読めるのだろう。気遣いというよりは保身で、それさえも今は癇に触る彼にとっては賢明というべきか判断しがたい。
少なくとも八つ当たりをする相手は残らなかった。
どうしてくれようか、いら立ちが募る。
男はうなじでまとめている赤毛を掻くようになでる。ちゃりん、黄金のピアスが小さく音を立て、紫紺の瞳は厳しく眇められた。
醸し出される干渉拒否。如実だ。
けれどそこに近づいた、一人の女。
「……荒れてますねえ、ハギノ中隊長?」
へらり、笑う。長い茶髪は右サイドで高く結い上げ、濃いブラウンの大きな瞳をわずかに細めるしぐさはいっそ愛らしく幼げ。無邪気な少女のようにも彼女を見せる。
そんな彼女はれっきとした己の右腕であると知っている男――イチリュウ・ハギノは欠片も無邪気さを見いだせないけれど。
「なんだ、……ニード補佐」
取り繕いもしない低い声。取り繕う必要性も感じない。
案の定、女――ネア・ニードはまたへらり、一笑。
「理解できないってえ、顔してますよう?」
「……理解出来て、堪るか」
あんな女、と苦り切った口調でイチリュウは唸る。ネアは笑みそのまま、ああ、と頷く。イチリュウのデスクに手をついて、乗り出すように。囁く。
「マリア・キャノン。――でしょお?」
イチリュウの眉間のしわは一層深くなった。近い、と言いたげにネアの顔を片手で押しのける。深く息をつきながら背もたれにもたれると、椅子はまたも悲鳴を上げたが知ったことではない。長い足を組み替える。
判っているなら聞くなとばかりのそれを、ネアはへらへら笑って見るのだ。
可愛げのない部下。
理解の出来ない囚人。
どちらも願い下げだ。頭痛がする。
瞼を閉じることで視界から部下を追い出して、イチリュウは思い出す。先ほどまで相対していた女。
今もっとも世間を騒がせている囚人。『世界の歌姫』マリア・キャノン。
つい先日。特務部に下されたとあるホテルへの出動要請。下された指令は歌姫の捕縛。罪状は殺人教唆、殺人幇助、麻薬密売、その他余罪多数。
何処から情報が流れ込んだのかは今をもって判然としない。その割にマリアの罪は確定的。
気味が悪い。
この事件そのものも、マリア自身も。
美しい女だとは思う。思っていた。けれど理解ができない。
捕縛の時。轟く名声に反し不自然なまでに誰も侍らぬ状況で、嫣然と嗤っていた女。真っ白に赤が映えると思った。
『遅かったのね? 待っていたわ、正義の味方さん』
歓迎するような言葉の裏、彼女は何を知っていたのか。
毒花だと、イチリュウは感じた。
あれは、いつかすべてを、腐らす花だ。
『理解してほしいとは思わないわ。……だってそんなもの出来るはずないでしょう?』
淀みなく尋問に答えたけれどひどく愉悦に浸っていたのだ。
『美しさだけが全てなのよ』
それを歌い上げるマリアは限りなく正気の目をしていた。優しげで美しく、ああ傲慢さはすでに彼女は隠さなかったけれど、それでも。
その何処にも、人を殺した狂気がなかったことに、イチリュウは当惑を覚える。
憎しみ、怒り、快楽、私利私欲。
例えば理由は様々でも、その行為には強い感情がある。もしくはいっそ、何もない。
マリアのそれは明確な私利で私欲。なのにあまりに軽薄で理性的。害虫を駆除する必然のように、人の命を語るマリア・キャノンを、イチリュウ・ハギノは理解できない。
彼女は確かに美しい。
それが、いったいなんの免罪符になりえるのだろう。
なり得るはずがない。そんなはずがないのに、尋問官は酔っていくのだ。
それこそ毒が染むように。
ふざけている。
「ハギノ中隊長はあ、優しくってえ、真面目ですねえ」
閉じた瞳の向こう、ネアは笑う。からかうというには熱量の足りないそれで、けらけらと。
「そんなのお、分ろうと思う方があ、無駄ですよう」
なぜならば、イチリュウはマリアではないのだからと。
けらけら、けらけら。
色のないそれを受け、イチリュウは苦虫をかみつぶす。そしてどうしようもなく思うのだ。
……あの人ならば、こんな時、と。
その行為はそれこそ無駄でしか、無いのだけれど。