1-18 偶像の赤
誰かが言った。
『マリア、貴方は美しい。私の全てを貴方にあげよう。だからどうか、私に手に入れられてはくれないか』
熱に浮いた声、眼差し。
それは確かに「愛の告白」であったのだろう。
けれどそんな彼に彼女は答えた。
『貴方がたとえば命を売っても、私を買うことは出来ないわ』
真っ赤な唇、佩かれたのは笑み。
愛でてあげましょうと彼女は言うのだ。
だけど、彼女の価値を他者が図るなんて思い上がりも甚だしい。
必死さは嫌いじゃない。
高慢。慰み。ただ一時の戯れ。
だって美に惑う盲目さが彼女の気に入る所で、その愚かさを評価する。
彼女は美しい。
その心がたとえば歪んでいたとして、そんなもの他人には見えやしない。見てくれじゃない、中身が大切だ、なんていつの時代も人は嘯くものだけど。
中身を正しく図るなんて、神にでもなったつもりのそれこそ傲慢。
知っているから、人は多く老いを嫌い、己を飾り立てるのでしょう?
美しい花に蜜蜂は群がって、けれど花は誰のものにもなりはしない。
毒を注ぎ込んであげましょう。
どろどろの蜂蜜に、溺れて頂戴。
彼女が愛しているのは彼女だけだ。
誰にも摘み取れない一輪の花。
蜜蜂たちは香りに酔い痴れ、毒を吸って堕ちてゆく。
なんて滑稽で可愛らしいのだろう。
マリアは嗤う。
今日はとても、気分が良かった。ライブ当日。仕事は終わり。今日も愛を歌えば彼女はそれだけで愛される。
それが彼女の世界の真理。
そうでしょう?
用意されたスイートルーム。最上階、眺めは合格点。スタッフの態度は落第だけど。だってプロなら仕事をするべき。どれほど彼女が美しかろうと見蕩れて手元がおろそかなんてそんなの許しがたい過失。
もちろんそんな彼は首。
たった一言、それで全部思い通り。
最初から最後まで。
彼女の不興を買ったのだから自業自得。つい先日彼女の気に入る所にとってかわった男と女を、差し向けられないだけ己の幸運を喜ぶべきだ。
そこに何も間違いなどない。
彼女にとっての世界の神は彼女自身。
全てを回す。
――けれどこの世は予想外を作り出すから、眠ろうとしたその瞬間を、狙ったように邪魔が入ることも起こり得てしまう。
夜も深い。機械的な呼び出し音。極めて無粋。
無視をしても途切れない。
気分は急転直下。全部台無し。
仕事が終わればプライベート。邪魔は最も厭うところ。
ほんの少しなら見逃してあげた。だから一度目は少しのお仕置きで許してあげた。それほど彼女は機嫌がよかった。
なのに駄目ね、今日は誰も彼も役立たず。無能。
ボディガード、マネージャー、ホテルの支配人。全員首だ。決定事項。覆らない。怨むなら己の怠慢さを恨むべき。
不機嫌は全開。けれど寄ってくる蜜蜂は彼女の世界を正しく回す。そして己の不機嫌を、誰かに見せるなんてそんな愚行は醜いだけだ。
だから、さあ上手に騙してあげましょう。
――彼女は赤い唇に笑みを佩く。上品で、はかなげで、ただ美しい。
彼女の世界の歯車から、外れたものは全部いらない。だからそう、蜜蜂は生きるために必死で騙されてくれなくては駄目。
それが見たい世界でしょう?
きちんとできたら、そうね、消さないで捨てるだけにしてあげる。
ゆらり、動作は気だるげ。けれど色を纏って凛と立つ。誰が来たって、彼女が上位者。
扉を開く。
迷い込んだ蜜蜂は誰?
笑って、彼女は。
映した色に、息を止めた。