0-0 正答は常に不存在
今までの作品とは全く毛色が違うものを描きたくなったので書いてみました。ボケと突っ込みを排除した作品です。登場人物に思いやりや倫理観が希薄となっていますのでそのような表現がご不快な方はご注意下さい。
一章完結まで連投します。
世界一巨大な国の、一見華やいで見える街。立ち並ぶビル群は圧倒的で壮麗。
けれどそれはそこからわずか、間違えたようにずれた場所。
届く喧騒と車の走行音は都会めいても、どこかひそりと影がさす。
この街では珍かな緑も時間が巻き戻ったような錯覚に一役買っている。
失せた現実味。
ひどく拙い物語の舞台のような。
それでもそう、そこが確かに彼の居場所だ。
ひと気のないバーのカウンター。その中央席、腰かけた彼。
バーだというのに呷るのは水。店の開店はつい先ほど。
調子外れで寂れて見える。
何も知らなければここが一部の人間にはとっておきの秘密のように語られているなんて気づくはずもない。
時刻は夕暮れ、「知っている」人々はやがて静かに席を埋めるだろうけど。
店内にかかる密やかな音楽はマイナーなクラシック。
隙間の時間、一人それに耳を傾ける彼。
いったい何を見ているのだろう、ぼんやりと虚空を映す瞳は虚ろ。
手元では知ってか知らずか、ぱちり、ぱちりと古びた小さなロケットを繰り返し開閉。
やがて、店外から近く人の声。足音はしない。
ここに向かっている事だけは確実。
彼は最後にぱちん、蓋を閉めた仕草はわずかに強い。それを上着のポケットに滑り込ませた。それから強く目を瞑ってまた開く。
開かれた眼、拭われた虚ろさと宿った生気。
身繕いも手早く、水を呷ったグラスを下げる仕草は優美。
壁時計を見て時刻を確認、思いがけない時間の浪費に内心苦笑。
やがてカランカラン……と鳴ったドアベル、先ほどの声の主が入店。
予想通り、仕事の時間の始まり。
彼は最前の虚ろも苦笑もなかったように優雅に振り向いて腰を折り――
――闇を認めて、呼吸を止めた。
折ろうとした腰、口にしようとした定型句。どちらも凍り付いたまま、柔和な光を取り戻した瞳は驚愕に見開かれる。
入店してきた人物が怪訝な色を禁じ得ない様に気づいてもなお。
驚愕、歓喜、恐怖。
余裕はゼロ。
硬直した身体を支配するのは凄まじい動揺。指先さえ一ミリたりとも動かない。
思ったのは夢。
もうずっと昔から、見ては目覚める愚かな夢。
悪夢。
そうでなければあり得ない。
――そう、思う。
けれど確かに射した『闇』はそこに、愚かさを象徴する願いも示さないままただ存在する。
戸惑いを浮かべるその人物、いっそ幼いような表情。
裏腹なのは纏う闇。隠しきれない、踏み込めばどこまでも落ちていけそうなそれそのもの。
ああそう、一度そこに嵌まり込めば、帰って来ることは出来ないのだろう。
そういう類いの闇だと、判ったのは知っていたからだ。
よく似たそれが、ねえ哀しいほどに身近なのだ。
だから、そう。
彼は手を伸ばす。
――醒めない夢に、堕ちるとしても。
伸ばさずにはいられない。
なぜならばそれは彼にとっての奇跡に等しい。
いつの間にか硬直は解け、操り人形みたいにゆらり、勝手に体が動いていく。
どこかでそれを嗤う自分を知っていた。
だってなんて未練がましい。なんて滑稽。
呆れる程に愚かで浅慮。
判っているけれど。
なぜならそれが理解出来る程度には、自分はきっと年を取っている。
けれども止められるほどに、老成してはいないのだ。
誰もが彼を嘲るとしても。
困惑する『闇』をその手に捉えて、深く深く息を吐く。
この世界の神は何処までも残酷だ。
斯くも愚かな希望を見せる。戻れぬ過去を引きずり出して、未来に臨めと甘言をささやく。
その囁きに囚われた。
でももう戻らない。戻れない。
覚悟は決めた。踏み出す覚悟。
夢に堕ちてゆけるなら、彼は何者にでもなるだろう。
✸✸✸
深い深い闇の中、底なし沼に嵌まり込むように、浮上することもなくゆっくり、ゆっくり沈み込んだ。
残酷な世界の神様は、光など射し込む筈もなく、己も見えないその場所で、彼らを出会わせる。
陳腐な言葉を借りるなら、それは運命だったのだろう。