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COLON:SERIES - 異世界への扉と導かれし者達  作者: 暦史書管理機構
シグレの異端争議典
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1-1:望遠鏡の外の景色

“正しくあろうとすることは、正しいことだ”


 いつ、どこで、誰から耳にした言葉か。あるいは本で読んだか、テレビで見たか、はたまた元から心の内にあったのかもしれない。

 出どころも語った誰かも重要なことではなく、権威などに縋らなくとも、その言葉には力があった。

 その言葉自体が正しいのかは分からない。けれど、俺はそれが正しいと信じたい。


 だから──脚に力を込める。横断歩道で転んでしまった少女と、走ってきているトラックを視線だけで見比べた。このまま飛び込めば、少女ごと轢かれてしまうだろう。

 だがもしトラックの運転手が寸前で気づいて、ブレーキを踏んでくれれば。トラックを止めることは無理でも、減速することで少女を掴んで走り抜けられる時間が生まれる。

 どちらにせよ、飛び込まなければ少女は轢かれる。

 そこまで考えた時には、少女を掴んでいた。


「ああ、これは死んだか」


 目の前に迫ったトラックを見て、呟く。少女の身体を抱きかかえ、最後にトラックから逃れるように地面を蹴って、逃げるのが間に合わずにトラックと接触する。

 呆気なく吹き飛ぶ身体。人の身体は軽いものだと理解しながら、空中で体勢を整えて、足の先で地面と接触。衝撃が偏るより前に膝を曲げながら転がるようにアスファルトの上で受け身を取る。

 音が戻ってきたように悲鳴が聞こえ、急いで少女に怪我がないことを確認して息を吐き出す。

 自分も手足が折れていないことや軽い打ち身しかしていないことを知り、俺がやったことながら感嘆の声が出る。


「護身術すげえ」


 何でも習っておくと役に立つものだと思いながら、腰を抜かしたらしい少女に手を伸ばす。


「大丈夫か? 怪我はしていないか」

「え、あ……」

「怖かったか。ぶつけたりはしていなさそうだが……」


 立ち上がった少女を見ていると、俺と少女を轢いたトラックの運転手が出てきたのが見えた。腕時計で時刻を確認すると、約束の時間が迫っていることに気がつく。


「っと、危ないな。急がないと」


 少女に怪我はなさそうだ。周りの人も集まってきたし、面倒な事故の処理をせずに逃げても問題ないだろう。

 約束をしていた友達に遅れるかもしれないと連絡をするためスマホを取り出すが、バキバキに潰れていて乾いた笑いが出る。


「……すみません、俺、友達との約束があるので失礼します」


 そう言い残して、逃げるようにその場を走り去った。




 待ち合わせの場所にしていた大学のベンチに辿りついたけれど、友達はまだ来ていないらしい。

 先程腕時計を見た時には時間ギリギリだったこともあって、少し遅れてしまった。怒って先に行ったのだろうかと思ったけれど、そういう子でもない。

 遅刻するとも思えず、何かに巻き込まれたのかと思って立ち上がったところで、小柄で華奢な少女が遠くに見えた。

 特に異常のない様子に安心すると、少し早足で少女が駆けてくる。


「おはよ。ヨミヨミが僕より早くにくるって珍しいね」

「遅刻したことはないだろ。それより赤木が遅れてくる方が珍しい」

「遅れて?」


 大学の友達、赤木は鞄からスマホを取り出して時間を見て、首をかしげる。


「えと、十時半だよね」

「もう十一時だろ」

「……まだ十時になってないよ?」


 スマホの時計を見せられると、時間は九時五十四分で赤木の言っている通りだ。自分の腕時計を見て……秒針が動いていないことに気がつく。


「悪い、こっちの時計が壊れていた」

「あ、別に遅れて来たわけでもないし、いつも待ってばっかりだったから、待っててもらったの、ちょっと嬉しいかな」


 逃げ出したのは失敗だったか。時間があるなら普通にその場にいて腕時計とかスマホ代を請求すればよかった。

 適当に頭を掻いていると、目の前の女の子はクスクスと笑う。


「どうかしたか?」

「いや、ヨミヨミって、クールっぽいのに、いっつも必死だなーって」

「冗談じゃない。面倒なことは極力避けている俺が、必死になると思うか」

「でも、何かボロボロだし、頑張ってきたんだよね? 偉い偉い」


 どこか掴めない少女は荷物の書類を取り出して俺に見せる。


「ごめんね、おやすみの日にまで、僕の卒業研究を手伝ってもらって」

「別に大したことじゃない」

「面倒なのは避けてるんだよね?」

「一人でやるよりかは、二人の方が余程面倒が少ない」


 そんなに難しい内容でもなく、まだ情報を集めるだけの単純な作業だ。元々一人で出来る量を想定していたこともあり、夕方になるより前にそれも終わる。

 何度も礼を言う赤木に「面倒だからやめろ」と乱雑に言ってから、鞄を背負い直して彼女に別れを告げる。


「じゃあ、また講義とかで」

「あっ、ヨミヨミ、今から時間あったりする? お礼をしたいんだけど……」


 少し顔を赤らめている彼女に向けて、首を横に振って軽く謝る。


「いや、今からバイトが入ってるから、無理だ。礼も別にいい」

「じゃ、お礼はまた後日にするね。そういえば、ヨミヨミってどこでバイトしてるの?」

「ん、秘密」

「別に押しかけたりしないよ? 迷惑なら」


 押しかけられたら確かに困るが、そういうことでもないので、適当に誤魔化すことにする。


「どんなことをしてるかと言うと、人には見せてはいけない小包みを秘密裏にあちらからこちらに移すような……そんな仕事だな」


 俺がそういうと、赤木は顔を青くして首を横に振りながら俺の手を取る。


「だ、ダメだよそういうのは! お金がないなら、僕も協力するからね!」

「いや、冗談冗談。普通のバイトみたいなもんだ」


 それだけ言うと赤木は落ち着いて息を吐く。


「意地悪だね……」

「引っかかるとは思ってなかったんだよ」

「……ん、不服だけど、またね」




 赤木と別れて、腕時計がないので太陽の位置でだいたいの時間を計りつつ仕事先に向かう。

 しばらく歩くと馴染みの本屋に着いて、出された茶をいただきながら店主と軽口を交わす。


「有栖川くんはいつも何かしらに巻き込まれているよね」

「面倒なことは避けているから、気のせいだろ」

「いや、この前来た時も、その前も何かに巻き込まれてたよね? もしかして好きでやってるの?」

「冗談じゃない。趣味でトラックに轢かれたりチンピラ相手に追いかけっことかしてたら命が幾らあっても足りはしないな」


 今日はトラックか。と、店主は笑いながら小包みを俺に手渡す。

 中身を確かめて、不備がないことを確認して立ち上がる。

 赤木に言った「人には見せてはいけない小包みを秘密裏に動かす」というのは、実のところ嘘ではない。

 わざと勘違いさせるように言ったけれど、見せてはいけないものとはいえ非合法なものではなく……古い本だ。

 厳重に包み直してから鞄に入れて、本を運ぶ場所まで近い道を思い出す。怪しまれるような動きをしないように気をつけながら歩いて、それを運ぶ。


 古い本とは暦史書のことである。『歴史』ではなく『暦史』。

 一般的に馴染みのない言葉だろうし、実際知る人はほとんどいない言葉だ。というか、知られてはまずい代物だ。

 言い方は悪くなるが歴史書という物は嘘が多い。

 後世になって研究された結論や、研究すらないフィクション、あるいは歴史上の勝者が都合よく語っただけのもの、それらを真似た贋物と……価値があるようで、実のところ大して信じられたものではない。

 それらとは違い、暦史書とは捻じ曲げられていない事実が綴られている。正しいことを後世に残したいという想い……あるいは……ただ書きたいという欲求、そんな感情を生まれながらに持った人が一定数この世に存在しており、それらが書き記した書物のことだ。

 歴史書とは似ているようで、遥かに異なる書物、それが暦史書だと言えば分かりやすいかもしれない。

 その特徴としては、『基本的に表紙が無地の黒で、表題が白い文字によって書かれている』ことや『人物や組織、事件などについてそれに近い人が綴っている』こと。そして何より特徴的なのは『固有名詞+「:(コロン)」+年代』という決まった様式のタイトルが付けられていることだ。

 先ほど店主から手渡された本は『GIUSEPPE:1387』というタイトル。

 当然だけれど、物は玉石混交で、書かれている言語もバラバラで、地域も様々。つまらないお惚気みたいな物もあれば、歴史の真実に近い本もある。……見せれば歴史がひっくり返る、あるいは……大戦の引き金になり兼ねないものも存在している。

 暦史書を書く人物に根本的に繋がりはない。

 知り合いの学者は「もし、彼等を全員殺したとしても、殺した人物の子孫から彼等が生まれるだろう。人という遺伝子には暦史書を書く使命が埋め込まれている」と語って見せた。

 まぁ、それがどこまで信じられるのかは分からないが……それこそ大昔の繋がりもなかったはずの文化でさえ大量に発見されているのだから、ある程度の正しさはあるのだろう。

 知り合いの気狂い宗教家はこう言っていた。


「暦史書は星の記録を神へ届けるものだ。暦史書著者は星の記録者であり、神へのメッセンジャーなのだッ!」


 気がおかしくなっているのか、はたまた真理を突いたのかは分からないが、そう言った危険な……本だ。

 俺はそれにより世界が混乱しないように収集し保管する組織……暦史書管理機構に所属しており、バイトといったこれも、その一環だ。

 管理とは銘打っているものの、その半数以上は自身の知的欲求のために集めているのが現状ではあるが。

 当然、世界中のそれらを集める組織が小さい訳もなく、日本支部も非常に巨大なものである。


 電車に乗って移動したあと、ビルの一角に入る。顔パスで通され、五階までエレベーターで登り、そこからまた移動し、部屋の一室に入るとまだエレベーターがある。

 管理している人に頭を下げたあと、エレベーターに乗り……地下八階のボタンを押す。

 セキュリティのためとは言え、面倒な作業だ。やっと着いた部屋は打ちっ放しのコンクリート造りで、その割にエレベーターと目の前の扉だけはやけにハイテクな様相である。財布からカードキーを取り出してスキャンさせると開き、潜ると追い出すように後ろの扉が勢いよく閉まる。

 出てきた廊下も打ちっ放しのコンクリートのトンネルに照明が付いただけで、簡素や無骨というにも適当なものである。単に資金面の問題や、質実剛健というか、あまり装飾に執着しない人が多いために放置されているということもあるが、俺はどうにかした方がいいと思っている。




 トンネル内を歩き、一つの扉を開けて中に入る。紙とインクの匂い。少し落ち着く空気を吸ってから、奥に進むと一人の女性が見える。


「あ、有栖川くん。こんにちは、無事に持ってこれた? なんかボロボロだけど」

「これは回収する前のなので問題はない」

「いや、どちらにせよ問題ではあるんじゃないかな……。お茶淹れるところだけど、飲んでいく?」

「先ほど店主からいただいたから、いい」


 今日は少し疲れたから早く帰りたい。無愛想にならない程度に軽く話してから本を預け、部屋から出てビルに戻る。

 散策をしながら帰るには疲れているのでそのまま帰ろうとすると、道端にゴミが落ちてることに気がつき、ゴミ箱も近いから捨てるかと手に取り……そのゴミが何かの本の切れ端であることに気がつく。

 だが、これは……。


「何語だ?」


 俺は暦史書の管理のためということもあり、幼い頃から厳しい教育を受けてきていたので、だいたいの言葉が読める。読めなくとも字体などからどこの文化に近いかぐらいは分かるはずだが……それすら判然としない。

 本の切れ端ということは確かな技術があるので、あり得ないような未開の地ということはないだろう。

 本を作ることが出来る技術の国の言葉が分からないはずも、どの文化の影響もない文字も同様にあり得ない。けれど、悪戯に書いた物にしては並びや筆運びが熟達している。何かの筆記体や癖字を疑うが、そうでもない。

 考え込んでいると、突然立ち止まったことが不自然だったからか、注目されてしまう。 この紙片をもっと見たいが、ここでではなく落ち着ける場所で見よう。

 それでも分からなければ、他の人にも聞いてみるか。

 あまりにも、他の文化と違う文字。まるで別の世界の本の切れ端を見つけたように強く興味が湧いた。




 謎の言語で書かれた紙片について調べてみたが、独力では限界がある。色々とツテを辿ってみるが、俺よりも詳しい人間などそういるはずもなく、分かったのは分かる人間がいないということぐらいだ。

 解読を得意とする奴にも当たって見たが、紙片は一枚、裏表で二ページ分しかないこともあり、解読するには情報が少なすぎるということらしい。つまり、詰みかもしれない。


「……どうにもならないか?」


 言語としては成立している可能性が高いらしい。あとは紙やインクを採取して、その材料から製造された場所を特定することも可能だろう。そこから芋づる式に使われている場所や使っている人間を見つけることも出来るはずだ。

 あとはそれが出来る奴をコネで探して……そう思っていると、買い換えたスマホが鳴る。

 表示された名前は赤木愛音。先日の卒業研究のことだろうかと思い電話に出ると、彼女のどこか落ち着く声が聞こえる。


「ヨミヨミ、ヨミヨミが好きそうな物を拾ったんだよ」

「今更だが、ヨミヨミではなくヨミヒトだからな。赤木が変なあだ名で呼ぶせいで、恋人と勘違いされることがあるんだが」

「僕は別に勘違いされてもいいよ?」


 あっけからんとした声色で彼女は言い放ち、もういいかと溜息を吐く。


「それで、何を拾ったんだ」

「何かよく分からない紙の切れ端なんだけど……。不思議な文字で書かれてたから、好きかなって」


 手に持っている紙片を見て、その特徴を口にする。


「それ、横書きか?」

「えっ、うん。そうだよ」

「少し古そうか?」

「よく分かったね。あとこれ、凄いんだよ。くしゃくしゃに丸めて捨てようとしたんだけど、丸めても全然折り目が付かなくて、広げたら元に戻るの。古そうなのに。僕、これはオーパーツなんじゃないかって疑ってるの」


 手に持っている紙片を見て……喉を鳴らす。ダメだ、これは貴重なものの可能性がある……。そう思いながらも欲求には逆らえず、紙の端を折って、広げてみる。

 ……跡が付いていない。

 オーパーツ。と言った赤木の言葉も納得出来るものだ。高鳴る心臓を誤魔化すように、落ち着いたフリをしながら電話越しに話し掛ける。


「少し、それを見たい。というか欲しい。譲ってくれ」

「うん、そう思って電話したから。えっと、今から取りにきたりする? 大学にいるけど」

「今から向かう。待っていてくれ」


 急いで身仕度を整えて、紙片を鞄に突っ込んで外に出る。急ぐ必要はないけれど、早く現物を見たい。

 いつもより幾分か早足になりながら大学に向かう。




 予定を大幅に過ぎた時間。再び壊れたスマホを手に項垂れながら、頭から出ている血を拭う。

 朝に連絡を受けて、今は夕方だ。流石にもう帰ってしまっただろうかと思いながら、いつものベンチに項垂れていると頭の上にポンと何かが置かれる。


「ヨミヨミ、ごめんね。ジュース買ったんだけど……ぬるくなっちゃった」

「赤木……悪い。遅れた」

「またボロボロになってるし、何かあったの?」

「言い訳にもならないが、動物園から逃げ出した虎と格闘していた」

「それは言い訳になるんじゃないかな」


 呆れたように赤木は言い、俺にぬるくなったラムネを手渡す。……何故ラムネ。

 ビー玉を奥に入れて飲めるようにすると泡が吹き出し、甘く爽やかな匂いが鼻腔に入り込む。それに口を付けて、頭を下げながら礼を言う。


「ありがとう、美味い」

「そりゃそうだよ。お日様のパワーがラムネに篭ってるから美味しいよ」

「……日の光が当たったら美味くなるのか?」

「お祭りとかで食べるものが美味しいのはお日様があるからだよ。遠足でも同様だね。だいたいのことは太陽が解決してくれるのだよ」


 そうなのか。知らなかった。

 ベンチに並んで座り、ラムネを飲む。少し薄暗くなってきた中、赤木が「これこれ」と言いながら紙片を取り出す。

 それを手に取ると、触感は同じ。文字も似ている。材料や年代も同じものであることが見て取れて、鞄から自分が拾った分と見比べて見ると同じ本の紙片であることが分かった。


「あ、ヨミヨミもおんなじの持ってたんだ。おそろーい」

「同じ本の紙片らしいな。どこで拾ったんだ?」

「この大学だよ。持ち主探したけど、いなかったの。こういうの持ってる人は限られるのに」

「……俺は電車で移動するぐらい遠い場所で見つけたな」

「道に迷わないように撒きながら歩いたとかかな?」

「そんな奴が現代にいるか」


 同じ物は集まったけれど、二枚あっても何か出来たりはしない。解読するにはもっと量がいる。二枚だと本の体もなさないし、そもそもつながったページとも限らない、むしろ拾った場所が遠かったこともあり、繋がってない方が自然だ。


「他にも拾った人がいないか探した方がいいか」

「んー、渡しておいてあれだけど、夢中になって単位落とさないようにね」


 必修科目はもう取っているので、最悪全部落としても問題はない。

 紙片が集まったことに喜びを覚えながら立ち上がると、赤木が心配そうに俺を見る。


「ヨミヨミが丈夫なのは知ってるけど……すごく血が出てたし、病院行った方がいいと思うよ?」

「そんなに大きな怪我はしていないが」


 頭の怪我なので血が多く出ているように見えるが、虎にやられたわけでもない。受け身を取った時に出来ただけのただのかすり傷だ。

 赤木がここまで心配しているのは珍しいと思っていると、ふるふると首を横に振る。


「いや、すごくドバーッとなってたよ? 講義棟の裏の方にびっちゃーって」

「ん? 俺は真っ直ぐにこのベンチまで来たからそこには行っていないぞ。それに……そんなに血も出ていないが」


 少し、嫌な感じがする。図太い神経をしている赤木が心配するほどの出血というのは、少々のものではなく、間違いなく大怪我だろう。

 講義棟の裏には事故の元になるようなものはなく、そんな物を持ち込む必要もない。飛び降りなどの自殺などであれば死体があるはずだ。遺体が回収されていたとしたら人もいるだろうし、そのまま血を放置はあり得ない。

 考え過ぎかもしれないが、傷害ないしは殺人などの可能性もあるように思えて、少し急ぎ気味で赤木の手を引いてベンチから立ち上がらせる。


「……帰るぞ。家まで送っていく」

「えっ、ちょっと待って、朝は雨降ってたから、ゼミの部屋に傘置いてるの」

「今は雨降っていないからいいだろ」

「お気に入りなの、裏地に太陽が描いてあるやつ」

「……いいから、帰るぞ」


 少し強引に赤木の手を引き、大学の敷地から出ようとしたところで、鉄の異臭が鼻に入り込む。

 大丈夫だ。他に学生もいる。もし近くにいたとしても襲われることはない。考えすぎだ。

 普段から事件に巻き込まれている癖に、事件ではないと思いたがるなど、半ば馬鹿げている。

 本に出来るような事件など、そこら中に転がっているというのに。

 突如、降ってきたように現れた褐色の肌の大男。呆気に取られた様子の学生の一人が、大男の手に触れられる。

 ぽーん、そんな擬音が似合うような……吹っ飛び方。馬鹿げている。あり得ない。人がボールのように飛ぶはずがない。

 夢か何かと言われた方がよほど信用出来るが、ヤケに生々しい血の匂いがする。

 赤木の手を引いて、後ろに駆け出す。


「ッ! 冗談じゃない! 逃げるぞっ!」


 後から聞こえてくる悲鳴。もし快楽殺人鬼などであれば、悪いけれど近くにいる学生から狙い、俺と赤木は逃げ切れるだろう。

 そう思っていたが、現実は違った。走ってこちらを追ってくる。

 俺が狙われているのか。赤木と別行動を取るべきか。そう思ったが、もし赤木が狙われていたら、赤木の足では逃げ切れずに、この大男に殺されてしまうかもしれない。

 手を離すことは出来ず、必死に逃げる。

 残っていた学生の小さい悲鳴が聞こえていたが、走り続けていると徐々に減ってきて、人気のない場所にまで追い詰められていることに気がつく。

 狙いが分からない。そもそも何語なら話せるのか、コミュニケーションを取るにも何語なら通じるか分からなければ話し掛けることも難しい。


「よ、ヨミヨミ……」

「大丈夫だ。最悪、お前だけでも逃す」

「そんなの……」


 大男と相対しながら、赤木を背にしてジリジリと下がる。あれはどう考えても威力がおかしい。人間の筋力で、人は吹き飛ばない。

 赤木のような華奢な奴ならまだしも、普通の男の体重であんなに飛ぶはずがない。

 得体がしれない。そう思っているが、背を向けて逃げていた時と違い、男の足は走るわけでもなくゆっくりと動いている。

 追い詰めて油断している……といった様子でもなく、むしろ……。


「警戒している?」


 視線を辿れば、赤木ではなく俺を見ているらしい。それも手の動きや目線を追うという、明確に脅威と見なしている仕草。

 背中にいる赤木に告げる。


「俺が狙いらしい。赤木は逃げろ」

「い、いや……だって、それヨミヨミが……危ないんじゃ」

「冗談じゃない。どれだけ俺が修羅場をくぐってきたと思うんだ。悪漢ぐらい、ダースできても、満員電車のラッシュできても問題ない」


 適当なことを言うが、赤木は離れようとしない。徐々に大男との距離が縮まり、一瞬、男の雰囲気が変わる。


「ッ逃げろ!」


 赤木を押し出して、一歩、前に踏み出る。瞬時に脱力、身体を可能な限り早く下げて、頭上を褐色の拳が通り抜ける。そのまま前にすすみ、男の脇を通り抜けると、男は俺に向かって振り返る。


「赤木! 早くいけ!」


 赤木の背が見えたところで、一つ息を吐き出す。少なくとも友達はこれで助かった。

 大男と相対し、口を開く。


「日本語は……分かるか?」


 反応がなければ他の言葉も試してみるつもりだったが、大男は口を開いて反応する。


「分かる。少し」


 予想外の反応。いや、言葉が通じない獣と思っていた訳ではないが、突然襲ってきた割に……普通に会話出来る。

 何から聞くべきか、下手なことは言えない。


「……目的は」


 男は少し驚いたような仕草を見せて、間をもってから口を開く。


「異端。異端の紙片」


 異端……紙片? 鞄の中に入れたままの、謎の言語が書かれていた紙片を思い出す。

 あれの持ち主が……と考えたが、その場合は「紙片」というのはおかしいだろう。本の持ち主であれば、そのような言い方はしない。

 そう表現するのは、初めに見たそれが始めから紙片だった場合だけだ。

 それを俺が持っているということをどうやって知ったのかは分からないけれど、目的がそれであれば、渡せば見逃されるだろう。明確な戦力差がある以上、逃げることも叶わない。

 何の手を使ったのかは分からないが、紙片を見つけ出したということを考えると、その場しのぎで逃げても追われる可能性が高い。

 鞄を下ろして手を上げ、降参の意を示す。


「異端の紙片というものかは分からないが……妙な文字で書かれた紙なら拾った。それが欲しいなら渡す」

「潔い。分かった。渡せ」


 鞄の中から紙片を二枚取り出すと大男は頷く。動こうとしない大男に向けて歩を進めて、近くまできたところで、手を伸ばして男に紙片を渡そうとし……凛と、この場に不釣り合いな落ち着いた声が空を切るように響く。


「伏せて」


 反射的にしゃがみ込むと、頭上を何かが通りすぎ、大男にぶつかる。

 冷たい。冷……ッ!

 見れば大男の上半身が『凍りついて』おり、ギョロと、彼の眼球だけが動き、後ろを見る。

 男の視線を追えば、金の髪が棚引くのを見る。


「流石はネイティヴね。反応が早い。もし当たっちゃったらって思ったけど」


 金の髪、白い肌。流暢ではあるけれど若干の癖が抜けきっていない口調。どう見ても日本人ではない。

 新手の敵かと思ったが、わざわざ日本語で警戒を呼び掛けたのだから味方だろうか。

 手に紙片を握り締めて、手足を使って跳ねるように後ろに移動する。


「……味方か?」

「現状ではね」


 端的に述べてみせる彼女は、幼さを残しているほどに若く見える。未成年のようだ。先ほどの何かによる攻撃は分からないが、頼りになりそうには見えない。

 だが、堂々としたその様子は……不安を覚えさせない。


「何だこれは……いや、お前らは」

「……あなた、『ルール』を聞いてないの?」

「……ルール?」


 少女の日本語は英語訛りらしく、英語圏の人らしい。

 ルールを聞くとかどうとか、意味が分からないと思うが……以前に見た夢を思い出す。 丁度、紙片を拾う前に見た夢……『ルール』にも覚えがある。


「知ってるみたいね。聞いている通り、紙片を巡って戦って、紙片を互いに取り合って、本を作る」

「……冗談じゃない」


 あり得ない。あれはただの夢だった。それが実際のことなど……。そんな感傷に浸る時間を許されることはなく、大男が動き始める。


「早いね。熱とか、火とかの能力かしら」


 能力という言葉を聞き、頬が引き攣る。こいつらもなのか。

 そんなことを思う暇もなく、戦いが始まる。

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