なんなら夕飯の残りでも食べさせればいい
内覧の日は、御茶ノ水駅で待ち合わせをした。
メテムがいつもの如く遅れるんじゃないかと内心とても心配したが、予想に反して時刻前に彼女はやってきた。
「なんだよ、その変な顔」
僕があまりにも意外そうな顔をしていたのか、メテムは僕を見るなりそう告げた。
「いや、時間通り来るから……」
何かごまかしたことを言ったほうが良かったのかもしれないけれど、僕はその時本当に驚いていて、とてもそんな余裕は無かった。
「当たり前だろ。今日は内覧なんだから、不動産の人だっているんだろ?」
「う、うん」
「なら尚更遅れられないだろ!」
そう言うと少し怒った顔をしながら、メテムは駅を出た。
御茶ノ水橋を渡るとすぐに医科歯科大学が見えてくる。
メテムは僕より先を歩いていたけれど(何故だろうか)、そこで止まり、こちらへ振り向く事無く言った。
「で、右なの? 左なの?」
指で矢印を作りながら左右を交互に指す。
僕は左に作った矢印を握った。
医科歯科大学を左に曲がると、すぐに右手に折れる道がある。
そこでまたメテムは立ち止まる。
今度はメテムの腰を抱き寄せ、右の方向へと体を導いた。
道を進むと右手にコンビニが見える。
物件はその最上階だ。
入り口は手前の道を奥にいったところにあるので、僕はメテムの手を握って誘導した。
入り口にはすでに不動産屋と思わしきスーツを着た男性が僕達を待っていた。
てっきり青いアイシャドーの女性が来るのかと思っていたが、内覧担当は別のようだ。
僕達を見ても気づかなかったので、こちらから声をかけ、内覧希望の旨を伝えた。
不動産屋は僕らを見て軽く驚いた仕草を見せたものの(僕らの身なりは、幾分カジュアルで、それでいて若く見えるからだろう)、すぐに鍵を取り出し、入り口を開けて、中へ導いてくれた。
エレベーターで最上階へと向かう。
該当の部屋は、フロアーの一番左手に位置していた。
「よても良い部屋です。ご予算さえ問題ないようならば、きっと気に入るでしょう。文句のつけようがありませんよ」と不動産屋は扉を開ける前に僕に告げた。
文句のつけようがありませんよ。
その言葉が頭に残ったまま、部屋の中へ入った。
玄関に入ると、正面と右手に扉があった。
まず右手の扉を開ける。
そこにはトイレがあった(一つ目の)。
何の変哲も無い普通のトイレだ。
そこにはピンボールゲームの機能も無ければ、拘った音響設備があるわけでもない。
ベージュの壁紙に、白い便器。
誰もがトイレと聞いて想像する様なステレオタイプのものだ。
僕が念入りにトイレを確認していると、メテムの声が後ろから聞こえてきた。
「お、これはなかなか良いんじゃないの」
そのメテムの声に導かれるようにして(そしてトイレの確認を止め)僕は正面から中へ入った。
そこは二十畳程のリビングになっていた。
左手の壁は斜めに傾いていて、ちょっと小洒落た作りになっている。
左手手前はカウンターキッチンになっていて、見るからに立派な台所がついていた。
そして右側には上階へと続く階段があった。
僕がぼんやり台所を確認していると(料理はしないけれど。あるいはレンジで作るカルボナーラぐらいは)、メテムは素早く階段を登っていった。
それからパタリと扉を開ける音がしたと思ったら、笑い声が聞こえてきた。
「おい、ユウキ、ちょっと来てみろよ。早く」
そう言われ、僕は階段を登った。
上がった先には十二畳程の部屋があり、手前左には扉がついていた。
その先にどうやらメテムがいるようだ。
すぐに覗くと、そこには初めから予定されていたように二つ目のトイレがあった。
ただこちらは先程の何の変哲も無いトイレではなかった。
それは、ガラス張りのお風呂が目の前にあり、そこに仕切りもなく、ただただ広い場所にポツンと置かれていた。
まるで野ざらしの荒野に晒されているような、そんなトイレだ。
「たっはー、これ、どうやって用をたすんだ? お前、私がお風呂入ってる間はトイレ我慢するか下のトイレを使えよな」
メテムがそう告げる。
「ま、まま、メテムさ、下にもトイレがあるんだし、誰かがお風呂入ってる時は下を使えばいいよ」
「そりゃそうだろう。しかしこれは凄いな。風呂もトイレも丸見えだ。どういう人が設計したんだろう」
心底不思議そうにメテムが言う。
「やっぱあれじゃない? 都会に適した若者のアーバンライフってやつじゃないかな」
「アーバンライフ、ね。なるほど、アーバンライフの象徴はガラス張りの風呂とトイレか」
アーバンライフの象徴はガラス張りの風呂とトイレ。
まるで安っぽい広告屋が考えたみたいな発想だ。
「皆さん御覧ください。憧れのアーバンライフですよ。トイレはなんとガラス張りなんです」
頭の中で安っぽいエナメルの服を着た女性が、仰々しくトイレを指す。
それに対して僕らは拍手喝采で迎えるのだ。
素晴らしい。これこそ我々が夢見たアーバンライフなのだ、と。
僕がそんな想像をしていると、いつの間にやらメテムの姿が消えていた。
まるでどこかの壁に吸い込まれたように、そこに微かな残り香を残していなくなっていた。
小説ならばここでメテムを心配するところだが、流石にそんな必要は無い。
おそらく奥には扉があるんだろう。
僕は両壁に備え付けられている棚を都度確認しながら進んだ。
するとメテムの声が奥から聞こえてきた。
「おい、ユウキ。こっちこいよ」
先に目をやると、やはり奥に扉があるようで、その先からメテムの声が聞こえる。
ゆっくりと扉を開くと、どうやらそこはバルコニーになっていた。
広々としたバルコニー、その柵に寄りかかりながらメテムは寛いでいた。
「ここ、眺め良いな。気に入ったよ」
柵に両手を乗せ、そこに顎を落としながらメテムが呟く。
外に目をやると、たしかにバルコニーからは都内が一望できた。
決して華やかな眺めではないが(例えばスカイツリーや都庁が見えるわけではない)、そこにはひらけた視界が広がっていた。
ここに机と椅子を置いたらさぞかし気の利いたティータイムができそうだ。
「メテム、ここに机と椅子を置こうよ」
「悪くないね」
「ついでにランタンでも吊るしてさ」
「素敵だね」
「なんだったら人工芝でも敷き詰めればいいんだよ」
「うんうん」
「夏は日よけをさして……」
「冬には簡易ストーブもつけような」
「そうだね」
「鳥でも飛んでこないかな、餌付けでもしたいんだけど」
「それは難しいんじゃないの?」
「キシシ」
僕はメテムの横に立ち、ゆっくりと外を眺めているメテムの頬を擦った。
「ここ、住んでも良いと思わない?」
僕の問にメテムはしばらく沈黙した。
目を閉じ、すこしユックリしているようだ。
「んー、まあどうだろうなあ」
「何か問題あるの?」
「そうだなあ、例えば……」
「例えば?」
「トイレはガラス張りだし」
「君のためにガラスに色でもつけるよ」
「ここには鳥もいないからなあ」
「欲しければ何でも飼うよ」
「熊が欲しいと言ったら?」
「ミニチュアの熊でも取り寄せるよ」
「日本で熊を飼うのって法律上どうなの?」
「問題はあると思うけど、こっそり飼うよ。迷惑はかけないよう躾けるさ」
「……まあ、いいけれど」
それだけ話すと、メテムは会話に興味をなくしたのか、明後日の方に顔を向けた。
手持ち無沙汰になった僕はバルコニーに置かれた椅子と机を想像し、ついでに申し訳程度に小さな熊も片隅に置いた。
「いかがでした?」
僕達が内覧を終えるのを扉で待っていた不動産屋が声をかけた。
「とても素敵ですね。よく検討しようと思います」
出来得る限りの笑みを浮かべて、僕は返した。
そうすると安心したのか、明らかに不動産屋の肩から力が抜けるのがわかった。
「弊社としてもオススメの物件ですので、ぜひご検討をしていただければと……」
そんなやり取りをしながら、僕らは物件を後にした。
「熊ってさ、一体何を食べるんだろうね」
帰り道、ふと気になって僕はメテムに聞いた。
「うーん、わがらんね。わがらんわがらん」
「それぐらい調べておかないと困ったことになるねえ」
「そうだねえ。まあでも雑食っぽいからケーキでも食べさせるよ。なんなら夕飯の残りでも食べさせればいいさ」
「熊はケーキとか食べるかな」
「食べるよ。お前知らないのか? あいつら何でも食べるんだぞ」
何でも食べる。
僕はケーキを頬張る熊をなんとか考えてみたが、それはどうにも収まりが悪かった。