九話
続きです。
「……なにやら騒がしい」
隣の天幕から聞こえてきた声に、ルナは思わずそう言ってしまう。
先ほどから“翠帝”に呼びかけているのだが、まったく返答がなく少々苛立っていたためだった。
(どうして応じてくれない……?私はこんなにも想っているのに)
退神札の所為かとも思ったが、覇彩剣五帝の力を持ってすればそんなものは障害にすらならない。
では、何故か。それはひとえにルナが力を引き出せていない状態で退神札の檻に入ってしまったからだ。
そうとは知らないルナは重い息を吐く。
「こんなとこで躓いているわけにはいかないのに……」
彼に追いつかなければならない。遠い昔を戦い抜き、そして今を生きている孤高の少年。追いつくにはあまりにも遠い存在ではあるが、自分の想いを告げるため、初代皇帝から託された思いを持つが故に絶対に追いつかなければいけないのだ。
と、思案していたルナだったが、こちらに近づいてくる足音が耳朶を打ってきたことで我に返った。
(またあの男かな……)
ここに来てからルナがあったことのある人物は“覇王”ただ一人。そしてここはその王の天幕。であるが故の思考だった。
しかし――その考えは間違いだった。
「へへっ、やっと見ることができたぜ」
そう言って天幕に入ってきたのは一人の兵士だった。酔っているのか、蝋燭に照らされた顔は暗がりにあっても赤いと分かる。
男はルナが囚われている牢に近づくと下卑た笑みを向けてきた。
「ほほぅ……噂通りの美人じゃねぇか!こりゃあいい」
そして手を伸ばしてルナに触れようとしてくる。
「っ……触らないで」
ルナは鎖に繋がれた手を使ってそれを振り払う。
(気持ち悪い……なんなの)
ルナは皇族であるが故にこういったこととは無縁の生活を送ってきた。いうなれば耐性がまるでないのだ。だからこそ湧き上がる嫌悪のままに振り払ってしまった。
――それがこういった相手の激情に触れるということも当然知らない。
「てめぇ……皇族だかなんだか知らねぇが、今のてめぇは只の囚人なんだよ!わかってんのか、ああ!?」
途端に怒りを顕わにした男は、その激情のままに拳を振おうとして――吹っ飛ばされた。
「ごっああ!?」
突如としてルナと男の間に風の塊が出現、それがぶつかることで吹き飛んだのだ。
「これって……」
ルナは呆然と眼前に現れた相棒を凝視する。
覇彩剣五帝――“翠帝”。
弓の形状をした風を司る始まりの神器の一振りにしてルナの相棒。幾多もの窮地を共に乗り越えてきた頼れる存在だ。
緑色の粒子を放ち、宙に浮いている“翠帝”は主であるルナを守るかのように男に弓引いていた。
「遅い……でも、ありがとう」
ルナは優しく言ってそっと碧弓に触れる。途端、緑の光がルナの身体を包み込んだ――かと思えば、光は一瞬で収まりルナの身体にできていた無数の傷もまた光と共に消えていた。
それが覇彩剣五帝の加護によるものだと理解したルナは優しく微笑んで――決意の表情で“翠帝”を見つめる。
「私は決めた。歩むべき道を――その先にいる人に想いを伝えるために」
瞬間――“翠帝”が眩い光を放つ。天幕中を覆うほどの光量が放たれ、ルナの意識を闇に沈めていった。
あまりの事態に呆然としていた男は、倒れ込むルナを見て我に返った。
「……は、なんだってんだよ……でもこれチャンスじゃねぇか?」
再び欲情した瞳で銀髪の少女を見て、近づこうとする男。
――そんな男に、声が掛かった。
「貴様……自分が何をしているのか分かっておるのか?」
背後から聞こえる、殺意の滲む声に男が振り返ると――そこには覇者がいた。
獅子のごとき貫禄をもち、覇者のみが持ちえる圧倒的な覇気をその身に纏っている。腰に吊るしてある紅刀からは炎が噴き出し、所持者の怒りを代弁しているかのようだった。
ヴァルト王国現国王――リチャード・ヘルシャー・ファン・デ・ヴァルト。男にとって仕えるべき主だ。
「ひっ……へ、陛下!?ち、違うんです!これは――」
「なにが違うというのだ?余の天幕に忍び込み、あまつさえ余の所持物に手を付けようとした。これのなにが違うと?」
男は先ほどとはまるで違う、恐怖に支配された様子で必死に訴えた。
「そ、それはですね、あの女が俺を呼んだからなんですよ!」
だがリチャードは聞く耳を持っていなかった。
「……もう良い。よくわかった」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ……貴様が余に不敬を働いた大罪人だということがなっ!」
その言葉と共に抜刀。男が反応する間もなく納刀した。
「……え?陛下、今何を――」
言葉の途中で、困惑顔の男の身体が二分された。凄まじい速度で振りぬかれた斬撃が、遅れてその結果を世界に認識させたのだ。
恐るべき絶技を成したリチャードは、あきれたように息を吐く。
「下らん。このような愚者に、余が時間を割くことになろうとは……」
送れて駆け付けた兵士たちに死体を片付けるように言うと、興味を失ったとばかりに視線を転じる。その先には怪我が治っている銀髪の少女の姿があった。
「ふむ……もしや喚びだすことに成功したのか?」
呟くようにそう言って、リチャードは己の椅子に座り込み思案し始めるのだった。
*
緑光が収まった――と思い目を開けたルナ。そこには不可思議な光景が広がっていた。
一面色とりどりの花で満ちている、まるで楽園だと思わせるような花畑。
「綺麗……!」
知らず、そう漏らしながら歩くルナ。そんな彼女の視界に一組の男女の姿が入り込んできた。
「あれは……レン!?」
見間違えるはずがない。黒髪黒目の想い人がそこにいた。
思わず歩み寄ろうとしたが、ここがどのような場所なのかを思い出して立ち止まる。
「そっか、ここは過去の光景……」
以前も似たような体験があった。違うのは、殺伐とした様子ではないということだろう。
蓮はみたことのない、翳りのない優しい微笑みを浮かべながら隣に居る女性と会話していて、対する金髪碧眼の女性もまた慈愛に満ちた表情で笑っていた。
温かく、優しい世界がここにはあった。
だが、ルナは知っている。この光景がもう取り戻せない過去のものであることを。そして感づいている。蓮の隣に寄り添う女性が既に故人なのだと。
と、そこでルナは気がついた。
(あれ?ということは……あの女性はレンの恋人!?)
ルナは自身と女性を見比べる。そして落胆の息を溢した。
「私……レンのタイプじゃない?」
なにもかもが違いすぎる。女性は天真爛漫といった様子で、喜怒哀楽を素直に表現している。容姿にいたってはまず髪の色からして違うし、胸の大きさだって向こうが上だ。唯一似てるところといえば髪の長さくらいなものだった。
「…………強敵」
ルナはそう呟いて女性を見つめる――と、なんと女性がこちらを向いてきた。
(!?気付かれた?……いや、ここは過去の世界。なら互いに干渉も認識もできないはず)
そう思ってじっと見つめ返していると、不意に女性が笑いかけてきた。
瞬間――世界が一変する。
視界に広がるのは幼いころに母親と共に一度だけ訪れたことのある神聖殿――その最奥に位置する祈りの間と呼ばれる空間だった。
室内であるにも関わらずまるで森林のように草木が生息し、小川さえ流れているのが特徴的だ。
そんな小川のせせらぎを聞きながら、視線を彷徨わせれば先ほどの女性がいるのが分かった。
女性は見る者全てに安らぎを与える微笑みを浮かべて言葉を紡いでみせる。
「驚きましたか?ルナ様」
「……驚いた。あなたは?」
素直に思ったことを言ってから知りたかった相手の名を尋ねる。
「私の名は……あなたも聞いた事、いえ見たことがあると思いますよ」
という女性の返答に、ルナは考え込む。
(……言われてみればどこかでみたことあるような)
あれは確か……帝城の歴代皇帝の肖像画が置かれている部屋だったような……。
そこまで思い返してみてようやく気がつく。
「あなたは――まさか初代緋巫女?」
「正解ですっ。流石は歴史が大好きなだけありますね」
茶目っ気たっぷりに人差し指を立てて片目を瞑る女性。その名は――、
「ソフィア・シン・アイリス・フォン・アインス。初代緋巫女にして、アインス大帝国初代皇帝リヒト陛下の姉君……であってる?」
「あっていますよ。その通り、私は初代緋巫女です!」
腰に手を当て、豊満な胸を張る初代緋巫女ことソフィア。
そんな彼女の様子に、ルナは思わず笑みを溢してしまう。
「くっ、ふふっ……面白い人」
ルナの笑い顔を見たソフィアも優しく微笑む。
「やっと笑ってくださいましたね」
「……それはどういう……?」
「あなたは先ほどからずっと難しい顔をしていましたから。私、笑った顔が見たくて頑張っちゃいました」
というソフィアの言葉に、思わず顔に手をやるルナ。
「私……そんなに怖い顔してた?」
「ええ、それはもう。ですが今はとても良い顔をしていますよ」
そう言ったソフィアの眼前に、唐突に“翠帝”が出現した。“翠帝”は淡い光を放ちながら、穏やかな風を彼女の身体に巻き付ける。
“翠帝”の見たことのない姿にルナが目を丸くしていると、ソフィアが困ったように微笑んだ。
「この子ったら相変わらず無茶をするんですから……きっとあなたが悩んでいるのを心配したのでしょうね」
「私を?」
「ええ。この子――“翠帝”は覇彩剣五帝の中で一番温厚な性格ですから」
初耳だった。覇彩剣五帝に意志があることは歴史書や文献に記されていたから知ってはいたが、よもや感情を持っていたなど……想像すらしなかった。
と、ここでルナはあることに気がつく。
「もしかして私が力を引き出せなかった原因って、それを知らなかったから?」
「その通りです。私の弟――リヒトはそこまでは説明しなかったようですね」
まったく相変わらずどこか抜けているんですから、と自らの弟に嘆息するソフィア。
伝説上の人物たちの意外な人間性を目の当たりにしたルナは、感動を覚える。
(こんな性格をしていたんだ……)
文献上だけでは当人たちの生き様――人間性までは分からない。歴史好きなルナとしてはそれらを知れただけで嬉しかった。
だが、一番聞きたいことをまだ聞いていない。
ルナは意を決して問いかけた。
「ソフィア――さん。あなたはレンとどういう関係だったの?」
「ソフィアで結構ですよ、ルナ様。私は……そうですね、一言で言い表すのなら恋仲、でしょうか」
半ば予想していた答えではあったが、それでも胸がざわつく答えだった。
そんなルナの様子を見たソフィアはどこか寂しげに微笑む。
「ルナ様が言ったように――だった、ですよ。過去のお話です」
「あ――……ごめんなさい」
大切な人に二度と会えない辛さは痛いほど知っていたはずなのに……そう言ってしまった自分が情けなかった。
(私にとってのお母様のように――ソフィアにとってレンは会いたくても会えない存在)
申し訳なさで顔をうつむかせるルナに、ソフィアが諭すように言ってくる。
「かまいませんよ。私にはレンと一緒にいることができた思い出がありますから……だから自分を責めないで」
「……優しいんだね、ソフィアは」
するとソフィアはそんなことはないと首を横に振った。
「私にだって人並みの嫉妬くらいあります。今もあなたに嫉妬していますし」
「嫉妬?私に……?」
「ええ――だって、あなたはレンに話しかけることも、触れることもできますから」
その言葉にハッとさせられた。
「……本当にごめんなさい。私、無神経なことばかり言ってる」
再び自責の念に苛まれるルナに、ソフィアが慌てたように近づいてくる。
「そ、そんなに謝らなくとも良いのですよ!それに……ほら、これで分かったでしょう?私が優しくないってこと」
慌てふためくソフィアを見たルナは、その様子に表情を和らげた。
そして真剣な眼差しを向けて、ソフィアの肩を掴んだ。
「あなたは優しいし……何より私と同じ男性を好きになった。そんなあなたに聞きたい。彼に――レンに追いつくには、そして救うにはどうすればいい?」
自らの想いを告げるため、そして初代皇帝から託された願いを叶えるために。
と言えば、ソフィアもまた真剣な表情になる。
「今の彼は――“復讐”に取りつかれています。そして私の――ひいてはこの世界に住むすべての者の為に戦い続けているのです。それらを成就しなければならないという強迫観念に囚われている。だから支えてあげてください。そして必要なら――殴ってでも道を正してあげてください」
今の言葉に込められた情報の厚さに、ルナは戸惑いを浮かべる。
「“復讐”?それにこの世界の者の為って……しかも殴る?一体どういう――っ!?」
と言いかけたルナだったが、突如として地面が揺れだしたことで言葉を切った。
視線をソフィアに向ければ、彼女は申し訳なさそうな表情を向けてきた。
「どうやら今回はここまでのようですね。ルナ様、またお会いしましょう」
その言葉を聞いている間も地面の――否、世界の揺れが激しさを増していく。立っていられず、座り込んでしまったルナだったが、最後にこれだけは言っておこうと地鳴りに負けないように声を張り上げた。
「ソフィア!私のこともルナって呼び捨てでいいよ!だって私たちはもう――友達でしょう!?」
ルナの言葉に一瞬驚いた様子のソフィアだったが、直後、蓮といる時のような満面の笑みを浮かべて大声で返してきた。
「ええ!また――会おうね、ルナ!」
その言葉は親しき者に使うような、砕けた言い方で発せられた。
ルナは満足げに笑うと、視界を覆う光に目を閉じるのだった。




