四十話
続きです。
穏やかな風が髪を揺らす。天を席巻する太陽は暖かな光を地上に降り注いでおり、度重なる連戦で疲れた体を癒してくれた。
神聖歴千三十一年六月十一日。グリエ軍の強襲を乗り越えてから一日が経過していた。
蓮は奪還したアース砦の胸壁に手をついて地上を見下ろしていた。
(……グリエ軍は降伏。逃げてきたスーリ軍残党も指揮官であるマオス共々無事捕らえた)
捕虜に関しては近隣の貴族に協力を仰いで連行した。指揮官であるマオスは情報を聞き出した後に抹殺してある。
(これでオルティナがエーデルシュタインを掌握するための主な障害は排除できた。後は……)
道化が言っていたルナに迫る危機――これの確認をしなければいけない。
(敵のいう事を馬鹿正直に信用はしない。けれど万が一ということもある)
〈絶対〉――なんて言葉は、〈平等〉と同様で矛盾極まる言葉だ。絶対に大丈夫、絶対そんなことない……などと可能性を排除してしまえば足元をすくわれ、取り返しのつかない事態を招いてしまう。
(かつての様に――ね)
自らの油断と慢心が招いた事態――愛する者を喪うという愚挙を思い出す。
蓮の周囲の空間が重圧で歪んだ。知らず殺気が漏れ出しているのだ。
世界から音が消え、静寂を強制される。蓮の左眼からはいつもの哀哭の光――ではなく深い闇があふれ出ていた。底などないかのように深淵。やがて闇は蓮の身体を包み始めた。
そこへ足音が近づいてくる。瞬間、闇は霧散し蓮の周囲は何事もなかったかのように陽光で満たされた。
「主殿、捕虜の連行が完了しました。それと放っていた密偵が帰還し――主殿?」
体の随所に包帯を巻いた女性――アリアが訝しげに眉を顰める。
「……アリアか。ご苦労様。それで続きは?」
蓮は振り向きながら尋ねた。その表情はいつも親しい者たちに見せる優しい微笑だ。
先ほど感じた不気味な気配は気の所為だったかと、アリアは首を傾げながら答える。
「……主殿が東域に放たれた密偵ですが、先ほど帰還しました。主殿とお会いしたいとのことです」
「そうか、わかった。今すぐ行くとしよう。ああ、それと……ラインの容体は?」
と聞けば、アリアは美眉を心配から寄せた。
「未だ目覚めておりません。軍医の診断では体に異常は見当たらず、精神的なものが大きいのではとのことでしたが……」
「なにか引っかかることでも?」
「はい……今回ラインが身体から発した紫光ですが、以前にもそういうことがあったのです」
報告にあったアイゼン皇国での戦闘。そのことだろうと蓮は感づいた。
「キールとの戦闘だね。僕はどちらも見てないからなんともいえないけど……」
(紫光――魔力を使った際に見られる発光現象だと思うんだけど、それだとラインが魔族ってことになるんだよな……)
魔力は魔族だけが使用できる超常の力だ。何もないところから炎を出したり、水を生み出したりできる。例外的に堕天剣五魔などの魔器を所持していれば人族でも使えるが……。
(ラインは所持していない。もしかしたら“魔”の力を取り込んだ人族という可能性もあるけど、“視”てないからはっきりと断定できない)
万物を解析する“天眼”で“視”ればおそらく分かるだろう。しかし蓮は身内を“視”ることは避けていた。
(プライバシーの侵害は避けたい。敵ならともかく味方にはしたくないかな)
万物を見通す。この力は相手の身体的なことはもちろんのこと、衣服を貫通して直接体を見ることもできる。そんな不義理なまねはできない。
(でも二度目ともなれば心配だ。起きたら確認を取って、許可が取れたら“視”ることにしよう)
蓮は短く息を吐いてから言葉を発した。
「とにかくラインが起きたら教えて欲しい。それまでこの問題は棚上げにしよう」
「はい……主殿がそうおっしゃるのであれば」
と返してくるアリアの表情はすぐれない。
(心配なんだろうな。それでも会話を終わらせられるのは流石だというべきか)
「それで密偵はどこにいるのかな?」
「司令官専用の部屋で待たせてあります。そこであれば盗聴の心配は少ないかと思いまして」
司令官専用の部屋は最上階――指令室よりも一階上に存在していて、その階には他の部屋はない。階段を昇ったらすぐに司令官専用の部屋の扉がある、といった感じになっている。
「素晴らしい配慮だね。ありがとう」
「お褒めにあずかり光栄です。では、私はこれで……」
「ああ。キールにも感謝してたって伝えておいてくれるかな。それと怪我人なんだから、キミも無理をしてはいけないよ。ちゃんと休息は取ってね」
そう言うと、後ろ手を振りながら蓮は司令官専用の部屋へと向かった。
蓮は椅子に座り、眼前に片膝をつく密偵を見下ろしていた。
「……どうでしたか、ルナの様子は」
『はっ、ルナ第五皇女殿下なのですが……直接確認することはできませんでした』
「どういうことだい?」
今回使った密偵はかなりの手練れなのだが。
その密偵は淡々と言葉を紡いでいった。
『ヴァルト王国が本格的な侵攻を始めました。完全に不意を突かれた形となり、ルナ第五皇女は拠点であるライト砦から出られなくなってしまったようでして。現在ライト砦は包囲されている状態です』
「ルナの安否は不明だと?」
『そうです』
(予想以上にヴァルト王国側の動きが早い……確かに不意を突かれたな)
だが疑問が残る。ルナの拠点であるライト砦は最前線でもある国境線――東域戦線からかなり離れた所にあったはずだ。その間には防衛線である東域戦線や難攻不落の東域鎮台ドラッヘンがある。そこには護国五天将“東域天”も駐留している。それらがどうなっているのか。
「敵はどうやってそこまで侵攻しているのですか?」
『……敵は十万という圧倒的な兵力に、最高司令官である現王――“覇王”リチャード一世が率いているようです』
「……彼は東方遠征の最中じゃ?」
『既に終えたようで、そこから取って返して今回の侵攻を指揮しています。……そして軍を本隊と別働隊分けて侵攻。“覇王”率いる本隊は東域鎮台にて東域軍と交戦中、別働隊がルナ第五皇女の元へと向かったようです』
(覇彩剣五帝所持者であるルナが援軍として来れなくするための策かな)
つまりは足止め。本格的に攻めずに籠城させて本隊が決着をつけるまで時間を稼ごうとしているのだろう。
(だとすればルナが無茶をしなければ大丈夫だろうけど……)
別働隊を率いている指揮官という不確定要素がある。そいつが功を焦って足止め以上のことをしないとは限らない。
(いずれにしても行くしかないだろうな。でも“天軍”はもう限界だ)
度重なる連戦で負傷者はもちろんのこと、健常者でも休ませなければならない。疲労が蓄積しているだろうし、武器防具の修繕や矢の補充等も必要だ。
(シュトラールに残している“天軍”二千の再編が完了していることに期待するしかないか……)
未だ蓮専用の皇軍は編成されていない。頼れるのは己の私兵である“天軍”だけだ。しかし今回の戦いで連れてきた八千は戦死者や負傷者も出ている。再編に時間が掛かるのは必定といえた。
(とにかく一旦シュトラールに帰還するしかないな。急がば回れだ)
そう思考する蓮だったが、浮かべる表情は焦燥に満ちていた。
蓮は胸に手を当て息を吐いて落ち着かせる。次の瞬間には焦燥は消えていた。
「……分かった。報告ご苦労様。あなたには休んだのち、東域鎮台に向かってもらいたい。書状を“東域天”に届けてもらいたいから」
蓮はそう言うと、机に置いてあったペンを手に書状を書いてゆく。
(敵の兵数は多く、“覇王”の武力も強大。けどこっちだって負けちゃいない)
皇帝はヴァルト王国侵攻のために主力である総軍を編成し終えているだろうし、東域にはエリザベート第三皇女率いる第三皇軍もいる。他にもまだ見ぬブラン第二皇子も健在だ。
(マティアス第一皇子は大敗したらしいけど……彼が何をたくらんでいるかまでは手が回らないな。ここはバルトさんにお願いするとしよう)
アインス大帝国を守るために手を組んだ愛国者であり、東域の五大貴族フィンガー家の現当主。彼の子飼いの密偵にでも探ってもらおうと考えたのだ。
(後で書状を送るとして……今はこっちが先だ)
書状を書き終えた蓮は、最後に第三皇子であることを示す印を押して封をする。そして密偵に手渡した。
「あなたの腕を見込んで……頼んだよ」
と言えば、密偵は僅かに目を見開かせて喜びを顕わにした。
『はっ!この命に代えましても必ずや』
密偵は声量大きく言うと、部屋から退出していった。
それを見届けた蓮は大きく息を吐いて椅子にもたれこむ。その瞳には昏い光が宿っていた。
「アインス大帝国は戦争し過ぎだ。このままじゃ崩壊する」
戦いに次ぐ戦い。中域と西域軍以外は戦争で疲弊している。皇族専用の軍である皇軍も今回の戦いで出撃してしまった。
「度重なる戦争によって民の不満は高まりつつある」
物価の高騰、兵役につく男手の不足。民の生活は苦しくなる一方だ。
「加えて地方貴族の横暴や禁止されているはずの奴隷の密売。調べれば調べるほど出てくる」
千年前、多くの犠牲を払ってまで建国したこの国が私腹を肥やす貴族や、到底かなわぬ大望を抱く皇帝らの手によって汚され貶められていく。
それは蓮にとって許しがたいことだった。
「腐った芽は摘まなくてはならない。いや、ここまで腐ってしまった以上――土壌を改善するしかないか」
その為にははこびる寄生虫共を駆除し、ルナという新たなる希望を頂点に戴かねばならないだろう。
「私腹を肥やす貴族を排除し、皇帝を引きずり下ろす。そしてルナを皇帝にして万民を包み込む月光になってもらうしかないな」
自らが皇帝になるという選択肢はない。皇帝になるにはあまりにも穢れすぎた。
蓮はうつろな瞳で未だ届かぬ天に手を伸ばした。
「それに……僕にはやることが残っている」
千年前に成せなかったこと――完全なる復讐を成す。
「絶対に許さない。今度こそ――確実に仕留めてみせる」
うつろだった瞳に烈火のごとき憎悪が宿る。
部屋にあった全ての蝋燭が消える。左眼から闇があふれ出し、昼間だというのに部屋は一気に暗くなった。
「必ず“奴”と――“天魔王”を殺してやる」
神秘を湛えていた“天眼”から――黒い、底なしの闇が噴き出そうとしていた。
そこでふと我に返った蓮は、慌てて胸中の闇を抑え込む。闇が徐々に収まり“天眼”がいつもの哀哭の光を湛える神秘的な色合いに戻っていく。
「不味いな……だんだん抑えられなくなってきた。……緋巫女であるルージュに相談してみるか」
この闇は本来の“力”だ。しかしこの“力”を使えば、“王”としての記憶が戻ったことが“奴”にばれてしまう。それは避けなければいけなかった。
(また飛ばされても困るしな)
「“力”を抑える神器を創ってもらうしかない……」
蓮は嘆息を一つしてから、神聖殿に送る書状を書き始めるのだった。
この話で第三章“動乱の世界”編は終わりです。
次回から第四章“覇者たるもの”編が始まります。
詳しくは活動報告にて。




