帰っていいですか。
まさか。
まさか、こんな場で。
こういう行動に出るとは。
そこまで馬鹿だったとは、思わなかった。
もう少しマシだと思っていたんだけど。
今日は勤め先の会社の創立記念パーティが、とある高級ホテルの取引先も招いて盛大に催されていた。
出席できるのは主任以上。
主任以上に限定されているのは、取引先や議員さんなどの来賓に粗相やなんかがあってはいけないという予防線の一環である。
人数が増えるとお金もかかるしね。
うちの会社で主任になるには3年以上の実務経験と研修受講の実績が必要なので、少なくとも今年入ったばかりの新人が出席できるはずはない。誰かが同伴者としてつれてこない以上は。
「なんで賀野さんがいるわけ」
騒がしい声に目を向ければ、まるで少女が着るようなピンクのひらひらのワンピースドレスを身にまとった女性が場の雰囲気を読まずにはしゃぎまわっている。
今年入社した新人のなかでも評判の、賀野麻衣子だ。とはいえ、彼女の評判はいい評判ではない。
一つ、一番どころか群を抜いて使えない。というか仕事をする気がない。
一つ、近年稀に見る尻軽ビッチ。とりあえず目に付いたイケメンには媚を売らないことがない。
いくら顔が可愛くてもアレじゃね、というのが良識ある男女の意見だ。まぁ、ヤレりゃいいってだけの男たちには人気だが。
敬語も話せない、二桁の引き算ができない。なんでそれで我社に入れたのかといえば、コネである。
専務の奥さんの連れ子、ということで一般職でなら、ということで入れたらしいのだが。
専務の同伴であるならまだしも、専務は欠席なのである。
「どうします?」
企画部の後輩がまずいな、と眉を顰めて指示を求めてくるのに、私は溜息を吐いた。
「大きなトラブルを起こさないなら放っておいていいわ」
場違いにはしゃぐ声は不愉快だし、取引先の社長や重役、議員さんやらなんやらといった来賓の方には申し訳ないが、少しだけ我慢していただこう。
あと少しで、会長の挨拶がある。その後で社長の挨拶と後継者の発表が控えているのだ。
「いいんですか?」
「彼女を連れ込んだのはあのボンクラでしょ」
彼女がぶら下がっているのは社長の次男の腕。
創業者の一族で、非常に見目麗しい男性である。見た目だけなら極上品。
だがその中身はといえば、この場に、何の教育もされていない今年の新人を連れて来ている時点でお察しの通り。
ぶら下がる女性と大差ない残念なおつむの持ち主だ。
実のところ、会場内に、来賓の議員さんの娘さんだとか、取引先の社長の息子さんといった、学生さんもいる。が、そういう子達はこういった場に慣れていて、粗相をする心配はない。
下手をすると、参加を許可した側や同伴者の評判が下がるだけなので、若年でも参加が許されるには、こういった場に相応しい振る舞いが出来ることが暗黙の了解。
それに、こういった場に伴う時点でそれなりの関係―――伴侶か子供か、少なくとも婚約者であるとか―――が求められるわけだけれども、あのボンクラはどういう名目で彼女を連れてきたのやら。
まぁ、このあとどうせボンクラごと退場だ。今は放置でいい。
「放っておきなさい。それより、会場内のほかのお客様の様子を見てね。一人で暇をしている方がいないか、お困りの様子の方がいないか。私は今から席を外すから、後お願いね」
後輩たちにそう告げて時計を見ればいい頃合。私は一旦会場を出て、控室に走った。
着替えはしなくていいけれども、外しておいたアクセサリーをすべて身につけていく。
案内役をしていたため、目立たないように飾り物は外していたのだ。
ピアス、ネックレス、髪飾りに、指輪。手袋を持って、控室から出る。
そっと壇上へ入り口から入れば、社長のスピーチの最中だった。どうやら間に合ったようだ。
社長がちらりとこちらを見て、スピーチを締め括った。
会長がマイクへ近付いていく。老いて尚鋭いその眼光とは裏腹に好々爺然とした佇まいに騙されるものも多い。ただの老人に、日本を代表する大手企業の会長なんて務まるはずもなかろうに。
「本日は、お集まりいただいて、ありがとうございます。この場を借りて、皆様にお伝えしたいことがございます。樹」
呼ばれたのはボンクラの名前。彼は腕にぶら下がった賀野さんごと壇上に上がる。
私を見て一瞬驚いたようだが、そのあとに嗤った。にやりと厭らしく、なにか企んでいる風情で。
「社長である俊彦の次男で、樹です」
会長がそこまで言ったところで、ボンクラが会長からマイクを奪った。
「西家樹です。そしてこちらが、婚約者の賀野麻衣子です。後の社長夫人ですから、顔を売っておいて損はないと思いますよ」
会長、社長が止める暇も無かった。
しん、と沈黙だけが会場に落ちる。
やらかしてくれた、と。
常務や各部の部長達の苦い顔が眼に入る。
来賓の方々は呆気にとられている。そりゃそうだ。会長や社長が後継者を継げる前に、自分で次期社長とか言っちゃったし。ていうか、株式会社なんで、社長の息子であっても株主総会で認められなきゃ社長就任できないんだけど。わかってんのかこの馬鹿。
賀野さんの紹介も頂けない。二十代の若造に、媚を売れと上から目線の言葉を投げられて不愉快に思わない壮年男性がいたら見てみたい。
流石にここまで馬鹿やらかすと思ってなかった。
どうしたもんかな。
「東上の娘さんはどうされましたの? たしか樹さまと御婚約なさっていたのでは?」
議員さんの奥様が、そう言ったために会場にざわめきが広がる。
「私との婚約は破棄ということでよろしいでしょうか、樹さん」
壇上の隅、カーテンの陰で見えない位置から足を進める。
更にざわめきが広がる。見世物じみてきたな、まったく。
「西家樹さまは、私、東上かすみとの婚約を破棄なさるのかと聞いておりますの。お答えくださいませ」
「そうだ。そもそも俺はお前なんか好きじゃない。麻衣子のような優しくて思いやり深い可愛い女が俺にはぴったりなんだ」
言質、頂きました。
会長、社長とその隣にそれぞれ立つ夫人方に目を向けると、諦めたように頷かれました。
「分かりました。では、婚約破棄に伴う慰謝料については後日改めて、我が家の弁護士から御連絡いたしますわね、樹さん、それから賀野さんも」
「なっ、麻衣子は関係ないだろう」
「人のものと知って手を出して関係を破綻させたんだから、ないわけないだろう、バカか」
私の後ろから、力強い声が響きます。それと同時に、背中に触れる暖かい手。
「に、にいさん!? なんで……今頃、熱海に行ってるはずじゃ……」
「お前からの連絡をホイホイ鵜呑みにするわけないだろう。毎度毎度嘘ばかり、よく考え付くものだ」
私の斜め後ろに立っていたのは社長の長男の西家幹久。
先月まで外資系のコンサルティング会社に勤めていた、私や樹の二つ年上で現在三十歳。造作だけなら樹に軍配が上がるのだろうが、幹久もかなりのイケメンである。そして弟と違って頭もキレるし仕事も出来る。
「かすみを十年待たせた挙句に、見世物のように婚約破棄か。さぞ慰謝料も高いだろうな。まぁがんばれよ」
幹久さんが私の指に嵌っていた婚約指輪を抜き取って、社長夫人に渡す。
会長と社長が進み出て、マイクの前に立った。
「お騒がせして誠に申し訳ない。この機に次男の顔を皆様に覚えていただきたかったのです。東上かすみさんとの樹の婚約は破棄、樹は懲戒解雇の上、勘当いたしますので、以後当家とは関わりないものと周知いただきたいと、そうお伝えする予定でした」
「このような馬鹿ですので、御迷惑をおかけするやもしれませんので、皆様、どうかその場合は容赦なくご指導いただきますよう」
「なっ!」
ボンクラが会長と社長を見やる。
「会社の金で遊び歩いて仕事はしない、かすみさんが居られるのに、女子社員に次々と手を出す。取引先には脅迫まがいのことをしでかす、これ以上うちの会社に置いておいては害にしかならん」
「社内外からも苦情が来ているの。かすみさんももう無理だと仰ったことだし、家を傾けるような息子は西家には要りません。住んでいるマンションの部屋だけは手切れ金がわりに下さるそうよ。その代わり、二度と顔を見せないで頂戴。まったく。かすみさんを無下に扱って、連れてきたのがソレだなんて、救いようがないわ」
社長夫妻である両親に冷たく言い切られて、ボンクラがそんな、と呟いた。顔色は真っ青になっている。
「ひどぉい。麻衣子ソレじゃないもん。それにーそっちのおばさんより若くって可愛いーし、ねー?」
賀野さんが首を傾げる。視線は幹久さんにロックオンとか。この空気の中で、アホなの、この子?
「専務の吉原の細君の連れ子だそうだな。吉原は今日、細君が危篤で欠席と聞いているが、実の母の命が危ないという時に、君はここで何をしているんだ?」
「えーだってママを治すのはお医者さんの仕事でしょー? 麻衣子が行っても意味ないしー。それなら樹の婚約者だって発表されるほうが大事じゃなーい?」
幹久さんの言葉に、彼女がそう答えた。ボンクラが信じられないようなものを見たという顔で彼女を凝視している。
そりゃそうか。実母の死に目に駆けつけずに玉の輿に乗るほうが大事と言い切ったわけだから。
唖然としているのは会場内も同じ。会長夫妻と社長夫妻と幹久さん、あらかじめ話を聞いていた私だけが、冷静だった。
「吉原専務からの伝言です。実母を看取る気も無い娘さんに、葬式にも参加は不要とのことですわ」
専務はどんな気持ちでこの伝言を託したのか。まったく、奥さんはいい人だっただけに、娘の不出来が残念すぎる。
「ふーん、じゃあ予定通り旅行いけるね、樹」
その言葉に、ボンクラが得体の知れないものを見るような目を彼女に向けた。
「お前には似合いの娘を連れてきたんだろ、本当にお似合いだ。程度がな」
幹久さんが止めを刺した。
「ところで、樹は勘当されたわけだが、その意味を君はちゃんと理解している?」
「かんどーってアレでしょ、すごくよかった! ってことでしょ」
ほんとに、コレのどこがいいのか本気で理解しかねるんだけど。コレと比べて女性として下って言われたのよね、私。
その評価はあんまりじゃない?
「残念ながら、そちらの『感動』ではありません。樹さんは、もう西家とは、関係がない人物として扱われます、ということです。会社も解雇、ということですから、次の職を見つけない限り収入はゼロ。まあ、しばらくは失業保険が下りますけど、そもそも樹さんは贅沢に慣れたお方ですから足りるかどうか、というところでは? 幸い、マンションは下さるということですもの、そのまま住むもよし、売って安いところに引っ越すもよし。そのへんはお好きになさったら?」
「え、樹お金ないの? 会社も辞めるの? えーっ! どういうこと!?」
賀野さんが慌てて樹の腕を引く。完全に金目当てだったのが分かる行動です。ほんとうにありがとうこざいます。
「かすみへの慰謝料があるから、資産がマイナスになるのは確実だな。お前がさっきみたいに馬鹿なことをしでかさなかったら、勘当と解雇だけで済んだものを」
「そ、それ! 慰謝料って、そもそもなんで俺達が払わないといけないんだ!」
ボンクラが必死な顔で私を睨んで言う。うん、怖くないんだけどね。
「お前が、ソレと結婚したいからという理由で、お前の都合で婚約を破棄することを発表したからだ。これだけ大勢の人の前で彼女を貶めるような発言をしただろう。ソレは婚約関係の破綻の直接の原因で、お前は婚約関係の一方的な破棄と大勢の前で彼女の社会的立場に傷をつけた。しかも、彼女が十八の頃からの十年を、婚約関係で縛った上で、だ。婚約していなければ、彼女はその十年を他の女性達と同じように過ごせたわけだ。適齢期の女性の十年だぞ。どうみてもお前達にしか非がないだろう。慰謝料というのは非がある方が無い方に支払うものだ。いまさら金で解決できるもんでもないと、俺は思うがな」
「幹久さん、その辺で。樹さんも、賀野さんも、悪いとは思っていないようですから、結構ですよ。そのへんはうちのものがきちんとしますでしょうから。これ以上は会長にも社長にも、皆さんをお付き合いさせるのは申し訳ないですから」
場を納めようとした、のに。
「えー、樹お金ないならおにーさんでいいやー。どーお? 麻衣子可愛いし連れてあるいたら自慢できるよ? えっちのテクにも自信あるし!」
賀野さんがあっさり幹久に乗り換えようとする。ただのビッチじゃないですかやだー。
「可愛い、ねぇ……。顔と年齢と体にしかとりえがない。会話が楽しめるわけでもない。いらないな。かすみの方が人としても女性としても余程魅力的だし」
会長が、連れて行けと促すと、黒服の人たちが現れて、彼らを引っ張っていく。
「ああ、そうだ。賀野麻衣子、とやら。吉原が、養子縁組はしていないから、細君が亡くなったら面倒を見る義理もない。会社は当然解雇、家には二度と踏み入るなと言っていたぞ。樹の婚約者なんだから、樹が面倒みるんだろ、もちろん」
幹久さんが、連れて行かれる彼らの背中に、最後の一言を放った。ほんとに性格悪いんだから。
「皆様、お見苦しいところをお見せしました。気を取り直しまして、こちらにおりますのが、長男の幹久です。先月まで、WL&JSPコンサルティングに勤めておりました。この度、我社の経営企画部門の長として就任いたしました。今後、私の後継として顔を見せることも御座いましょうから、この機に顔を覚えていただきたいと思い紹介いたします」
「ただ今ご紹介に預かりました、西家俊彦の長男で幹久と申します。先ほどはお見苦しいところをお見せしまして、申し訳ありませんでした。前職を生かしつつ、会社と社員のためになる仕事をしていけるよう努力いたしますので、ご指導、御鞭撻のほど、何卒よろしくお願いいたします」
卒のない挨拶に盛大な拍手が起こる。弟と比べれば、まともな挨拶ができるだけでも安心するだろう。
「それから―――」
幹久さんがこちらを見て手を差し伸べる。意図が分からなくて首を傾げると、私のもとまでマイクを持って歩いてきた。
「彼女、東上かすみさんと婚約いたします。これから全身全霊をかけて幸せにしていくつもりです」
ちょっ。何言ってんの!?
なんで会場大盛り上がりなの。しかも会長夫妻も社長夫妻も拍手とか。
ボンクラが暴走したせいでなんか感動的に受け止められてるけど、ボンクラの勘当と解雇と婚約の破談、幹久さんの後継者お披露目と、私との婚約発表って、全部最初から決まってたことだからね。
幹久さんが、自分のポケットから指輪を取り出して、私の指にはめる。
ほら、この用意周到さを見れば、前々から計画してたって分かるでしょう。
重たくて不似合いだった樹の指輪と違って、シンプルで普段から使える可愛らしいデザインのもの。
さらっと好みのものを用意してくるあたり、ちゃんと私を見てくれているんだなと実感する。
「疲れたので、帰っていいですか?」
少し甘えてみたくなって、幹久さんを見上げたら、がっちり捕獲されました。
「いいわけないだろ。あいさつ回りぐらい付き合え。そのあとは連れて帰ってやる。うちに」
いや、それ帰る場所違うし!