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短編(人外×少女)

てんきあめと千本鳥居の向こう側

作者: ひより

  じわり、滲んだ汗が首筋を滑り落ちた。うだるような陽の気配がまだ残る宵の口は、お囃子が湿気を帯びたように耳の奥にまとわり付いて離れない。ぺたりと肌にはりつくTシャツの裾を扇いでも、ちっとも涼しくならなかった。


「お前、新しく引っ越してきたやつだろ!」

「ちょっとこっち来なよ!」

「……」

「なんか言えよ、おい!」


 このあたりの子どもは無遠慮で、がさつで、うまく馴染めなかった。鬱陶しく騒ぎ立てる彼らをちらりと一瞥して走り出す。

 追いかけてくるかもしれない、と頭を掠めた思いに振り返ると、隣の家のおばさんに捕まってなにやら言い付けられていた。きっと、お祭りの手伝いをさせられるのだ。

 いい気味、そう吐き捨てようとして、いつの間にかきつく唇をかみしめていたことに気が付く。


 群れた烏が飛んで帰ってゆく。山の向こうはまだぼんやりと明るかった。

 この場所に来て初めての季節が終わる。

 藍色に染まった空を、意図せず紛れ込んでしまった祭の騒がしさの中ひとりで眺める。


「……どこかに、」


 零しかけた言葉を飲み込んで、さまよわせた視線を落とす。

 どこを見ても目に入るのは、ごく普通の親子連れ。少し前まで疑うことさえなかったのに、今は胸に刺さるほど遠い。


 そろりと舌で撫ぜた唇は鉄の匂いがする。

 お盆のたびに遊びに来ていたおばあちゃんは優しくてご飯が上手で好きだった。

 けれど、今の気遣うような、腫れ物に触るような対応にはもう、うんざりで。「会いたくない。」


 他人の声が疎ましくて、逃げるように神社の奥へと足を進める。

 参道に立ち並ぶ屋台を抜けて、神社の社殿のその裏へ。人気がなくなるにしたがって頭がぼんやりとしてくる。

 滲む視界には気づかないふりをして、薄暗い境内を駆け抜けた先にあったのは、朱色。朱色の道標。

 遠く提灯のあかりでほどけた闇の中に、それは一際浮かんで見えた。


「こんなとこ、あったかな」


 田舎町のうらぶれた神社にあるにしては、いやに綺麗な千本鳥居が道をひらいている。いくら越してきたばかりでも、この地域の土地勘はそれなりにあるのにこんな場所、見たこともなければ聞いたこともなかった。


「最近出来た? ……そんなわけ、ない」


 もっと小さかった頃お母さんにつれられてお参りに来て、それなりに探険は済ませている。

 それに確か、神主さんさえ月に一度の管理とお祭りの時しかやってこないはずで。

 それくらい小さな神社に、こんなに立派なものがあるわけがない。 例え昔からあったとしても、少しは記憶に残っているはずだ。


 なんだかおかしい気がした。ここには近づいてはいけないような。

 でも、どこまでも続くその朱色から、目が離せない。


「どこにつながってるんだろう」


 気がつけば一歩踏み出していた。瞬間、おばあちゃんの言葉が頭をよぎったけれど、それはつかまえる前に遠くに消えてしまう。

 ……なにか大事なことを言われた覚えがあるのだけれど、なんだったかな。

 記憶に靄がかかったように思い出せない。

 すっきりしない、奇妙な感覚に襲われながら、一段一段登っていた。

 隅が微かに苔むした石段は、けれど汚らしく剥がれているところもなく、人の通りが久しいことが見てとれる。

 先の見えないほど遠いその先はどこに続いているのだろう。

 確かなのは、どこかとおくに。さえずりのきこえない場所に。


 緑を剥がしてしまわないようにゆっくりと足を進める。

 変化に乏しい視界に、それでも時間の流れを感じさせるのは、日が沈んで、朧気だった姿をくっきりと夜空に現した月の明かり。

 緩やかに蛇行する階段に、影は健気にあわせて向きを変えた。

 なんとはなしにぼんやりと見つめつつ、それでも上に進む足は止まらない。


 不思議と、引き返そうという気持ちにはならなかった。





 ふと、目の前が墨で塗りつぶされたように見えなくなる。

 ぶ厚い雲が月を覆い隠したようだった。

 確かにあるはずの道標を急に失って、頭の後ろの方がきいんと冷えた。

 こわい。小さな木々のざわめきがいやに大きく聞こえた。

 そしてようやく、もう微かにもお囃子は聞こえないことに気付く。あんなに疎ましかったはずなのに、今は心細さが恋しく思わせる。

 真っ暗のなか、無闇やたらに手をばたつかせて見たけれど、指先はむなしく空を掻いて。 何も聞こえないのが、こわい。

 何も変わらないのは分かっていたけれど、 思わずぎゅっと目をつぶる。 瞬間、強い風がスカートを翻した。


―――りぃん。


 闇を裂いて響く、涼やかな音。


―――りん。りぃん。りん。


 繰り返される鈴の音に、そろりと瞼を上げる。

 前からゆっくりと降りてくるのは、あたたかな提灯のあかり。朱色を揺らめかせながらこちらに近付いてきた。

 ただ呆然と、何をする事もできずにそれを見つめた。


「……だれ?」


 涼やかな音。それは、鈴と同じ様な。すうっとよく通る声は耳に心地よく、答えることも忘れてしまう。

 少しずつ近づいてくるごとに、提灯の持つ手の白さや、濡れたような黒髪など、一つひとつ闇に浮かび上がる。

 遅れてゆるやかに雲が晴れ、彼の姿が月明かりに伸びた。すらりとのびたシルエットはそう大きくない。


「迷子?」

「迷子じゃない!」


 反射的に答えてしまって、思わず口を押さえた。見知らぬ初対面の人と口をきくなんて、不用心にも程がある。軽はずみな行動はもうとれないのに。

 そろりと手を下ろす。ちらりと窺った彼は、紺色の浴衣を涼しげに着こなしていた。口元には絶えず笑みが浮かんでいる。

 ……でも、悪い人じゃ、なさそう。


「どこから来たの? ここがどこか分かる?」


 幼さの残る声に問われて、なんとなく気が緩む。


「下の神社からずっとのぼってきた。だから、神社のなかでしょう?」

「下の神社から……」


 そう答えると、彼はしばらく悩んだ様子で黙り込んだ。

 それから、こちらを見据えてにこりと微笑む。


「君はヒトの子だろう、はやくここから帰ったほうがいいよ」

「ヒトノコって、あなたもじゃない?」

「僕は違うんだ」


 彼は相変わらずにこにこと笑っている。

 彼の言ったことの意味がまったく分からなかった。ヒトノコ、人間の子供じゃないっていうのは、どういうことなんだろう。

 ……同じくらいの歳に見えて、実は随分年上、という、ただそれだけの意味ではなさそうな含みのある言いようではあったけれど。


「あなた何歳なの?」

「えっ。……ああ、そういうことじゃないんだ。そうだね、僕は君の、おじいさんやおばあさんよりも年上かな」

「わたしのおばあちゃんって、60歳くらいなのよ」

「うん、それよりもずっと年上だ」


 まじまじとみても、彼は同い年か、頑張ってもひとつ上くらいにしか見えなかった。

 でも、隣に住むがさつな男の子たちより、前のクラスメイトよりもずっと優しそうにみえるから、本当に年上なのかもしれない。

 きっと、耳障りな言葉も、蛙も投げつけてこない。


 でも、だとしたら。


「……幽霊だから年とらなくなったってこと?」


 途端に首筋を冷たいものが撫でていく。

 いくら何でも黄泉の国に紛れ込んでしまったなんて。

 でも。今まで幽霊を見たことはなかったけれど、こんなに綺麗な顔をしているとは思わなかった。

 落ち着かなくなって、後ろに後ずさる。……ここが、階段だということを忘れて。当然のように足を踏み外して、支えを失った体がふわりと浮いた。


「ひぁ」

「わ、あぶなっ」


 落ちると思った瞬間、がくんと腕を引かれてとどまった。

 けれど勢いあまって、反対に前に倒れこんでしまう。つまり、助けてくれたらしい彼のほうに。

 なにかあたたかなものに抱きしめられていることに気づいて、反射的に閉じた目をそろりと開いた。目の前には、白い首。


「……あ、りがとう。もう大丈夫」

「そう、よかった」


 腕をつかんだ手のひらは冷たかったけれど、彼の体は幽霊とは思えないほどあたたかかった。

 最近の幽霊はあったかいのだろうか。思わず首をひねっていると、くすくすと笑い声が耳に入る。


「僕は幽霊ではないよ。そうだね、君が知ってそうな言葉で言えば、神様かな。」

「かみ、さま……?」


 かみさまとはあの、神様、のことだろうか。それ以外にかみさまなる存在をしらないのだけれど。

 かみさま、と音にして呟いてみると、なるほどしっくりくるような気がした。同じ歳の頃に見えるのに、随分大人びているのはそういう訳なのかもしれない。

 ひとり頷いて顔をあげると、彼は少し困ったように眉尻を下げている。


「そう、僕はこの神社に祀られる神様。今日はお祭りだから、僕も近くまでおりてみようと思っていたんだけど」


 それでほら、浴衣も着ているんだよ。最近のヒトの子の真似をしてみたんだ。

 彼が袖をひらひらと揺らしてみせる。なんだか、かみさまって思っていたのと違う。

 再び首を傾げると、彼は戸惑った様子で「浴衣を着るのでしょ?」と訊ねてくる。

 この地域で、男の子で浴衣を着る人はもう珍しい。

 おばあちゃんちの近所に住む子どもはほとんど浴衣を着ていなかった。

 けれど別におかしな事ではないし、それに彼は似合うから文句なんてつけようがなかった。深い紺色の、闇を溶かし込んだような浴衣に彼の白い肌がよく映える。


「浴衣、着てるよ。みんなではないけど」

「確かに君は着ていないね」

「だって、動きにくいもの」


 膝丈の臙脂色のスカートは、柔らかな風にふわりと揺れる。それが可愛くってお気に入りだった。おかあさんもよく似合うって、褒めてくれたもの。


「いまのヒトの子は、隙が多すぎる。」


 彼はこのスカートを一瞥して、目をそらしたけれど。言葉の意味はよくわからなかった。

 月明かりが見せる彼の表情は、なんとなく苦いものをうっかり口にしてしまったように見える。

 ……そういえば、夕ご飯を食べそこねた。

 おやつを食べてからずいぶん経つはずだけれど、おなかはあまりすいていない。もう陽は気配さえ微かになって、過ごしやすくなっていた。


 それでお祭りのことなのだけれど、と彼は明後日の方を眺めるのをやめてこちらをじっと見据えた。

 狐を思い出す、切れ長の目は先程よりも真剣味を帯びていて、なんとなく居住まいを正してしまう。


「今日はお祭りだから、道がひらきやすくなっていたのかもしれない。僕が近くまで降りようとしていた分」

「みちが、ひらきやすく?」


 みちっていうのは、今まで通ってきた、あの千本鳥居の道のことだろうか。あんなに素敵な道があれば、もっと早く気づいていたと思うのだけど。


「だから本当は君が来られる場所じゃないんだ、ここは。」

「今来てるのに?」

「そうだね。君にはまだすこし、難しいかもしれない」


 彼はまた微笑んだ。それが、わがままを言ったときのおかあさんと同じ笑い方で、少し、泣きたくなる。

 あの時だって、わがままを言ったつもりでも、言うつもりでもなかったのに。

 目の奥が熱を持ったような気がして、慌てて下を向いた。

 いつの間にかスカートをくしゃくしゃに握り締めていたから、やたら丁寧にしわを伸ばす。お気に入りだから。

 彼は何も言わなかった。


「ねえかみさま、お祭りにいくの?」

「いや、近くまででとどめておくよ。最近、僕がおりてくるとは思ってないみたいだからね」

「ふうん」

「でもそうだね、君が来たことだし、もう少し下までおりてみようか」

「ほんとう?」

「僕はヒトの子が楽しそうにしている様子を見るのはすきなんだ」


 せっかく身丈も子どもに合わせてきたのだし。

 彼はいたずらっぽく唇をゆがめると、手の中の鈴を目の高さまで掲げて見せた。

 りぃん、りぃん、と今まで聞いてきた鈴の音の中でも格別に涼やかに空気を震わせる。少し、首筋が粟立つようだった。


 朱色のリボンが結ばれたそれは、月の光をたっぷりと浴びてきらきらと揺らめいた。見ているとまた、頭がぼうっとしてくる。


 彼が空いた手を目の前にそっとかざす。ひんやりとした手のひらが心地よかった。


「少し、じっとしててね」


 ふわり、石段がほどけていく気配がした。





 鈴の音がふわふわと辺りをただよう様に響いて、少しずつ小さくなってくる。そして音が消えた。

 唯一感じられるのは、目元を覆う彼の手のひらだけ。

 でもそれもひと息のことで、無音の中で徐々に足元が確かになる。足の裏がきちんと地面を、砂利を踏みしめると、随分遠くからお囃子が聞こえてきた。


「もう大丈夫」


 外された手のひらを名残惜しく思いながら、小さく息を吐いた。

 今までより強い灯りにまばたきを繰り返して、それから辺りを見渡した。

 ここ、千本鳥居の中じゃない。


「え、なにこれ」


 どこを見てもあの朱色が見当たらなかった。

 周りには沢山の木々と、古めかしい建物。

 足元には砂利が敷き詰められていて、見上げると闇の中にぽっかりと銀色が浮んでいる。

 冴え冴えと辺りを照らす月光のおかげで、彼の睫毛が頬に落とす影さえよく見えた。


「ここ、知ってる気がする」

「それはそうだよ、下のお社だからね」

「……おまつり、行かないって言った」


 彼は笑みを深くすると、ごく自然に手をつないで歩き出す。

 提燈の温かいあかりがこぼれる、境内の外へ。夜が更けたといっても、きっとまだ人がたくさんいる光景を頭に浮かべると、自然と足が重くなってくる。


「大丈夫。正確に言うとここは、君が一度も来たことがない場所だから」

「どういうこと?」


 参道を一望できる場所にまで出てくると、彼はぴたりと足を止めた。

 明るいほうから逸らしていた視線を、彼に促されてしぶしぶ向ける。

 夕方に見た通りのたくさんの屋台が並んでいて、でも、それだけだった。


「どうして誰もいないの」

「いないわけじゃない、よく目を凝らしてみて」


 全く意味は分からない。

 けれど言われた通り、とりあえず一番手前のりんご飴の屋台をじっと見つめてみる。

 無人の屋台に並ぶ小さめのお菓子は、つやつやと真っ赤に照っていてとても美味しそうで。それが、ふいに宙に浮くと、するすると動いて、口に運ばれる。


「口にって、あっ」


 りんご飴が齧られると分かった瞬間、浴衣姿の女の人がそこにいた。嬉しそうに串を握ると、隣にいた男の人に笑いかける。

 それからは目を凝らさなくても次々に人が見えた。

 二人が屋台を離れるのと入れ替わりに、新たにやってきた女の子と、そのお母さん。

 屋台のおじさんに、怒られている手に飴を掴んだ少年。

 逃げ出したその友達は、待ち構えていた金魚すくい屋のおじさんに首根っこをつかまれていて、おばさんがまあまあととりなしている。

 気がつけば参道いっぱいに人が溢れていた。


「ほら、いないわけじゃなかったでしょう」

「なんで?」

「ここはすこし重なっているんだけど、……難しいから、わからなくていいよ」


 彼はこちらを覗き込むと、開いた手で幼子にするみたいにぽんぽんと頭を撫でてくる。

 まるで年下のこどもの扱いで、少しむっとしたけれど、そういえば彼はずうっと年上なのだと思い出した。だからこどもでいい。

 口では文句を言いながら、ちょっぴり乱れた髪の毛を手櫛でとかす。

 撫でられたときのすこしむずがゆい感じは、別に、嫌いじゃなかった。


「何か欲しい?」

「あんまり、みんなに会いたくない。」

「じろじろと見つめられなければ、僕達のことは見えないよ」

「じゃあ何も買えないじゃない」

「……そうだね、大丈夫。買い物をするときだけは、見えるけど気づかれないようにしてあげるから」

「そんなことできるの?」

「もちろん、かみさまだからね!」


 彼はちょっとだけ得意気に笑った。なんだか、直視できなかった。





 右手に持ったりんご飴は、提灯のあかりの下ではいやに赤くきらめいていた。

 これ、食べたら帰れなくなっちゃったりしないのかな。

 かつて読んでもらった御伽話を思い出して、口をつけることを躊躇っていると、隣で懐かしのヒーローもののお面を付けた彼がくすくす笑った。


「大丈夫だよ、食べても無事に帰してあげる」

「なんで分かったの?」

「だって、買う前は物欲しそうに見つめてたのに、急に神妙な顔つきになれば分かるに決まってるよ」

「かみさまだから?」

「ふふ、そう、かみさまだから」


 ひとしきり屋台を冷やかし、少しの買い物をして境内に戻ってきたときにはちょっぴり疲れていた。でもそれははしゃぎすぎたせいもあって。


「最近はめっきり笛の音も聞かないけれど、代わりに変なものが音を奏でているみたいだね?」

「あれはスピーカー。ええと、上手な人の演奏をどこでも聞けるようにする道具、かな」

「ここで曲を奏でる訳にはいかないのかな?」

「楽器を演奏できる人は少ないよ」


 昔のことは知らないけれど。

 もうずいぶん前に発明されたはずの機械を見つめながら、足元の砂利を蹴った。

 彼は暢気に、あれが何なのかずっと気になっていたんだ、なんてにこにことうかれているようだった。


 腰掛けた石段はひんやりと冷たかったけれど、不思議とそれだけで、身に沁みてこなかった。それが、どうしようもなくこわかった。

 彼は手をつないだまま、楽しそうにお囃子を口ずさんでいる。

 彼を真似て耳をすませたお囃子は、古びたスピーカーが奏でるに相応しく重みがなくさらりと通り過ぎていった。


「ほら、じきにお祭りもおわるよ。全く、最近は終わるのが早くていけないね」

「昔は長かったの?」

「夜が明けて日が昇るまでしていたよ」

「そんなにお祭りすきだったんだ!」

「……まあね。ほら、君もお帰り」

「え?」


 なんのてらいもなく告げられた言葉に息ができなくなる。けれど、それも一瞬のことで。

 たどたどしく息を整えて、そろりと覗いた彼の表情は、あの時と、同じで。おいていかれる。見たくない。


「……いや」

「どうしたの?」

「いや、帰りたくない。ここにいる!」

「それは、」

「かみさまなんでしょ、ヒトノコひとりくらい置いてくれたっていいじゃない」


 ちがう、本当はあのとき言えなかっただけなのに。もの分かりのいい振りをしたせいなのに。

 困らせているのが分かって、顔が上げられない。石段に投げ出していた足を引き寄せて抱え込む。

 橙の灯りがつくった屋台の影が、足元まで覆い隠していた。


「そうはいっても、君にはまだあの場所に心残りが、大事なものがあるでしょう」

「ない」

「よく思い出して、」


 かぶりを振って、両手で耳を塞ぐ。

 いや。わたし、きずつきたくないの。


「だいじなものなんてない。おかあさん、いなくなっちゃった」

「君は意地っ張りだな」

「だって、」

「……君の後ろからあったかい感じがする。君を心配するものがいるんだろう」

「だれもいない」

「本当に?」

「でも」

「ほんとうに、きづいていないの?」

「……おばあちゃん」


 ふいに思い出した、気遣う目線。頭の中をぐるぐるかき回されるような気持ち悪さと一緒に、さよならの日の朝がよみがえってくる。息ができない。がんがんと耳鳴りが響く。


「ちがう。私のせいじゃない。どうすればよかったの? だっていいこでいてねって、でも、いいこでいても、おいておかれるの。

 どうやって頑張ったらいいの。勝手にいなくなって、おいていかれて、いいこでいてねっていうから頑張ったのに、意味なんてなくて、だれもいなくて、いいこでいてもしょうがなくて、さみしくて、それなら、頑張って、またおんなじのは、いやっ!!」


 ひとおもいに吐きだして、初めて気づく。

 わたしは思っていたよりも傷付いていた。もうがんばれないと思うほどに。

 彼を見ると、随分大人びた顔でこちらを見つめていた。何を考えてるのかすこしも読み取れなくて、こわくて目を瞑る。

 薄く息の吐かれる気配がした。体が強張る。


「頑張らなくても、君はいいこなんだよ」

「……なにを、知ってたみたいに」

「僕は神様だからね、知りたいことは何だって分かるんだ」


 どこか抑揚のうすい言葉は、それでもあたたかく滲む。


「君は笑顔が可愛くて、怖がりで、でも知らないものに首を突っ込みたがる危なっかしいこどもだよ」


 首を振っているうちに乱れ、顔を隠していた髪が、優しい手つきで耳にかけられる。


「だからそんなに急いで大人になろうとしないで」


 何言ってるの、貴方には関係ない。

 自分ではそう言っているつもりだったのに、口から出るのは言葉にならない叫び声で。

 頬に暖かいものが伝ってようやく、自分が小さな子どもみたいに大声で泣いていることに気づいた。

 ぽんぽんとあやすようなリズムで頭に落とされる手のひらに、みっともなくすがりついて泣きわめいた。





 ひんやりとした指先が、目尻に浮かんでいたらしい雫をすくい取るように触れた。

 そっと目を開けると、彼は慈しむような表情を浮かべてこちらを見ている。

 気恥ずかしくて、思わずじとっと睨みつけると、彼はくすくすと笑った。


「……なに」

「その調子だよ」

「うるさい」


 きっと腫れぼったくなっているに違いない目元を見られたくなくて、顔を背ける。泣きつかれたせいで声もかれているし、鼻もつうんとするしたけれど、気分はここ最近ないくらい晴れやかだった。


「そうだ、せっかくだからおまじないをしてあげる」

「おまじない?」

「君は随分弱虫のようだから特別」

「なにそれ」

「ふふ、手を貸して」


 彼の目の前に左手を差し出すと、そっと両手にとられる。

 それから、ひたりとこちらを見据えた。いつも優しげな目元が少し細められる。


「……まず、君の名前は?」

「なんでも知ってるんじゃないの?」

「君の口から教えてもらうのが大切なんだよ」

「変なの………まあいいや、わたしは***」

「そう、僕は********」

「変な名前」

「わすれないだろう?」

「そうだね」


 彼は楽しそうに緩めた口元を引き締めなおして、手の甲をそろそろと指で辿る。その軌跡が朱色にうっすら浮かび上がって、すぐに消えてしまった。

 それから空中を掴むようにすると、手の中にぼんやり明るいものが集まった。

 彼の顔が明かりに浮かんで神秘的にみえて、改めて、目の前の彼がかみさまなのだと迫られた気がした。


 明かりを纏わせた彼の手が、差し出した左手に重ねられる。ぽうっと光りにつつまれ、一瞬薬指の根本のあたりが一際強く輝いて、消えた。


「なんで薬指?」

「え? 最近、ヒトの子が一生の約束をするときに使うのでしょ?」

「……多分かみさまが思ってるのと違うと思うよ」


 知りたいとこはなんでも分かるんじゃなかったのか、と悪態をつきたくなったけれど、スピーカーの件を思うといろいろ制約があるのかもしれない。かみさま事情はよく分からない。

 けれど心のどこかで、その勘違いを嬉しい思っていることは、まだ深く考えたくなかった。


 間違ってないと思うけどなあ、としきり首を傾げる彼を眺めていると、ふと視線が絡んだ。

 複雑な顔をしているらしいわたしに、彼はいたずらっぽく笑いかける。どこか蠱惑的な色が潜んでいて、少し面食らった。


「な、なに?」

「…………おまじないは、まだ終わりじゃないんだよ?」


 わたしは自分の唇をそろりと撫でた。彼の指先の冷たさがほんのりと移っている。ただそれだけのことを意識して、どうしようもなく、恥ずかしい。

 彼がくすくすと笑う気配がして、落としていた視線をあげると同じようにその白い指先で唇を撫でていた。

 お揃いだね、と彼がつぶやく。なんて言ったらいいのか分からないけれど、わたしは落ちつかなくて、居心地が悪いような、胸が熱くて苦しいような、奇妙な感覚に包まれた。


 なんとなく大人の余裕に翻弄された気分になっていると、ふと彼が空を見上げて眉をひそめた。

 つられて空をみると、夜空にぽっかりと浮かんでたはずの月が、記憶よりも随分傾き、輪郭が暗闇に滲んで光が溶けだしているようにも見えた。


「随分遅くまで引き止めてしまったね」

「……さっきはわがまま言ってごめんなさい」

 彼は首を軽く振ると、にこりと涼やかに微笑む。

 そうだ、と彼が着物の袂をさぐった。


「君にこれをかしてあげる。」

「あの鈴!」

「どうやら気に入ったみたいだからね。」

「でも、大事なものじゃない?」

「もし、こっちにきたくなったら、そのときに返してくれればいい」

「……わたし、またここに来れるの?」

「もちろん。君は何のためにおまじないをしたと思っているの?」


 ちょっと自慢げな、してやったりとでも表情の彼に、ぶわっと顔に血が登る。そっと受け取った鈴を手の中にぎゅっと握りしめた。


 「君の心残りが本当になくなったとき、鈴の音が僕に聞こえるから。そのときは迎えに来てあげる」

「……いいの?」

「これは約束。君は僕のところに帰ってくるんだ。」


 帰る場所を見失ったわたしの、帰る場所になってくれる約束。おまじない。

 手の中の鈴が、彼と同じ涼やかな音で響く限り、何度でも思い出せる。大丈夫だって思える。

 また一筋、頬に雫が流れた。わたし、こんなに泣き虫だったかな。





「振り返らずに、まっすぐかえるんだよ。さあ、はやくお帰り」

「じゃあ」

「またね」


 振り返らずに、いっぽ、いっぽ。途中で怖くなって目を瞑ると、鈴の音が聞こえた。ひんやりと、でも温かい音だった。手渡してくれたときの指の温度をずうっと覚えている。


「わたし、もうすこしだけ、がんばれる気がする」


 ふと気がつけば、既に神社の境内に下りてきていた。慌てて神社の裏を覗いてみたけれど、あの美しい千本鳥居は見当たらなくて。でも草に埋もれた細い石段だけが見つかった。


 未だに残る祭の喧騒の遠くから人の声がする。わたしを、呼ぶ声がする。その間だけ、わたしはここにいる。手の中の、あの鳥居と同じ色をしたリボンが付いた、鈴がなんだかあたたかかった。


 ふらふらと家に帰ると、おばあちゃんに叱られた。心配したのだそうだ。いまはそれが、くすぐったい気がする。


 今夜の風は雨の匂いがした。きっと、近いうちに雨がくるのだ。


ーーー○○県××村在住の*****さん(17)が**月**日以降行方不明であることから、××村によって県警に捜索願いが出されいる。彼女は現在身寄りがなく、6年前にも行方不明になっていることから、地元では覚悟の失踪とも神隠しにあったとも噂されている。○○県警ではーーー


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