プロローグ~菫~
私には8歳までの記憶がなく、2、3年前の記憶もあいまいです。
でもそのことについてはたいして気に病んだこともありませんし、深く考えたこともありません。
絢彦さんに出会った日から私は息を吹き返したのだと思います。
だから知らない過去なんて別にどうでもよかったのです。
だって私は幸福しか知らなかったから。
今日はいつもとほんの少し、違っていました。
朝から絢彦さんと家の方たちが何やら私の荷物を車につめて、どこかへ出かける準備をしていたのです。
私はなんだろうと思いながらその光景をただ見つめているだけでした。
そして久しぶりに絢彦さんと一緒に外に出かけました。
それはもう誕生日とクリスマスが同時に来てしまったくらいに胸が高鳴って、私は隣で運転をしている絢彦さんの顔を何度も何度も見てしまいました。
ちょうど天辺に太陽が昇った頃、車が止まりました。
「ここが今日から菫の住むところだよ」
私を車から降ろした絢彦さんはそう言いました。
目の前には見たことのない景色が広がっていました。それはごくありふれた風景だったのかもしれませんが、家を滅多に出ない私にとっては非日常的なものでした。
そこは心地の良い風が吹く小高い丘の上のようで、私はおぼつかない足取りで丘の端まで行きました。小さな町が見降ろせて、それは背丈の低い私には初めての感覚でした。
「危ないよ」
優しい声が聴こえたと思ったら、絢彦さんは私の体を引寄せて「こっちだよ」と指を指しました。その綺麗な指はぽつんと建つ二階建ての古びた煉瓦造りの建物を指していました。
絢彦さんによると以前は高級ホテルとして使われていたらしいのですが、今は廃業して宿泊客でにぎわうこともなく、その建物には人の名残がひそやかに漂うだけでした。
淡々と流れていった時間が建物にこびりつき、周囲の庭も手入れされることなく、当時は美しく咲きほこっていたかもしれない花々や、季節の便りを運んでくれていたかもしれない木々たちが無秩序に成長しておりました。
「このホテルは幽霊ホテルだと町の人達が言っていた。暇を弄ぶ彼らの暇つぶし程度の根拠のない噂だろうけど、ちょっと好奇心がわくだろう?」
絢彦さんが珍しく子供っぽい顔をして笑って言いました。絢彦さんは怖いお話が好きなのです。
「菫は今日からこのホテルに住むんだ」
出かけるときに絢彦さんや家の方たちが車に沢山の荷物を積んでいたのを見て不思議に思っていた私は、そういうことだったのかと納得しました。
絢彦さんがドアを開けると、ギイという重みと長い年月を思わせる音がしました。
「それから、ここにはもう一人、既に住んでいる奴がいるんだ」
「え?幽霊?」
「大丈夫。そいつは人間で、俺の友人だ」
先ほどのおばけの噂話を聞いて少し怯えている私を見た絢彦さんは、なだめるように私の頭を優しくなで「後で紹介するよ」と言いました。