第一話 鬼灯霧江はだらだら暮らしたい。
目が覚めた瞬間。鬼灯霧江は遅刻を確信した。
「……あー……」
口を開けたまま横向きになって寝ていたせいで、よだれが枕に垂れている。霧江は小さく呻いて、寝間着にしているスゥエットの袖の端で口を拭った。
寝不足が確実な時間に床についたため、本来なら目覚ましのアラームによって気分の悪い目覚めを迎えるはずだったのだが、どういうわけか自然に覚醒。実にすっきりとした目覚め。
加えて、アラームをセットし忘れたことを思い出す。
ぱ、と枕元に置いたスマートフォンを確認。
側面の電源ボタンを押す。ディスプレイに表示されたデジタル時計が示している時刻は7:30
「……あれ?」
意外にも、急げばまだ間に合いそうな時間だった。
「……よし」
霧江は乱れていたかけ布団を被りなおし、目を閉じる。
今起きれば間に合う。が。
なんかもういいや。
どうせ今日はたいした講義もなかったし、今から慌てて大学へ行くよりも、せっかくなので家でゆっくりして時間を有意義にすごしたい。
駄目人間特有の、どこまでも自分に都合のよい思考回路を適当にだらだら回しつつ、鬼灯霧江はまどろみの中に落ちた。
しばしの静寂。
彼女にとっての平穏が訪れる。
しかし。
「おいお前。起きないと遅刻するぞ」
「……」
開け放たれた扉。静寂を引き裂く声。平穏は一瞬にして終わる。
扉が開くと同時に差し込んだ光が霧江の顔を照らした。
「うう、まぶし……」
「おい。さっさと起きろ馬鹿。だれが学費払ってると思ってんだこの愚妹」
光から逃れようと、かけ布団を頭までかぶる霧江に対し、声の主は彼女の部屋に上がりこむと壁のスイッチを押して明かりを灯し、かけ布団を剥ぎにかかった。
「やめろよぅ兄貴ぃ……あと5分」
「アホかお前大学生にもなって。めんどくせぇからさっさと起きろ」
何としても奪われまい。奪われてなるものか。例え死んでもお布団死守!とばかりに、かけ布団にしがみつく霧江。
負けじと、強引に引っ張り上げようとするる彼女の兄、鬼灯零次。
「あー。やだ。今起きたら急がないと電車間に合わないからヤダ」
「いやわかってんなら起きろよ」
「やだー急ぎたくない。めんどくさい。ちょうめんどくさい」
「いい加減にしろこの潜在的NEET」
「ニートじゃないもの学生だものバイトしてるもの」
「学生なら学校へ行け!引き籠りじゃねぇんだから」
「じゃあ私今日からヒッキーになるー」
「ああもうじれってぇ!」
「げふっ」
どすーん、と若干ご近所に迷惑な、鈍い音が響き渡る。
かけ布団ごと強引に、50センチくらい持ち上げられた霧江が、そのまま手を離されて敷布団へ落下した音であった。
背中から墜落した霧江は、衝撃で肺に溜まった息を吐き出した。
「ぐぅ……暴力に訴えるとか。虐待だ。あんまりだ」
「それで目も覚めたろう。さっさと飯食って大学行け。さもなきゃこのままこの部屋に居座って手前の安眠を妨害しつくしてやる」
「なにその粘着質……って言うか兄貴仕事は?」
「俺はお前と違って真面目だからいつもニコニコ定時退社なんだよ」
「家族と会社のためにたまには残業しろよ」
「お前が言うな」
「あてっ」
脇腹のあたりを軽くつま先で小突かれたところで、霧江は観念して起き上がる。
「もー。めんどくさいなぁ」
「急げよ。グダグダしすぎて余計時間食ったんだから」
それだけ言うと、零次は小さなため息とともに霧江の部屋を後にした。
「はいはい。そうしますよっと」
そうこぼすと、霧江はスウェットの袖をひっぱり、着替えるために服を脱ぎ始めた。
◆◆◆
「ふわ……あ」
霧江はあくびを一つつき、洗面所を後にする。
黒いTシャツと、青いジーンズという、ファッションのファの字も色気も女っ気もへったくれもない格好。
身長165cm 平均的なスタイル。
自分の容姿に対する無頓着さは、服装だけではなく表情にも表れている。
長い黒髪。切れ長の目。端正な顔立ち。
凛としていれば間違いなく美人であろう彼女は、しかしだらけ切った表情を浮かべ、また欠伸をしつつ後頭部をわしゃわしゃと掻いていた。
今の彼女を見て美人だと思える人は10人中2人もいないだろう。
特徴的なその長い髪も、一見すると手入れが行き届いているように見えて、実は全国の黒髪ロングの皆さんからお怒りのメールが送られてくるくらい全く手入れしていない。強いて言うなら風呂の時に安物のシャンプーで洗うくらいである。
髪が綺麗に見えるのは、彼女の持つある特性故だ。
霧江はダイニングへと通じるドアのノブに手をかけた。
グリーンフォレストマンション8階803号室。
そこが鬼灯一家の住む家である。
その間取りを説明すると、まず玄関、廊下があり、廊下の一番手前に左右にそれぞれ6畳の洋間に続く扉がある。
左の部屋が霧江の部屋で、右の部屋が霧江の兄零次と、その娘である雫の寝室。
廊下をさらに進むと、右側にトイレと洗面所があり、洗面所の奥には風呂。
廊下の突き当りのドアを開けると10畳のダイニングキッチン。その隣には8畳の和室がある。
「おねーちゃんおはよー」
ダイニングに入ると、キッチンの前に設置された大きなテーブルから底抜けに明るい声。
まだ幼い丸みを帯びた顔、ぱっちりとした目。髪は透き通るような銀色で、それを後ろで束ねてポニーテールにしている。
今年からようやく小学校に通い始めた零次の娘、鬼灯雫。零次と二人して食卓を囲んでいる。
さすがに19で叔母さんと呼ばれたくはないので、霧江は自分のことをお姉ちゃんと呼ばせている。
「おはよー雫。いいもの食べてるわね」
今日の夕食はエビフライのようだ。大きめの皿に、レタスとプチトマトのサラダと、金色の衣に包まれた車エビのフライが3つほど乗せられている。
雫はフォークでその一つを刺し、小皿にのったタルタルソースをたっぷりつけ、口へと運ぶ。
サクッ、と良い音を立てて、エビフライの三分の一ほどが少女の口の中へ消えていった。
「おいしい?」
「うん。パパの料理最高」
霧江の問いに満面の笑みでこたえる雫。霧江ほほえましいなと思いつつキッチンに入り、冷蔵庫を開ける。
食卓に用意された料理は二人分だけで、霧江の分はないが、この一家にとってこれは、いつも通りで当たり前の風景だった。
そもそも生活リズムが違う。霧江も寝起きで油っこい物を食べる気はない。
窓の外、日が落ちてすっかり暗くなり、灯りがともった町並みを月が見下ろしている。
時刻は午後7時45分。
霧江は昼夜逆転した生活を送っているのだ。
彼女は冷蔵室の中から銀色のプラスチックの飲み口の付いた銀色のパウチパックを一つ取りだした。
半日活動するならこれ一つで十分足りる。
「あ、そうだ霧江」
茶碗を片手に、零次がふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「大学終ったら会議室に来い。ボスがお前に頼みがあるんだと」
「……ん。わかった。じゃいってきま」
「ああ、いってらっしゃい」
「おねーちゃんいってらっしゃーい!」
フォークを置いて手を振る雫。パックを片手に、霧江はリビングを後にした。
布団が敷きっぱなし、着替えが放りっぱなしの自分の部屋に戻り、大きめのショルダーバックを肩にかける。
部屋の明かりを消し、靴を履いて玄関の扉を開く。
春の夜にふさわしい涼しい風は、寝起きの体に心地いい刺激を与える。
霧江は階段を降りつつ、手に持ったパックのキャップを開け、一口。
「……このメーカーの、最近味落ちたわよね」
歩きながら、僅かに顔をしかめ、飲み口から口を離し容器の表面を睨む。
浅葱製菓「ブラッドinゼリー」
人工血液を利用した、吸血種向けのゼリー飲料である。
「家にあるの無くなったらどっか別のとこに変えよ……」
そんなことを呟いて、彼女は残りの中身を一気に飲み干した。
それでも、この人工血液。今や普通の人間の血よりも味が濃くて美味いのだから驚きである。
人間と魔族の共存のためとはいえ、一体どこの誰が、どんな情熱をささげてこんなものを開発したのだろう。吸血鬼である霧江としては頭の下がる思いではあった。
「さて、ま、急ぐのめんどいし、遅刻前提でゆっくり行きますか」
空になった容器はどこかのコンビニのゴミ箱にでも捨てようとポケットに入れ、霧江は夜の住宅街をだらだらとした足取りで歩き始めた。
そう、彼女は人間ではない。
10年前のとある事件によって吸血鬼になり、以来この街で暮らしている。
日本領海内。太平洋上にある巨大な埋め立て地。天壌島。
昼の住人である人間と、夜の住人である妖魔の、共存のために作られた街である。