プロローグ
一匹の蜘蛛が、網にかかった獲物に糸をぐるぐると巻きつけている。
この糸は「捕帯」と呼ばれるものだ。
獲物の動きを奪い、活かさず殺さず、生物から食料へと加工する呪いの鎖。
捕らわれた獲物は、その小さな体を必死によじらせ、死の運命から逃れようと抵抗する。
それが徒労であると、無駄だとわかっていても、己の命を諦めないためには、たとえ四肢をもがれても足掻かなければならない。
地獄に落ちた罪人は、そこから抜け出すために蜘蛛の糸を掴んだが、この糸は本来、このように地獄へと送るために用いられるものだ。
獲物はただ、空しく絡めとられてゆく。
ある雨の日の夜。
六歳になったばかりのその少女は、両親も寝静まった頃に家を出た。
お気に入りの傘を持って、真新しい黄色の長靴を履いて。
それは、ちょっとした興味から始まった。
彼女は両親から、夜は危ないと教えられて育ち、これまで夜中に外を出歩いたことは一度もなかった。
知っている夜の光景と言えば、家にある窓から見渡せる狭い範囲。それも、夕方になると両親はカーテンを閉めてしまい、夜の間それを開けようとすると怒られるので、彼女は二人の見ていないすきにこっそりと覗くしかなかった。
窓から見える光景は、しかし禁止されるほど恐ろしいとは少女には思えなかった。確かに暗い世界は怖い。独特の静けさもある。だが、それ以外は昼間と同じ、いつもの路地。
一度くらい、夜の世界に出てみたい。
ある日少女はそんな望みを抱く。
禁忌だからこそ、それに触れたいという欲求。
ちょっとそこまで行ってみるだけだから、きっと安全だ。
何の根拠もない自信と共に、幼い冒険心は発揮された。
それは猫を殺す好奇心。
雨は小降りで、今にも止みそうだった。
もし今日が、いつも通りの夜であったなら、少女は多少のスリルは感じるかもしれないが、無事に帰ることができただろう。
冒険心が満たされたことへの幸福感と達成感を得て、外出に気づいた両親にこっぴどく叱られ、ちょっぴり後悔する。
そんな幼き日の、思い出の欠片として残されるべき出来事になるはずだった。
だが、そうはならなかった。
偶然の神様は最悪なタイミングを心得ているのだ。
少女は、家から少し離れた場所にある街燈までたどり着いた。距離にして十メートルも離れていないが、彼女の心を高揚させるには十分だった。
初めての夜の世界。
初めて触れる、暗くて冷たい空気。
ふと、彼女はどこからか甘いにおいを感じ取った。雨のにおいとは別の、果実のような花のような、かぐわしい香り。
その香りのする方へ、彼女は歩きだした。
自分が誘われた蛾であるとも知らずに。
今日の夜は、少し特別だった。
丁度、引っ越してきた蜘蛛が巣を張り終えたところだったのだ。
雨はやんでいた。
彼女は傘を閉じ、狭い裏路地へと入った。
長靴がぴちゃぴちゃと水たまりを撥ねる音が心地いい。
あちこちに蜘蛛の巣が張ってあったが、今の彼女には気にならなかった。
不思議と気分が踊っていた。
両親からあれだけ怖い怖いと教え込まれた世界を、自分は歩いている。
夜なんて怖くない。蜘蛛なんかこわくない、そう思いながら、閉じた傘を剣のように振り回し、通るのに邪魔なクモの巣を次々壊す。
それがどんな悲劇につながるとも知らずに。
もしここで、お気に入りの傘が汚れるのが嫌だという、あたりまえの想いが抱けていたら、彼女が迎える運命は、また違ったものになっていただろうか。
いや、同じだ。何故ならすでに彼女は網にかかり、もはや巣の主を待つほか無かったのだから。
「くふ、ふふふふ」
何が起こったのか、少女には理解できなかった。
糸に巻かれ、毒に回られ、うすれゆく意識の中、気づけば蜘蛛の顔が目の前にあった。
八つの目と鋭い牙。
漆黒の闇を思わせる黒い髪。
裏路地の中。
ひときわ大きな巣を壊そうとした瞬間、その巣を構成していた糸が、お気に入りの傘に絡み付いた。
本来、この街に住んでいる人間ならば、その瞬間に気づくべきだった。
しかし、蜘蛛の発した甘い匂いがそうさせたのか、一種の陶酔状態に置かれていた少女には、その危機感が足りていなかったのだ。
お気に入りの傘を取り返そうと、両手で柄を握り振りほどこうとするも、糸は意に反してどんどん巻きついてくる。
傘から腕に糸が達したところで、誰かの気配を感じ、振り返った。
セーラー服を着た長髪の少女が、彼女のすぐ後ろにいた。
助けを求めようと口を開くと、相手の少女は目を全て開き、二ヤリと笑みを浮かべた。
八つの目。口元からのぞく二本の牙。
人の形をした蜘蛛。
そこからは一瞬だった。
恐怖で動けない少女が、悲鳴を上げる前に、セーラー服の少女はその牙で小さな少女の首筋に噛みついた。
噛んで少し間を置き、牙を離し、蜘蛛は獲物を巻き続けた。
――久しぶりの獲物だ。
肉のやわらかそうな幼い少女。
逃げられないよう慎重に、毒と糸で確実に動きを止めた後で、生きたままの臓物と血を味わおうと心に決めた。
こんな御馳走、今度いつありつけるか解ったものではない。
「……て……」
ふと、獲物が蚊の鳴くような声を出していることに気づいた。
毒で殺してしまわないようにと、少なめに打ちこんだせいか、まだ意識があるようだ。
蜘蛛は笑みを浮かべつつ、顔を近づけ、獲物の最後の声を楽しむことにした。
「たす……けて……」
虫の息で必死に絞り出したような言葉。
それを聞いて、蜘蛛の大きな口がいびつに、かつ楽しそうに歪む。
圧倒的弱者が、必死の思いで絞り出す最後の抵抗に、嗜虐心をたまらなく煽られる。
――嗚呼、今ここで食べてしまいたい!意識があるまま、自分が死んでゆくのを感じさせて、狂うことも許さず、ゆっくり、ゆっくりとその体を啜りたい。
――いったいどんな顔をして食べられてくれるんだろう!どんな味がするんだろう!
蜘蛛は湧き上がる衝動を必死に抑えた。
本当ならすぐにでも、その肌に牙を突きたて血液を吸い肉を食み骨の髄まで味わいたいところなのだが、生憎、そうもいかないのだ。
本当ならば自分こそが危険な橋を渡っているのだから。
「――わかった、今助ける」
だから、その声を聞いた瞬間、彼女の時間が凍りついた。
自らの欲望を遮る声が、確かに、はっきりと聞こえた。
雲に隠れていた月が顔を出し、裏路地を照らす。
蜘蛛の少女は八つの目を凝らした。
前方、声の主。路地の出口から紅いシルエットが歩いてくる。
偶然の神様は、最高のタイミングをも心得ているのだ。
最悪と最高は紙一重。誰かにとっては最悪でも、他の誰かにとっては最高の機会となりうる。
「……誰?」
じりじりと、彼女は獲物を抱えながら、数歩下がる。
「別に。ただのヒーローよ」
声の感じから、蜘蛛はそれが女だと悟った。その女は、水たまりを踏みながら、ゆっくりと近づいてくる。
それは冗談のような光景だった。全身を包むバイクスーツ。両手、両足、胸部を包む奇妙な形の装甲。フルフェイスヘルメットの下半分を切り取ったようなマスク。そして、風になびくぼろぼろの長いマフラー。そのすべてが赤い。
「……」
異様な姿に面食らった蜘蛛だったが、しかしやることは決まっている。
自分はまだこの危険な橋から落ちたわけではない。
渡り切る道は一つ。
目撃者を消すこと。
「……ウゥ……アァ!」
蜘蛛の少女は、抱えていた獲物を、向かってくる赤い影に向けて投げる。
変貌の際の、一瞬の隙をつかせぬための時間稼ぎ。
かろうじて保っていた人のシルエットが崩れるように、蜘蛛は肉体を本来の姿へと作り替える。
腹から下の肉が膨張、穿いていたスカートがはじけ飛ぶ。
肉は伸縮を繰り返し、巨大な六本の脚と、蜘蛛の下半身を形成する。
二本の腕もまた大きく伸び、カマキリの腕を思わせる巨大な鎌へと変化した。
「シャアアアアアア!」
変身を遂げると、蜘蛛はすぐさま、その六本の脚を繰る様に奔らせる。
広げるように構えた両腕の鎌。
眼前には、糸でくるまれた獲物を受け止め、脇におろそうとする、赤いスーツの奇妙な女。
広げた鎌を、ハサミのように振るう。
一撃で首を絶つ。
この女も殺し、獲物と一緒に腹の中に入れてしまえばいい。
そうすればこの橋を渡りきれる。
彼女には自信があった。
狩りはこれまでに何度も成功させてきた。
今更、こんな所で失敗するはずなどない。
振りおろされた鎌。
――殺った!
彼女は確信し、そして。
「……な」
パキン、という音に思考を白く染められた。
「……やれやれ」
奇妙な格好の女は健在だ。
その首にはかすり傷一つない。
堅い破片が地面を転がり、水たまりに落ちた。
鎌の破片。
蜘蛛の両腕の鎌は、女に届く前に粉々に砕かれていた。
「――――ッ!」
この瞬間に蜘蛛は悟った。
逃げるべきだったのだと。
目の前にいるのは、偶然迷い込んだ目撃者などではない。
脚を繰り、滑るように蜘蛛は後退した。
顔を見られてしまったが、やむを得ない。
逃走こそがこの場において最良の手段。
「逃がすかっての」
方向を変え、背を向けて逃走する蜘蛛に、マフラーをなびかせた赤い影が追いすがる。
――疾い。でも――!
蜘蛛の腹部が僅かに持ち上がる。
赤い女が気付いた時はもう遅かった。
腹部後端の出糸突起の、さらに先端。
複数ある突起から、一斉に糸が打ち出される。
「――!」
追跡者の体を絡め取る粘性の糸。
絡め取られた獲物が自力で逃げ出すことはあり得ない。
このような乱雑な扱い方でも、逃走時間を作るだけの効果は十分に期待できる。
逃げて、それからどうするかは後で考えればいい。
少なくとも、この場にいるよりはましだ。
しかし。
「――ッ、ガ――!?」
その直後、蜘蛛は自分の考えの甘さを思い知らされる。
下腹部に走る激痛。
逃れようと六本の脚で必死に地面を掻くも、ガリガリと音を立てながらアスファルトの表面を削ることしかできない。
上半身をひねり、背後を振り向く。
放った糸など意に介さず、赤い女は蜘蛛の腹部の先端を、その右手で掴んでいた。
馬鹿な、と、蜘蛛が声を漏らす前に、その体が赤い女によって持ち上げられる。
100㌔はあるその巨体を、赤い女は右腕で軽々と持ち上げ、そして裏返しにして地面へ叩きつけた。
悲鳴が上がる。
衝撃で、蜘蛛の脚は二、三本はじけ飛び、赤と黄色の混じり合った体液がドロリと流れ出す。
背中を強打した衝撃で、全身の力が抜けた蜘蛛。その上半身、人間の形を残した部分へ近づきながら、赤い女は右手の装甲に何かをはめ込んだ。
「悪いわね。あんたの勝手はこれまでよ」
戦いの緊張も、感情の高ぶりもないような口調。
冷徹なのではない。女はただ淡々と、まるでルーチンワークでもこなしているかのようだった。
「お前は……なんだ」
蜘蛛はその赤い影を見上げながら、恨めしげに言葉を吐く。
「最初に言ったわよ。ただのヒーローだって」
そう言って、女は蜘蛛の胸に、鉄槌のようにその右拳を振りおろした。