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殺される、と覚悟してアマリアは目を瞑った。お香を使われてまで魔獣を呼び寄せられるような厄介者を生かしてはおけない、という判断だろう。青年が見た目通りに辺境騎士団の者であるなら、魔の森を騒がせる者は許せないだろう。
だが、覚悟していた痛みは来なかった。代わりに足の縛めが断ち切られる。少し遅れて手も自由になった。彼の剣は、手足に食い込むほどに強く巻き付けられていた縄だけを切り落としたのだ。
「…………! あ……ありがとう、ございます……!」
かすれた声をなんとか振り絞ってお礼を言う。青年は確認するように浅く頷き、すぐに魔獣へと向き直った。
分厚い毛皮と強靭な筋肉を持つ熊の魔獣だが、青年は一歩も引かずに渡り合っていた。剣に炎を纏わせて斬撃を見舞い、突き刺して一点を狙いと柔軟に立ち回っていた。
毛皮の焼け焦げた部分をさらにえぐられた魔獣が悲鳴を上げた。巨体の魔獣に対して青年は頼りないほど小さく見えるが、その戦いの腕は確かだった。
(このままなら退けられそう……!)
見ていることしかできないアマリアだが、素人目にも青年の優勢は分かった。魔獣は傷ついており、倒れるなり逃げ帰るなりするのも時間の問題だと思われた。
そのとき、アマリアの背筋にぞっと震えが走った。
(何……!? 何なの……!?)
思わず身震いをし、嫌な感覚に辺りを見回す。
青年の周りは炎で明るく照らし出されているが、森の中は暗闇だ。空には上弦の月が浮かんでいるが、鬱蒼と茂った木々の下までは光が差し込まない。
その暗がりに、何かがいる。視覚ではなく、勘としか言えないような感覚でそれを察知する。
青年に警告を発しようとした口は――勝手に悲鳴を上げていた。視覚がようやく追い付いて、その衝撃に耐えられなかったせいだ。
鼠の魔獣だ。それも一匹や二匹ではない。大群になって波のようにこちらへ押し寄せてきている。
「どうした!? っ、新手か! 多すぎるだろう!?」
鼠は小さい生き物だが、疫病を媒介したりするので嫌われる。それが魔獣化して子犬ほどの大きさになり、大勢でこちらへ走り寄ってくるさまは背筋が凍るものだった。
普通の鼠なら、人は食べない。人の方が強いし大きいからだ。
だが、魔獣化した鼠はそんなことなどお構いなしだ。その発達した前歯で生きながら食われる未来が見えてしまい、アマリアは再び悲鳴を上げた。
青年が身を翻し、鼠の魔獣たちに向かって剣を一閃させた。その衝撃波のように炎が走っていく。魔獣たちは耳障りな声を上げて炎に飲まれた。一部は逃げたようで、青年は素早くあちこちに炎を放って仕留めていった。
その間も青年は、熊の魔獣への警戒も怠らない。熊の魔獣はこの隙にと体力を回復させているようだった。
(私が……お荷物なせいで……)
アマリアは戦えない。鼠の魔獣の一匹ですら大きな脅威だ。青年は熊の魔獣からだけではなく、鼠の魔獣からもアマリアを庇ってくれている。
大部分は焼かれたり逃げたりした鼠の魔獣だが、元々の数が膨大だったせいでまだそれなりの数が残っている。その鼠たちを相手取る青年に、少し回復したらしい熊の魔獣が襲い掛かった。
しかし、狙いは青年ではなくアマリアだったらしい。青年の気が逸れた隙に鼠がアマリアの足に噛みついた。それを見た熊も、大きな体で俊敏に青年を躱してこちらへ向かってくる。手強い青年ではなく、弱いこちらに狙いを定めたのだ。
鼠に噛まれた痛みと、熊が今度こそこちらを殺そうとしてくる恐怖で、動けない。目を見開いて固まったアマリアは――自分を庇って熊の爪に深く傷つけられる青年と目が合った。
(…………!?)
青年が頽れる。しかしその間際に、青年の目は確かにアマリアへ言っていた。――逃げろ、と。
「……できるわけ、ないじゃない……!」
青年の背中はざっくりとえぐられ、傷口から血が湧きだしてくる。青年が荒く息をつくたびに背中が上下し、また新しい血が流れ出す。
弱った獲物を前に、魔獣たちが興奮する気配を感じた。確かに、青年を犠牲にすればアマリアだけはこの場から逃げられるかもしれない。
だが、我が身可愛さに他者を見捨てることをよしとするなら、そもそもアマリアは今ここにいなかった。当然、青年を見捨てる選択肢などない。そもそも、自分を助けてくれた者を置いていくなんて後味が悪すぎる。
(治って…………!)
アマリアは青年の傷口に手をかざした。ありったけの気力と魔力を総動員して、治癒魔術を行使する。傷口がみるみる塞がっていく。
眩い光に魔獣たちがたじろぐ。青年が自分の身に何が起こったのかを訝しみながら身を起こす。
(これで、治せたはず……)
アマリアが何をしたのかを悟った青年は驚愕の表情を浮かべたが、気を取り直すのは早かった。瞬時に体勢を整え、油断していた熊の首を深く斬った。どうやら青年には先ほどの大きな怪我以外にも小さな怪我がたくさんあったようで、それらをまとめて治したために動きが段違いの精度になっている。
熊の魔獣が音を立てて地に倒れ伏した。それを見た鼠の魔獣が、とても敵わないと見てなのか我先に逃げ出す。青年は正確に炎を飛ばして追撃した。
夜の中で炎が舞い、魔獣が逃げ惑う。その光景はあまりに現実離れしていた。半月の照らす魔の森の中、青年が纏う炎が辺りを赤く浮かび上がらせている。返り血を浴びた彼の姿はおどろおどろしいが、その血糊は返り血だけではなく自身の血も相当量が混ざっているはずだ。魔術の名残で髪から火花が散っており、一種壮絶な美しさにアマリアは思わず息を呑んだ。
魔獣の気配が消えていく。青年は立っており、自分の怪我も立てないほどではない。
(助かったの……?)
青年がこちらを振り向いた。何かを言いかけようとするが、緊張の糸が切れたアマリアは聞く前に気を失った。




