第9話 私の名前で、私の研究を
壇上の演台に置いた手が、微かに震えていた。
帝国学術評議会主催、古代魔法文明研究発表会。王都ケーニヒスブルクの大講堂。天井に魔法灯が並び、白い光が壇上を照らしている。
客席には百人を超える聴衆。学院の教授陣、帝国各地の学者、貴族の文化顧問、そして——元老院の代理として王室からの来賓が二名。
ディートリヒもいた。
客席の後方、通路側の席に座っている。正装。だが——前に見た時より、頬が削げている。
目が合った。逸らした。——彼が、先に。
◇
壇上裏で、ルーカスが立っていた。
「ルーカス。一つ、発表の前に言っておきたいことがある」
「何だ」
「遠隔安定化を拒否した時——安全性の問題だけではなかった」
ルーカスが目を細めた。
「怒りが、ありました。五年分の。あの人の領地を——助けたくなかった」
声に出すと、胸が軋んだ。
「ハンスの手紙を読み返しました。冬を越せない領民が出るかもしれない、と。……私は——学者が、怒りで判断を歪めた。あの人が私の研究を『道楽』と呼んだのと、何が違うのか——」
「違う」
ルーカスの声が、いつもより強かった。
「動機は怒りだったかもしれない。だが安全性の懸念は本物だ。検証もせずに実行する方が無責任だった。——結果として、検証の時間を取れたのは正しかった」
「でも、理由が——」
「完璧な理由で完璧な判断をする人間は、この世にいない」
短い沈黙。
「大事なのは、気づいたことだ。気づいて、修正できること。——俺も、自分の動機が純粋でないと気づいた。だが、それを認めた上で、ここにいることを選んだ」
ルーカスが私の手を取った。両手で、そっと包む。温かい。
「大丈夫だ。君の研究は、君自身が一番よく知っている」
手を離した。
——そう。知っている。八百年の古代文字を、五年かけて解読したのは私だ。間違えたことも、怒ったことも、全部含めて——私の五年間だ。
「行ってきます」
壇上に出た。
◇
「本日は、古代豊穣祝福陣の構造と連動性に関する研究成果をご報告いたします」
声が出た。
「この研究は、フォルスト辺境伯領の地下に存在する古代魔法陣を対象に、五年間にわたり行われたものです」
五年。
「全ての調査、解読、分析、および制御式の運用実験は——」
息を吸った。
「——私、クラウディア・フォン・ヴェルナーが行いました」
会場が静まった。
「本研究の原本をご覧ください」
研究ノートを掲げた。五年分の記録。古代文字の三層解読——形象、配列、文脈——を用いた構造分析。遺跡「エルデの祭壇」で発見した共鳴プロトコルの全容。
「辺境伯閣下が王都に提出された報告書は、この原本の要約版です。原本との照合により、報告書の著作者が私であることが証明されます」
発表を続けた。魔法陣の構造、連動仮説、共鳴プロトコルの設計思想、そして——遠隔安定化の理論。
二十分後、発表を終えた。
拍手が起きた。
疎らに始まり、波のように広がって、講堂全体を満たした。エーレンフリート先生が目を細めている。マリアが拍手しながら鼻を啜っている。
ディートリヒだけが、沈黙していた。
元老院の代理が立ち上がった。
「この研究成果の著作権について、学院長の公式声明と本日の原本照合をもって、元老院として正式に認定いたします。——なお、フォルスト辺境伯に対する爵位審議については、別途元老院にて開始される旨、お伝えいたします」
爵位審議。
私が望んだことではない。
でも——あの人の不幸を喜ぶ気持ちは、もうなかった。不思議なほど、静かだった。怒りが消えたのではない。怒りの先に、別のものが見えるようになっただけだ。
壇上を降りた。
◇
控室に戻った。
膝に力が入らない。椅子に座って、ようやく呼吸が落ち着いた。
ルーカスが入ってきた。何も言わない。ただ、立っている。
「……ありがとう」
「何に対してだ」
「あなたがいてくれたから、ここに立てました」
言ってしまった。
もっと遠回しに言うつもりだった。「調査団のおかげです」とか、「お力添えに感謝します」とか。
でも、口から出たのは——剥き出しの本音だった。
ルーカスが一瞬、言葉を失った。日に焼けた頬が赤くなっている。
「——それは、俺のほうだ」
短くて、不器用で、何の装飾もない言葉。
でも——充分だった。
「ルーカス。発表会の後に、一つやらなければならないことがある」
「遠隔安定化か」
「はい。検証は終わりました。共鳴プロトコルの安全性は、今日の発表で学術的に確認されたと言っていい。……もう、先延ばしにする理由がない」
ルーカスが頷いた。
「怒りではなく——自分の判断として、やります」




