第8話 嵐の中の信頼
「貴様が、俺の妻を唆したのか——!」
ディートリヒの怒声が、王立学院の中庭に響いた。
季節は秋の終わり。学院の中庭の木々が赤と金に染まっている。美しい午後だったはずだ。——ディートリヒが学院の正門に現れるまでは。
正装だった。鎧ではない。辺境伯の紋章入りの外套に、腰には儀礼剣。社交の場に出る格好——だが、声は戦場のそれだった。
「閣下、ここは学院です——」
「黙れ。この男に用がある」
ルーカスは動かなかった。中庭の石畳に立ったまま、ディートリヒを見ている。
「辺境伯閣下。何の御用でしょうか」
「俺の妻を唆し——」
「元奥方です」
短く切った。
「そして、クラウディアは自分の意志でここにいる。彼女は誰のものでもない」
教授たちの視線がディートリヒに集まっている。冷たい視線——ではなかった。もっと静かな「この場にふさわしくない人間を見る」視線。
ディートリヒが一歩踏み出した。
「お前に何が分かる。あの女は——あの女がいなければ、領地が——」
「では、なぜ離縁したのですか」
ルーカスの声は低く、静かだった。
ディートリヒの拳が震えた。——答えられなかった。
重い沈黙の後、ディートリヒは踵を返した。外套が翻って、秋の枯葉が舞い上がる。
去っていく背中は——かつて「盾の辺境伯」と呼ばれた男のものとは思えなかった。
◇
ルーカスの横に立っていた。
ディートリヒが去った後、私は平気なふりをしていた。——ふりができているのか、自信がない。
「……ごめんなさい。あなたに迷惑を——」
「迷惑ではない」
静かに、きっぱりと。
だが——ルーカスの表情に、普段とは違うものが混じっていた。
「……ルーカス?」
「一つ、聞いていいか」
間があった。
「あの男に——辺境伯に言われて、考えた。俺が君に声をかけた理由は、本当に学術だけだったのか」
心臓が跳ねた。
「俺は六年間、君の論文を読み続けた。君の能力が必要だと思った。それは事実だ。だが——」
ルーカスの目が、焚き火の夜とは違う色をしていた。迷いの色。
「君に会って、一緒に研究して、いつの間にか——学術だけではなくなっていた。それに気づいたのは、あの男に『唆した』と言われた時だ」
沈黙。
「俺は——純粋な動機で、君に近づいたと言い切れない。それを、知っておいてほしかった」
正直な人だ。どこまでも。
不器用で、嘘がつけなくて、自分の弱さを先に差し出す人。
——でも、今は。
「ルーカス。少し距離を置いた方がいいかもしれません」
自分で言って、自分の声の冷たさに驚いた。
でも——あの男の怒声がまだ耳に残っている。五年間、毎日のように浴びた声。「女が学問など」「可愛げがない」。ディートリヒの影が、ルーカスの誠実さの上に重なって見える。
人を信じるのが、怖い。まだ。
「……分かった」
ルーカスはそれだけ言った。
立ち去らなかった。
「学術発表会の準備を、手伝っていいか」
……話を聞いているのだろうか、この人は。
「帝国学術評議会から手紙が来ていた。古代魔法陣の研究に関する正式な発表の場を設けたいと」
招待状を見せられた。帝国学術評議会の紋章が押されている。
——自分の足で、自分の名前で立てる場所。
「距離を置くと言った直後に手伝いを申し出る人は、初めてです」
「……すまない。引き際が分からない」
少し——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。緩んだことに気づいて、慌てて戻した。
「……手伝っていただけるなら」
ルーカスが頷いた。
研究室に戻った。招待状をもう一度読んだ。
自分の名前で。自分の研究を。
——もう一つ、考えなければならないことがある。
遠隔安定化。私が「しない」と決めた判断。安全性の問題だと言った。でも——本当にそれだけだったか。
窓の外が暗い。
ハンスの手紙を読み返した。「領民の中に、冬を越せない者が出るかもしれません」——
指先が冷たい。
学者が、怒りで結論を歪めたのなら——それは、あの人が研究を「道楽」と呼んだことと、何が違う。
答えはまだ出ない。




