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離縁届を出した翌日、夫の領地で私だけが読める古代魔法陣が起動しました。——ご安心ください、解呪方法は置いていきませんので  作者: 九葉(くずは)


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第7話 毛布と、眠れない夜

 朝、目覚めた時、肩にかかった毛布がまだ温かかった。


 ——寝てしまったのか。


 研究室の机に突っ伏していた。窓から差す光はまだ弱い。夜明け前。遺跡から持ち帰った拓本が机一面に広がっている。


 毛布。


 これは私のものではない。厚手の羊毛。遺跡調査用の野営毛布。——ルーカスのものだ。


 机の端に、蓋をされた茶の杯が置いてある。まだ微かに湯気が立っている。


 いつ置いたのだろう。何も言わずに、毛布と茶を置いて、去ったのか。


(前の夫は——)


 止めた。もうその比較はしない。意味がない。あの人はあの人で、この人はこの人だ。


 ただ——この人の隣にいると、空気が柔らかい。


 廊下に出た。ルーカスの研究室の扉が開いている。中を覗くと——ベッドが使われた形跡がない。枕に皺ひとつない。


 背後で足音がした。マリアだった。


「団長は昨晩ずっと資料室にいましたよ。ヴェルナー嬢が寝てからもずっと。……何か確認していたみたいです」


 マリアが首を傾げて、行ってしまった。


 資料室。毛布を置いた後、自分の部屋には戻らず、資料室にいた。


 なぜ。


 答えを出す前に、胸の奥が答えを出していた。小さく、静かに、温かいものが灯っている。


 ……認めるしかないのかもしれない。この感情に、名前をつけることを。



 ◇



 その日の午後。エルデの祭壇で追加調査を行い、遠隔安定化の理論が完成した。


 共鳴プロトコルを起動し、こちらの魔法陣からフォルスト領の魔法陣に制御信号を送る。理論的には、暴走を止めて豊穣を回復させられる。


 だが、実行には条件がある。


 古代文字で「制御の意志」を宣言しなければならない。私が、自分の手で、古代文字を刻む。それは「私がこの魔法陣の制御者である」と名乗ることと同義だ。


 ハンスからの最新の手紙が届いていた。


 秋の収穫量が前年の四割。商人が離れ始め、使用人の離脱も始まっている。


 ——領民に罪はない。


 分かっている。分かっているけれど。


 あの領地を救えば、ディートリヒを救うことになる。


 五年間、研究を「道楽」と呼ばれた。成果を盗まれた。「可愛げがない」と、愛人の前で言われた。


 あの人を——助けたいと思えない。


「クラウディア。決断は——」


「しません」


 自分でも驚くほど、はっきり声が出た。


 ルーカスが目を見開いた。


「遠隔安定化はしません。少なくとも今は」


 理由が口をついて出た。学術的な理由を並べた。「共鳴プロトコルの安全性がまだ検証できていない」「失敗した場合、両方の魔法陣が損傷する可能性がある」——全部、本当のことだ。


 でも、本当の理由ではない。


 本当の理由は——あの人のために力を使いたくない。


 怒りだ。五年分の、煮詰まった怒り。


 ルーカスは何も言わなかった。「君が決めることだ」とだけ言った。


 正しい判断をした、と自分に言い聞かせた。安全性の検証は必要だ。慎重であることは間違いではない。


 ——でも、胸の底で、別の声がしている。


 お前は怒りで判断した。学者が、感情で結論を歪めた。


 黙らせた。



 ◇



 ——同じ頃。


 フォルスト辺境伯領。


 ディートリヒは一人で書斎にいた。


 秋の収穫報告。前年比四割。税収は半分以下の見通し。北方の警備費は削れない。


 イレーネは三日前から部屋に閉じこもっている。「こんなはずではなかった」と泣いているらしい。——もう、会いに行く気力もない。


 机の引き出しを開けた。


 古い手紙が入っている。五年前のもの。クラウディアが嫁いできた最初の月に書いた手紙の下書き。——送らなかった手紙。


『閣下。領地の地下に、古代魔法陣があることをご報告いたします。


 初期調査の結果、この魔法陣が領地の豊穣に深く関与している可能性が高いと判断しました。制御式の解読を進めたく、ご許可をお願い申し上げます。


 研究の進捗は定期的にご報告いたします。きっと、閣下のお役に——』


 最後の行は途中で途切れている。


 思い出した。あの日、クラウディアがこの手紙を持って書斎に来た。読む前に、俺は言った。


 ——「書物のことは分からん。好きにしろ」


 好きにしろ。


 あの一言が全てだった。彼女は報告をやめた。許可も求めなくなった。黙って研究を続け、黙って領地を回し、黙って——去った。


 手紙を畳んだ。


 「好きにしろ」は、俺の流儀では信頼の言葉だった。お前の判断に任せる、という意味で言った。……少なくとも、そう信じたい。


 だが結果として——彼女の五年間を「存在しないもの」にした。


 窓の外で、冷たい風が丘を撫でていた。


「……グンターに命じろ。俺自身が王都に行く」


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