第6話 今更、お話しすることはございません
研究室の扉を叩く音は、予想していたものより一週間早かった。
「クラウディア・フォン・ヴェルナー嬢。辺境伯閣下よりお伝え申し上げます」
使者だった。ディートリヒの側近、グンター騎士。鎧の上に辺境伯家の紋章入りの外套を羽織っている。学院の廊下には不釣り合いな武装。
応接室に通した。
グンターが口を開く前に、私は先に話した。
「ご用件は推察しております。閣下が魔法陣の件でお困りとのことですね」
「はい。辺境伯閣下が、ヴェルナー嬢の帰還を——」
「お断りします」
短く。穏やかに。
グンターの目が見開かれた。
「ヴェルナー嬢。閣下は切にお願いしておられます。領地の作物が——」
「今更、お話しすることはございません」
微笑んだ。怒りも、恨みも、声には含めなかった。練習したわけではない。五年間、ずっとこうしてきた。微笑んで、怒りを飲み込んで、仕事をしてきた。
今は——飲み込む必要がないだけ。
「魔法陣の制御方法は、引き継ぎ資料に記載しております」
「あの資料は……誰にも読めません」
「学術論文ですから。読めないのは——勉強不足ですわね」
グンターが目を伏せた。
この騎士に罪はない。命じられて来ただけだ。怒りをぶつける相手ではない。
「グンター殿。閣下に一つだけお伝えください」
「……何でしょう」
「閣下は、奥様と呼ばれていた人間が何をしていたか、一度もご覧にならなかった。帳簿の数字も、交易の契約書も、魔法陣の制御式も。全て『女の道楽』でした」
少し間を置いた。
「道楽が消えた結果がこれです。——それだけお伝えください」
グンターが深く頭を下げて、去っていった。
◇
使者が去った後、研究室で一人になった。
手が震えていた。
冷静に拒否した。完璧に拒否した。でも——心はそれほど穏やかではない。
(戻ってほしい、だって。今更。今更よ)
五年間「女が学問など」と嘲笑われた。研究成果を横取りされた。愛人の前で「可愛げがない」と言われた。
それなのに——困ったら、戻ってこい。
……怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない感情が胸の底でぐるぐると渦を巻いている。
扉を叩く音がした。今度は柔らかい音。
「……入って」
ルーカスだった。お茶を二つ持っている。
「聞こえていた」
「壁が薄い」
それだけ言って、お茶を一つ机に置いた。
座った。何も聞かなかった。「大丈夫か」とも「辛かったか」とも言わなかった。
代わりに、エルデの祭壇の調査資料を広げた。
「連動仮説の続きを検討したい。……今夜、時間はあるか」
「……ええ」
学術的議論が始まった。
連動する二つの魔法陣。制御式の共鳴原理。八百年前の設計思想。
ルーカスが喋る。いつもは寡黙なのに、古代文明の話になると止まらなくなる。私も応じた。仮説を立て、反証し、修正し、また仮説を立てる。
ルーカスがメモを取りながら聞いている。目を逸らさない。一つ一つの言葉に真剣に反応する。
「……続けてくれ。全部聞きたい」
夫は一度も、こう言わなかった。
いつの間にか月が高く昇っていた。窓の外が白い。蝋燭が三本目に変わっている。
議論の終わりに、ルーカスが言った。
「遠隔安定化は、理論上は可能だ。だがクラウディア、一つ条件がある」
「条件?」
「古代魔法陣の制御権を行使するには、術者の『意志の宣言』が必要になる。古代文字で刻む宣言だ。つまり——」
「私が、自分の意志で、あの魔法陣に干渉すると決めなければならない」
「ああ」
沈黙が落ちた。
遠隔安定化を実行すれば、フォルスト領の魔法陣は安定する。領地の豊穣は守られる。領民は飢えない。
——でもそれは、あの人の領地を救うことでもある。
救いたいのか。
救いたくないのか。
「今すぐ決めなくていい」
ルーカスの声が、静かだった。
「君が決めることだ。誰にも急かされる理由はない」
窓の外で、学院の鐘が深夜を告げた。




