第4話 土と星と、差し出された上着
馬車を降りた瞬間、土と苔と、八百年分の沈黙が鼻腔を満たした。
エルデの祭壇。フォルスト辺境伯領から東に馬車で三日、深い森の奥にある古代遺跡。
結局、私は来てしまった。
迷ったのは三日。ルーカスの言葉を何度も反芻した。「利用、かもしれない」——あの正直さが、逆に信用できると思った。嘘をつく人間は、もっと綺麗なことを言う。
「足元に注意してくれ。崩れかけている」
ルーカスが先を歩く。遺跡の入口は、大きな岩の隙間を降りた先にある。調査団は六人。ルーカスと助手のマリア、護衛の騎士二人、記録係一人、そして私。
階段を降りた。
松明の灯りが石壁を照らす。壁面に古代文字が刻まれている。
——読める。だが、「読める」だけでは意味がない。
古代魔法文字は三層構造になっている。第一層は「形象」——文字の形そのものが示す基本概念。たとえば円環は循環、三角は方向、波線は流動。第二層は「配列」——文字の並び順と間隔が意味を変える。同じ円環でも、三角の後に置くか前に置くかで「流入」と「放出」が反転する。そして第三層が「文脈」——周囲の文字群との関係で、単体では読めない意味が浮かび上がる。
「この壁面は——配置記録です。奥に魔法陣がある」
指先で文字を辿った。円環、三角、波線。円環。また三角——いや、この三角は逆向きだ。
「待って」
足を止めた。
「ルーカス。この逆三角の配列、見覚えがあります」
「……どこで」
「フォルスト領の魔法陣。中心核の第三環にまったく同じ配列がある。逆三角の後に二重円環、そして——」
壁面の先を読んだ。予測通りの文字が並んでいる。二重円環、波線三本、そして方向指示の矢印文字。
「——方向制御式です。しかも外向き。この魔法陣は、力を外に送り出す設計になっている」
ルーカスが息を詰めた。
「フォルスト領のものは内向きだった。力を受け取る側。つまり——」
「対になっている。ここが送信側、フォルスト領が受信側」
通路の先、広い空間に出た。
石の床面に刻まれた巨大な魔法陣。円形の紋様が幾重にも重なっている。フォルスト領の地下で私が五年間見続けた魔法陣の——原型。より古く、より精緻で、文字の密度が桁違いに高い。
膝をついた。
中心核に手を伸ばした。第一環の制御式——「豊穣」を意味する象形文字群。第二環は「方向」。第三環は——
「……これは」
呼吸が止まった。
第三環に、フォルスト領の魔法陣にはなかった文字列がある。読み下すと——「遠方の同胞陣に呼びかけ、応答を得よ」。
共鳴プロトコル。八百年前の技術者が、離れた二つの魔法陣を連動させるために仕込んだ通信手順だった。
「ルーカス——連動仮説は正しい。しかも、この魔法陣には共鳴のための手順が最初から組み込まれている」
振り返ると、調査団員全員が目を丸くしていた。
護衛の騎士の一人が呟いた。「——壁の文字を見ただけで、そこまで分かるのか」
(驚かれている)
不思議な感覚だった。五年間、夫は私の解読能力を「女の道楽」と呼んだ。
ここでは——ただ、純粋に驚かれている。
◇
三日間の調査を終えた。
魔法陣の全文字を記録し、共鳴プロトコルの構造を解析した。理論的には、ここからフォルスト領の魔法陣に干渉できる。
三日目の夕方、遺跡の外で焚き火を囲んだ。
私は泥だらけだった。地下の通路で足を滑らせた時、膝から下と右の袖が茶色く汚れた。
不意に、上着が肩にかかった。
見上げると、ルーカスが立っていた。自分の予備の外套を私の肩に乗せて、何も言わずに先へ歩いていく。
背中だけが見えた。
(前の夫は、泥で汚れた私を見て「みっともない」と言った。——止めろ。もう比較するな)
外套が温かい。日向の匂いがする。
焚き火の前で、ルーカスが遺跡の話を始めた。共鳴プロトコルの設計思想。八百年前の文明が、なぜ二つの魔法陣を分離させたのか。私も応じた。「安全設計です。一方が暴走しても、もう一方から制御できるように冗長性を持たせた」——仮説が次々と生まれて、議論が止まらなくなった。
気づけば他の団員は寝静まり、焚き火を挟んで二人きりだった。
「ルーカス」
「ルーカスでいい」
「……もし共鳴プロトコルを起動できたら、ここからフォルスト領の魔法陣を遠隔で——」
言いかけて、止まった。
遠隔制御。あの領地を、救うことにもなる。
「……どうした」
「いえ。……まだ仮説ですから」
焚き火が爆ぜた。
星が、遺跡の上でまたたいている。




