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節分の夜にだけ開く、福の相談窓口

作者: 星渡リン
掲載日:2026/02/03

 節分の夜って、こんなに明るかったっけ。


 商店街の提灯が赤い。

 鬼のお面が揺れる。

 恵方巻ののぼりが風に鳴る。


「福は内ー!」


 どこかの店先から声が飛ぶ。

 子どもが笑う。豆が床を跳ねる音。


 私はその音を、遠くの出来事みたいに聞いていた。


 仕事帰りの足が重い。肩も重い。

 スマホの画面だけが眩しくて、目を細める。


 今日も、ちゃんと回した。

 予定も、締切も、返信も。


 できることはやった。

 やった、はずだ。


 なのに、胸の中が空っぽのまま、家へ向かっている。


 「福は内」って言われても、入れる場所がない。

 そんな日があるなんて、昔の私は思わなかった。


 私は商店街の端の自販機の前で立ち止まった。

 温かいお茶のボタンを押そうとして、指が止まる。


 どうせ飲むなら、いつもの缶コーヒー。

 迷う時間がもったいない。


 そう思ってきたのに、今日は指が動かない。


 息を吐く。白い。

 冷たい空気が、肺の奥をちくりと刺した。


 そのとき。


 商店街の裏に伸びる細い路地の先で、小さな灯りが揺れているのが見えた。

 いつもは暗いはずの場所。通り道ですらない。


 でも、目が離れない。


 引き戸が一枚。

 その上に、紙の看板が掛かっていた。


 「福の相談窓口(節分限定)」


 ……何それ。


 笑って通り過ぎるのが正解だと分かっている。

 分かっているのに、足が向いた。


 私は路地へ入った。

 提灯の光が遠ざかると、音も薄くなる。

 豆まきの声が、布越しみたいに小さくなる。


 引き戸の前に立つ。

 取っ手は冷たい。


 少しだけ迷ってから、私は開けた。


 からり。


 中は狭い。

 二畳くらいの待合。小さな机。椅子が二つ。

 落ち着く香りがして、なぜか呼吸がしやすい。


 そして、窓口みたいに小さく切られた板の向こうに、人がいた。


 年齢がよく分からない。

 和装でもスーツでも似合いそうな、妙に中立な雰囲気。

 目はやさしいのに、視線がぶれない。


「いらっしゃいませ。節分限定、福の相談窓口です」


 淡々とした声だった。

 私は反射で頭を下げた。


「……あ、どうも」


「お名前は」


「ユイです」


「ユイさん。こちら、受付札です」


 窓口から、薄い木の板がすっと出てきた。

 小さく「受付札」と書いてある。


 “札”がきちんと種類で呼ばれるだけで、妙に安心する。

 変なところで、私は落ち着く。


「次に、相談札です。相談はひとつだけ。裏に一行で書いてください」


「ひとつだけ……」


「はい。ひとつだけです」


 相談札を受け取った。

 手のひらサイズで軽い。

 でも持った瞬間、胸の奥が重くなる。


 相談って、何だろう。

 悩みはいっぱいある。

 仕事。将来。体力。人間関係。

 毎日が回って、回って、回って、心だけ置いていかれる感じ。


 ひとつだけに絞るのが難しい。


 私はペンを渡され、相談札の裏を見つめた。

 真っ白だ。余白だ。

 余白は、怖い。


 それでも、書いた。


 「毎日を回してるのに、幸せが分からない」


 書いた瞬間、息が詰まった。

 自分の字が、少しだけ怖い。


 窓口の人は相談札を受け取り、目を通して頷いた。


「承りました。では、ルールをお伝えします」


 机の上に、小さな案内板が置かれる。

 そこにもきちんと「案内板」と書いてある。几帳面だ。


「相談はひとつだけ。もらえる福は、物ではありません」


「……物じゃない」


「行動ひとつ分の“余白”です」


 余白。

 私はその言葉を、舌の上で転がすみたいに繰り返した。


「代わりに、置いていくものがあります。鬼をひとつです」


「鬼……」


「手放したい癖、と言い換えても構いません」


 窓口の人は、やさしい声のまま言った。


「では、質問をいくつか」


 私は背筋を伸ばした。面接みたいに。


「幸せは、どのタイミングで消えますか」


 口を開けて、閉じる。

 どのタイミング。たぶん、いつも。


「……仕事が終わったときです」


「終わった瞬間ですか。家に帰った瞬間ですか」


「帰り道です。電車に乗ったとき。座れたら、少し楽で……そのあと急に、“何もない”って感じが」


「何もない、とは」


「……ちゃんとやったはずなのに、達成感がない。心が動かない」


 窓口の人は頷く。

 評価じゃない。整理の頷きだ。


「休むと、何が怖いですか」


 その質問で、胸がきゅっと縮んだ。


「……置いていかれそうで」


「誰に」


「みんなに。仕事にも。世の中にも」


「休む許可を、誰からもらおうとしますか」


 笑ってごまかそうとした。

 でも、笑えなかった。


「……上司。会社。周り。あと、自分です」


 窓口の人は、そこで少しだけ間を置いた。

 その間が痛い。


 そして、奥から別の気配がした。


 がさっ。


 引き戸の奥にあるカーテンが揺れて、何かが出てくる。


 赤い。でかい。角がある。

 でも、エプロンをしている。


「お疲れさまでーす」


 声が軽い。

 赤鬼だ。どう見ても赤鬼。


 私は固まった。


「え……鬼……」


「はい、鬼です。節分なので」


 赤鬼はにこっと笑った。牙が見える。

 でも怖くない。コンビニ店員みたいなテンションだ。


 窓口の人が淡々と紹介する。


「こちら、鬼担当のアカさんです」


「担当って……」


「鬼は置いていくものですから、預かる係が必要です」


 赤鬼アカさんは、私の相談札をちらっと見て肩をすくめた。


「幸せが分からない、かぁ。これ、だいたい鬼の仕事っす」


「鬼の仕事……?」


「そう。『ちゃんとしろ鬼』とか、『休むな鬼』とか、『まだ足りない鬼』とか。種類が多いんすよ」


 種類が多い鬼。

 妙に納得してしまう自分が、悔しい。


 窓口の人が言う。


「ユイさん。置いていく鬼を、ひとつ選びましょう」


「ひとつ……」


「ひとつだけです。欲張ると、続きません」


 続きません。

 その言葉が、さっきの質問より刺さった。


 私は目を閉じた。

 胸の中で一番うるさい声を探す。


 休むな。

 もっとやれ。

 置いていかれる。

 失敗する。

 ちゃんとしてないと価値がない。


 その中で、一番、私を細くしているのは。


「……『休むのは悪いこと』っていうやつ」


 私が言うと、赤鬼アカさんが指を鳴らした。


「出ました。『休むな鬼』。こいつ強いんすよ」


 窓口の人は、机の引き出しから木の板を一枚出した。


「こちら、鬼置き札です。今の言葉をそのまま書いてください」


 鬼置き札。

 ちゃんと種類名がある。

 私はペンを取り、鬼置き札の裏に書いた。


 「休むのは悪いこと」


 書いた瞬間、手が少し震えた。

 言葉にすると、いかにも呪いだ。


 赤鬼アカさんが、鬼置き札を両手で受け取る。


「お預かりします。節分の間だけ、こっちで面倒見ます」


「節分の間だけ……?」


「節分って境目なんで。境目の夜は、鬼も忙しいんす」


 赤鬼は鬼置き札を胸ポケットに入れて、にやりと笑った。


「明日になったら、ユイさんの『休むな鬼』は弱る。完全には消えないけど、弱る。弱った隙に、手順を入れる」


 窓口の人が頷く。


「では、福をお渡しします」


 窓口の人は、今度は別の木の板を出した。


「福札です。余白を作る行動を、ひとつだけ」


「ひとつだけ……」


「はい。ひとつだけです」


 私は福札を受け取った。

 表には、すでに短い文字が書かれていた。


 『明日、やることをひとつ減らす』


 私は眉を寄せる。


「……減らす、って」


「やらない、ではありません。“減らす”です」


 窓口の人の声は、やさしいまま、揺れない。


「ユイさんは、足すのが得意です。増やすのが上手です。だから、減らす練習をします」


 赤鬼アカさんが、うんうんと頷く。


「足し算だけで生きてる人、多いんすよ。引き算、大事」


「でも、減らしたら……」


「置いていかれる?」


 窓口の人が、私の言葉を先に言ってしまった。


 私は黙った。

 図星は、返事が遅くなる。


 窓口の人は続ける。


「福は、増やすものではなく、戻すものです」


「戻す……」


「呼吸。睡眠。食事。人との距離。生活の速度」


 私は福札を見つめた。

 簡単そうで、難しい。


 難しいのは分かっている。

 私が“休む許可”を出せないからだ。


 窓口の人が、最後の手順を告げる。


「帰りに、豆を三粒お持ちください」


「豆……」


「迷ったら、一粒ずつ噛んでください。音で戻れます」


 窓口の人は小さな袋を出した。

 中に、炒った豆が三粒だけ入っている。


 たった三粒。

 なのに、やけに大事そうに見えた。


 赤鬼アカさんが手を振る。


「豆、投げないでくださいね。僕に当たると普通に痛いんで」


「鬼って豆が苦手じゃ……」


「苦手っすよ。でも苦手っていうか、当たると痛いっす」


 生活感。

 私は少し笑ってしまった。


 窓口の人が、最後に言う。


「ユイさん。出口はこちらです。相談窓口は節分の夜だけですが」


 私は立ち上がって、豆の袋と福札を握った。


「……ありがとうございました」


 窓口の人は静かに頷いた。


「福は内。内側に余白を作ってください」


 赤鬼アカさんが、少しだけ声のトーンを落として言う。


「ちゃんとしすぎると、鬼が喜びますよ。鬼って、空腹の人が好きなんで」


「空腹……」


「余白がない人のとこ、住みやすいんす。風通し、悪い方が」


 私は頷いた。

 笑いながら、少しだけ泣きそうだった。


 引き戸を開ける。


 からり。


 外は節分の夜の匂いがした。

 豆。甘い煙。冬の空気。


 商店街の豆まきの声が、また耳に戻ってくる。


「鬼は外ー! 福は内ー!」


 私はその輪の中に入らなかった。

 豆も投げなかった。


 代わりに、ポケットの中の豆をぎゅっと握った。


 小さく、口の中で言ってみる。


「……福は内」


 声は自分にしか聞こえない。

 でも言った瞬間、胸の奥に空気が通った気がした。


 肩が、ほんの少し落ちる。


 世界は変わらない。

 商店街は賑やかで、私は疲れていて、明日も仕事がある。


 それでも、息が通る。


 帰り道、恵方巻の行列を横目に見る。

 買う気力はない。

 でも今日は、それでいい。


 家に着く。

 玄関のドアを開ける。


 部屋は静かだ。

 その静かさに、いつもは負けそうになる。


 私は靴を脱いで、コートを脱いで、キッチンの前に立った。

 何か温かいものが欲しい。お茶でもいい。


 でも今日は、まず福札をテーブルに置く。


 『明日、やることをひとつ減らす』


 紙じゃない。木の板だ。

 重さがあって、逃げない。


 私はスマホの予定表を開いた。


 明日の予定はびっしりだ。

 会議。資料の修正。返信。ジムの予約。洗濯。買い物。


 減らす。ひとつだけ。


 私は指を止めて考えた。


 “減らす”の正体は、たぶん「やらない勇気」じゃない。

 やらなくても回るものを見つける勇気だ。


 私はジムの予約をキャンセルした。

 画面に「キャンセルしました」が表示される。


 胸がざわついた。

 休むな鬼が、奥で暴れた気がした。


 でも私は、豆の袋を取り出した。

 三粒のうち、一粒を手のひらに乗せる。


 小さい。

 でも確かに、そこにある。


 豆を口に入れて噛む。


 かり。


 音がした。

 その音だけが、部屋に残った。


 その瞬間、背中の力が抜けた。


 「やめた」じゃない。

 「減らした」だけだ。


 明日の私が、少しだけ楽になるための手順。


 私はお茶を淹れた。

 立ちのぼる蒸気が、指先をじんわり温める。


 飲んで、息を吐く。


 今日は節分。境目。

 鬼をひとつ置いてきた夜。


 そして余白をひとつ、持って帰った夜。



 翌朝。


 目覚ましはいつも通り鳴った。

 私はいつも通り止めて、いつも通り顔を洗って、いつも通り駅へ向かった。


 世界は同じだ。

 仕事も同じだ。


 でも、ポケットの中に豆が二粒ある。

 福札の重さを、なんとなく覚えている。


 昼休み。

 いつものコンビニで、いつものおにぎりを手に取って、少しだけ迷った。


 迷ってもいい。

 その迷いが、今日を私のものにする。


 結局、別の味を選んだ。

 理由はない。

 ただ、昨日“ひとつだけ”をやったから、今日もできそうな気がした。


 仕事終わり。

 ビルのロビーを通る。


 床は相変わらず光っている。

 そして、清掃員の人がいる。


 私は会釈した。

 相手も会釈を返した。


 その人の手の動きが、昨日より少しだけ目に入る。

 急がず、焦らず、でも止まらない。


 私は、あの裏路地の引き戸のことを思い出した。


 帰り道、路地へ回ってみた。


 引き戸は閉まっていた。

 紙の看板もない。灯りもない。


 そこには、ただの壁があるだけだ。


 ……節分の夜だけ。


 私は少し笑った。

 さみしくない。むしろ安心した。


 窓口がなくても、福札はある。

 豆はまだ二粒ある。


 私の中に、窓口を開ける方法が残った。


 帰り道、豆を指で転がす。

 迷ったら噛めばいい。音で戻ればいい。


 福は内。

 内側に、余白を作る。


 大きな幸運じゃなくていい。

 今日がちゃんと呼吸できるなら、それが福だ。


 私は家へ向かって歩いた。


 節分の夜は終わった。

 でも、私の“相談窓口”は、まだ閉めなくていい気がした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


節分は「鬼を追い出して福を入れる日」ですが、この短編では、追い出したい鬼を“出来事”ではなく“癖”として描きました。

とくに「休むのは悪いこと」という鬼。強いです。真面目な人ほど強く育ててしまう鬼だと思います。


窓口が渡す福も、豪華なプレゼントではなく“行動ひとつ分の余白”にしました。足し算ではなく引き算。減らすのは怖いけれど、減らした分だけ呼吸が戻る。

豆三粒は、迷ったときに現実へ戻るための小さなスイッチです。噛む音がするだけで、意外と人は落ち着けます。


もし節分の夜、あなたの中にも追い出したい鬼がいるなら。

どうか、ひとつだけ置いてきてください。

そして、ひとつだけ余白を持って帰れますように。

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