第9話:魔女の家
ファカの記憶を頼りに、俺たちは霧深いリンネの森を進んだ。
どれくらい歩いただろうか。
視界が開け、静まり返ったルドルフ湖のほとりに、ぽつんと佇む一軒家が見えた。
蔦の絡まる壁、苔むした屋根。長い年月、誰にも訪れられることなく、ただそこにあり続けたかのような古びた家だった。
「……ここですわ」
ファカはどこか懐かしむように、そして少しだけ不安そうに呟いた。
「わたくしはここに……三百年間、棲んでいた記憶があります」
「三百年!? ファカって、ババア……?」
俺が思わず口にすると、ファカは柳眉を逆立てて俺の脇腹を肘で抉った。
「ババア言うな!」「ぐふっ!?」
軽口を叩きながらも、俺の心臓は嫌な音を立てていた。
三百年前、国を滅ぼした魔女。
そして、三百年ここに棲んでいたという記憶。
点と点が、最悪の形で繋がりつつある。
俺は覚悟を決め、軋む扉に手をかけた。
家の中に足を踏み入れた瞬間、俺は息を呑んだ。
床、壁、そして天井に至るまで、空間の全てが複雑怪奇な魔法陣で埋め尽くされていたのだ。
赤黒く、まるで血で描かれたかのような紋様が、不気味な光を明滅させている。
「なんだこれ……?」
俺が魔法陣の上に足を踏み入れても、何も起こらない。
ただ、肌がピリつくような濃密な魔力を感じるだけだ。
だが――ファカが敷居を跨ぎ、一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。
「――っ!?」
家中の魔法陣が一斉に真紅の光を放ち、鎖のようにファカの身体に絡みついた。
彼女の表情が、凄まじい苦痛に歪む。
「ああ……っ!ご、主人様……お逃げ、ください……!
わたくしが……消えて、しまう……!」
ファカの悲鳴が、徐々に低く、冷たい声へと変わっていく。
流れ込んでくるのは、毒沼の魔女の記憶か。
ファカという上書きされた人格が、オリジナルの記憶に飲み込まれていく。
やがて彼女は顔を上げた。
その山吹色の瞳から、親愛の光は消え失せ、
絶対的なまでの冷徹さと侮蔑が宿っていた。
声も、目つきも、完全に別人のものへと変わっている。
「……この体は妾のものだ。お前など、ただの記憶の上塗りにすぎぬ」
「お前は……毒沼の魔女なのか?ファカはどうなった!」
「ふん。やはりな……あの忌々しい神が介入してくることはわかっていた。
だからこそ、この回帰の仕掛けを施しておいたのだ」
魔女は嘲るように唇の端を吊り上げた。
「ファカを返せ!」
俺の叫びを、魔女は鼻で笑った。
「神の駒よ――その血で盤を染め、屍ごと盤上から消え去れ」
冷たく響いた宣告と同時に、床を突き破って毒のツルが躍り出た。
風を切る鋭い音がしたかと思うと、衝撃が肩を、脇腹を、そして腿を穿つ。
三本の杭となって床に縫い付けられた体は、意思とは無関係に痙攣した。
(いったいなんなんだ……くそっ、動け……!)
息つく間もなく、無数のツルが殺到する。
肉を裂き、骨を砕く不協和音が響き渡る中、もはや痛みという感覚はなかった。
胸から熱が逃げ、腹から何かが引きずり出される感触だけが残る。
(もう……やめてくれ……ファカ、助けて……!)
痛みはもはや「感覚」ではない。それは意識そのものを焼き尽くす、業火だった。
「が……はっ……!」
口から血が溢れ、喉に鉄の味が広がる。視界は赤黒く染まり、爆音のような耳鳴りが頭を満たす。
(ああ……また死ぬのか、俺は……)
その中で――ただ一つ。
魔女の冷たい瞳だけが、異様なまでに鮮明に浮かび上がっていた。