第67話:異世界のトイレ事情
異世界に水洗トイレはない。そして、この屋敷のトイレは――いわゆる『ぽっとん便所』である。
もっとも、こちらの世界のそれは日本のものとはだいぶ勝手が違う。なにしろ、穴の中には“生き物”がいるのだ。
覗き込めば、底の方でぷるぷると揺れる半透明の物体。そう、スライムである。しかも一匹や二匹ではない。五十センチ級のスライムがずらりと並び、まるで給食の時間を待つ子どもたちのように口(?)を開けている。
人が用を足すと、彼らは「ちゅるんっ」と飛びつき、喜々としてそれを平らげてくれる。掃除の必要も悪臭の心配もない、まさに天然の浄化槽――いや、生きた浄化槽だ。
――お食事中の方がいたら申し訳ないが、この世界ではこれが立派なエコシステムなのである。
ただし、問題はその“食べ方”にあった。いや、正確にはスライムたちの“習性”と言った方がいいだろうか。
ある夜更け、シルフィが静かに便所へ向かった。屋敷の廊下は月明かりに照らされ、皆が眠りについた静寂が広がっている。
「ん……少し暗いですわね」
彼女が腰を下ろした、まさにその瞬間。下から「ぷるんっ」とした生温かく柔らかな感触が、臀部に押し当てられた。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
屋敷全体を震わせるほどの絶叫だった。普段の気品ある響きを失い、純粋な恐怖と驚愕に満ちた声が、静寂を切り裂く。慌てて立ち上がると、便器の穴からスライムが一体、ぬめりと這い上がってきていた。そのゼリー状の体は、まるで「もっとちょうだい」とせがむように、小刻みに震えている。
その絶叫は、即座に屋敷の住人たちを叩き起こした。
寝室の扉が次々と開き、皆が寝間着姿のまま廊下に飛び出してくる。ファカは毒のツルを構え、ムーは巨大な盾を携え、サリヴァは剣を抜き、ショウコとベニーは心配そうに後を追う。俺も眠い目をこすりながら、最後に姿を現した。
「シルフィ!? どうした、敵襲か!?」
俺の声が響く中、皆の視線がトイレの扉に集中する。シルフィは扉の隙間から顔を出し、頰を真っ赤に染め、両手でスカートを押さえながら慌てて出てきた。その瞳は涙で潤み、気品ある顔立ちが羞恥に歪んでいる。
「な、何か…冷たいものが、わたくしの……っ!」
言葉を濁すシルフィの姿に、ファカがくすりと笑みを漏らした。
「あらあら、夜のスライムに遭遇なさいましたのね。
あなたのような可憐な方に絡みつくとは、彼らもご満悦でしょう♡」
ムーが心配そうに近づく。
「大丈夫ですよ。スライムは私が便所に落としておきますので」
だがサリヴァは――
「……あの、冷たくてくすぐったい感じ、俺はちょっと気持ちいいと思うが……」
などと、顔を赤らめてなぜか共感するように呟いた。
ベニーまで苦笑しながら加わる。
「スライムに処理してもらえば、紙で拭かなくていいから楽っちゃ楽なんすけどね」
「お前ら……」
俺は少し呆れた。知りたくなかった真実がそこにあった。
ショウコはシルフィの肩を抱き、優しく慰める。
「シルフィ、恥ずかしがらないでくださいませ。
あれはただの習性ですわ。私たちも、最初は驚きましたから」
俺は苦笑いを浮かべ、皆をなだめた。
「まあ、大したことなくてよかった。
シルフィ、気にするな。俺も一度やられたことある。
……まあ、男だからまだマシだけどな」
その言葉に、シルフィの頰はさらに赤く染まり、両手で顔を覆ってしまった。
「カ、カイ! 気にします!
それに、とても大したことですわ!
もう、皆さんに見られてしまうなんて……
わたくし、こんな姿で……本当に、恥ずかしくて……」
彼女の声は震え、肩を縮こまらせて俯く。気高きエルフの姫が、こんな些細な出来事で赤面し、恥じらう姿はどこか愛らしく、皆の心を和ませた。
ファカが優しくシルフィの背を撫でながら囁く。
「ふふ、可愛らしい反応ですわね。
夜のスライムは危険、というルールは、こうして皆で共有していくものなのですから」
そう、この屋敷の女性たちの間では――「夜のスライムは危険」という暗黙のルールがある。もちろん、あくまで“ちょっとした刺激”でしかないのだが。
羞恥と便利さの板挟みで、彼女たちは今日もスライム便所に通うのであった。
屋敷のスライムは今日も元気に“お仕事”をしている




